ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

①韓国文学②韓国漫画③韓国のメディア観察④韓国語いろいろ⑤韓国映画⑥韓国の歴史・社会⑦韓国・朝鮮関係の本⑧韓国旅行の記録

戦国時代の歌謡集『閑吟集』の魅力

2019-11-11 23:48:10 | エッセイ・雑文(韓国・朝鮮関係以外)
戦国時代の歌謡集『閑吟集』の魅力
     = 自分本位の仮想授業記録 =

 さあ、授業を始めるよー、席についてね。
 えーと、今日のテーマは戦国時代の歌謡ということで、『閑吟集』という歌謡集の中から作品をピックアップして見てみます。あ、〇〇君、「えーと」の数を数えるの、やめようね。
 さてと。作品といっても、今で言えば歌謡曲ね。だけど皆さん、音楽の授業で歌謡曲やったことある? そう、ないでしょ。なんでかというと、低俗な文化と見られているから。そういうものは学問・教育の対象としてふさわしくない、ということですよ、たぶん。歌謡曲にもじんとくる歌詞が一杯あるのにねー。「♪夜が冷たい 心が寒い」とか、って知らないか・・・。君たちのお父さんお母さんだったら『神田川』とか『天城越え』とかカラオケで歌ったりしてない? 他にもいろいろ・・・なんて言ってたらキリがないか。
 国語の教科書も大体音楽と一緒で通俗的なものはほとんど載ってません。たとえば落語とか、笑い話とかなぞなぞとか・・・。それに言葉あそび。地口って知ってる? 「その手は桑名の焼きはまぐり」とか言わない?・・・か。そうかそうか草加せんべい。
 で、国語で教わる歌集の系譜は『万葉集』『古今集』『新古今集』だよね。万葉以前にも『古事記』や『日本書紀』に俗謡っぽい歌がありますがね、「記紀歌謡」と言って・・・。
 『万葉集』には東歌・防人歌といった民衆の歌もあったというのは習ったね。それが平安時代以降になると和歌は貴族の文芸として、それも個人に属する表現様式として文学的に洗練されていきます。前に授業でやった藤原定家なんてホントにたいしたものですねー。
 では、その平安以降貴族じゃないフツーの人たちは歌と無縁だったかというと全然そうじゃないです。お百姓さんは田植え歌を歌ったり、祭の時にも歌は当然歌われたり・・・。そして旅回りの芸人なんかもいました。大体、洋の東西を問わず同じようなものじゃないですかねー。

 さて、やっと本題。『閑吟集』ですが、読みは「かんぎんしゅう」ね。「忙中閑あり」の「かん」。ヒマな時に歌う、といった意味かな。一五一八年成立っていうから、今から五百年くらい前ですね。応仁の乱が終わってからちょうど四十年後。秀吉の天下統一まで約五十年だから、戦国時代の真っただ中ですよ。これ、肝心!
 じゃ、最初の歌から。

 あまり言葉のかけたさに、あれ見さいなう、空行く雲の速さよ

 若い女性が、心ひそかに好意を持っている彼氏と一緒に歩いていると思ってください。二人きりか、もしかしたら何人か連れ立ってるかもしれません。
 彼女は、何か彼に話しかけたい。ところが話題が思いつかないんです。その時ふと目に留まったのが空の雲。それも、すごく速く風に流されて行くんですね。そこで思わず口をついて出た言葉が「あれごらんなさいよ、空を行く雲の早いこと!」。
 なんか微笑ましいですねー。恋愛初期の症状(?)をよく表してますね。僕が一番好きな小歌ですよ。あと紹介するのも全部自分好みね。それから、意味がわかりやすいこと。

 世間(よのなか)は霰(あられ)よなう 笹の葉の上の さらさらさつと 降るよなう

 この世はあられのようなものだ。笹の葉の上にさらさらさっと降っては過ぎてゆくなあ・・・。
 『閑吟集』の特色は、刹那的。そして感覚的。この小歌などはその典型ですね。あられも瞬時に消えて行くし・・・。「さらさらさっと」という擬態語が印象的ですね。なんだか、とても哀しい感じがしませんか?
 刹那的といえば「世間(よのなか)はちろりに過ぐる ちろりちろり」というのもありますよ。「ちろり」は、ほんの短い間。チラッと、という感じかな。こちらはなんとなくユーモラスですね。

