『旧ビスタカー』(初代ビスタカー)
車両系式:10000系
登場初年:昭和33年(1958年)
全廃車年:昭和46年(1971年)
製造両数:7両(7連×1本)
「もはや戦後ではない」から始まった昭和30年代。
昭和33年に、当時の最新技術と数々の斬新なアイデアを詰め込んで造られた、10000系「ビスタカー」が登場しました。日本初の二階建て車両を連結するなど、わが国の鉄道史にも〝記録される〟画期的な車両になりました。
のちに近鉄特急の代名詞にもなった『ビスタカー』という愛称名が登場したのは、このときからです。二階建て車両からの眺望を売り込むべく、外国の優等列車にちなんで付けられた愛称名だというのが定説のようです。二階席の屋根がドーム型に突き出した構造だったので、ビスタドームとか、ドームカー、とも呼ばれたようです。
実際のところ、二階建て車両や連接構造の車体などの新機軸には試作的な意味合いが強く(各部にわたって可能な限り試作的要素を盛り込んだ、とも言われる)、10000系は二階建て車両を2両組み込んだ7両編成が1編成製造されただけでした。試作車の宿命か、仲間がいない〝ひとりぽっちのビスタカー〟だったのです。
翌年(昭和34年)に続いて登場することになる量産車両10100系「ビスタカー」(後述)に数々のデータを提供し、同時に、これに主役の座を取って代わられる運命でした。
昭和41年(1966年)に大阪線国分駅で事故に遭って先頭車を破損したことも、10000系の歴史のなかでは必ず語られます。事故復旧の修繕を受けて、見事に復帰を果たしたものの、独特の形状だった流線形は失われ、先頭車の顔つきが変わってしまいました。
事故復旧を果たすも、本線上ではすでに10100系などの後継車両の活躍がめざましく、10000系は活躍の場を失って戦線離脱、そのまま昭和46年(1971年)に全車廃車となりました。
登場から廃車までの在籍期間が13年間でした。これは、近鉄特急車両のなかで〝最も短い生涯〟として語り継がれています。
近鉄特急の車両史において、この10000系を呼ぶときは、『旧ビスタカー』というのが一般的です。初代ビスタカー、ビスタカーⅠ世、でも通じますが…。
車両系式:10000系
登場初年:昭和33年(1958年)
全廃車年:昭和46年(1971年)
製造両数:7両(7連×1本)
「もはや戦後ではない」から始まった昭和30年代。
昭和33年に、当時の最新技術と数々の斬新なアイデアを詰め込んで造られた、10000系「ビスタカー」が登場しました。日本初の二階建て車両を連結するなど、わが国の鉄道史にも〝記録される〟画期的な車両になりました。
のちに近鉄特急の代名詞にもなった『ビスタカー』という愛称名が登場したのは、このときからです。二階建て車両からの眺望を売り込むべく、外国の優等列車にちなんで付けられた愛称名だというのが定説のようです。二階席の屋根がドーム型に突き出した構造だったので、ビスタドームとか、ドームカー、とも呼ばれたようです。
実際のところ、二階建て車両や連接構造の車体などの新機軸には試作的な意味合いが強く(各部にわたって可能な限り試作的要素を盛り込んだ、とも言われる)、10000系は二階建て車両を2両組み込んだ7両編成が1編成製造されただけでした。試作車の宿命か、仲間がいない〝ひとりぽっちのビスタカー〟だったのです。
翌年(昭和34年)に続いて登場することになる量産車両10100系「ビスタカー」(後述)に数々のデータを提供し、同時に、これに主役の座を取って代わられる運命でした。
昭和41年(1966年)に大阪線国分駅で事故に遭って先頭車を破損したことも、10000系の歴史のなかでは必ず語られます。事故復旧の修繕を受けて、見事に復帰を果たしたものの、独特の形状だった流線形は失われ、先頭車の顔つきが変わってしまいました。
事故復旧を果たすも、本線上ではすでに10100系などの後継車両の活躍がめざましく、10000系は活躍の場を失って戦線離脱、そのまま昭和46年(1971年)に全車廃車となりました。
登場から廃車までの在籍期間が13年間でした。これは、近鉄特急車両のなかで〝最も短い生涯〟として語り継がれています。
近鉄特急の車両史において、この10000系を呼ぶときは、『旧ビスタカー』というのが一般的です。初代ビスタカー、ビスタカーⅠ世、でも通じますが…。
しかし、二階建て車両が50年近く前からあったとは知りませんでした。もっと最近のものだと思ってた……。
二階建て構造の研究(重心の問題とか)は当然のこと、連接構造や、空気ばね台車、新型モーターなど、試しておきたい技術がてんこ盛りだったようです。
この年(昭和33年)は、国鉄の「こだま型」特急電車がデビューした年でもあります。
大阪方から、10001-10002-10003-10004-10005-10006-10007 の7両編成。10003と10005が2階建ての「ドームカー」です。わかりやすい番号の付け方に試作車両的要素を強く感じます。ただ、関東の京成電鉄はこれと同じような車両番号の付け方ではなかったでしょうか?
名古屋方の先頭車10007号が昭和41年の事故で大破してしまったのですね。ちなみに昭和40年代、近鉄はよく事故を起こしていました。中でも昭和46年の大阪線青山トンネル付近での事故は大惨事でした…。
マニアックな存在の10000系ですが、それが鉄道ファンに受けるのか、模型も発売されているようです。10007号の「改造前」バージョンと「改造後」バージョンの両方が存在するのでしょうか?
13年の生涯は確かに短い。基本編成が7両というのも、使い勝手が悪かったのかも。10006-10007を切り離した5両編成でも走れたようですが。
鮮魚列車とかに使えなかったのかな。
使うわけないか…。