 人は嘘にて暮らす世に なんぞよ 燕子(えんし)が実相を談じ顔なる

 なんせ戦国時代。下剋上の時代ですからねー。嘘がはびこる人間世界ですよ。そんな中で、梁だかに留まっている燕子(えんし)つまりツバメだけは真実を語り合っているようだ、というわけ。「嘘」の小歌は他にもありますよ。「梅花は雨に 柳絮(りゅうじょ)は風に 世はただ嘘に揉(も)まるる」。「柳絮(りゅうじょ)」は綿毛のついた柳の種。春に飛んでるのを見たことない?
 嘘もいろいろあって、政治家の嘘、商人の嘘、そして歌のネタでなんと言っても多いのが恋愛関係の嘘。だから今の歌謡曲にもずいぶん多いよね。「♪嘘と泪(なみだ)の しみついた どうせ私は 噂の女」なんて前川清も歌ってたねー。え、知らない? あ、そう。

 後影(うしろかげ)を見んとすれば 霧がなう 朝霧が

 これはもちろん後朝(きぬぎぬ)の歌ですね。なかにし礼作詞の「♪別れの朝~ふたりは~」という歌がありましたね。70年代初めか。その数年前に同じなかにし礼作詞で黛ジュンが歌ってヒットした「霧の彼方に」という歌がありましたが、そっちの方が合ってるかもね。「♪愛しながら別れた 二度と逢えぬ人よ 後姿さみしく 霧のかなたへ」というんですけどね。

 くすむ人は見られぬ 夢の夢の夢の世を 現顔(うつつがほ)して

 まじめくさった人なんて、見られたもんじゃない。夢の夢の夢のこの世の中を、さも冷めたような顔つきをして。
 「夢の」を三つも重ねちゃっていますよ。少なくとも、世の中をそう見る人にとってはまじめで分別くさい人は「見られたもんじゃない」となるわけです。うーむ、僕もそう言われそうだな、まじめだし・・・。あ、君なんで笑ってんの?
 では、どう生きればよいのかというと・・・。

 何せうぞ くすんで 一期(いちご)は夢よ ただ狂へ

 何になるのさ、まじめくさってみたところで。人の一生は夢さ。ただひたすら狂うことだよ。
 世の中をすごく否定的に捉えても、決して無常観に浸ったりしていませんね。逆に今という瞬間を懸命に生きようとしています。
 この「狂え」というのは必ずしも飲んで騒いでとかに限定しないで「風狂」と言った方がいいのかな。つまり「何か(風雅とか??)に徹する」といった意味が含まれていそう。
 この小歌は、『閑吟集』を代表する、いや、そればかりか、その当時の人々の感覚を象徴しているもののように思いますがどうでしょうかねー。

 むらあやでこもひよこたま

 なんかチンプンカンプンでしょ。これは逆から読むんです。「また今宵も来でやあらむ」。「彼氏はまた今夜も来ないのでしょうか?」です。これを逆にすることが彼氏が来るためのおまじないになるというわけ。そういう女性の俗信は昔からいろいろあったんですよ。小野小町の「いとせめて恋しきときはむばたまの夜の衣を返してぞ着る」という和歌は知ってるかな? 寝巻を裏返しに着ると恋しい彼の夢が見られるんですと。皆さん試してみたら? お母さんに見られたら「アンタ、どうしたの!?」ってなるから気をつけて。
 ひとつ前も夢の歌でしたが、皆さん、「はかない」って漢字書ける? にんべんに夢で儚い。漢字って深いなーってつくづく思うよ。
 夢の歌謡曲もいっぱいあるね。大瀧詠一の「夢で逢えたら」なんか名曲だよね。あれも歌謡曲って言っていいのかな?

 人買ひ舟は沖を漕ぐ とても売らるる身を ただ静かに漕げよ 船頭殿

 これはすごく気になっている小歌です。「どうせ売られてゆくこの身だから、せめて静かに漕いでください」という悲しい歌。人身売買で売られて行くこの女性が、これらの小歌を歌っている女性たちと重なるのですよ。人身売買というと、森鷗外の『山椒大夫』は読みましたか? あれも元は中世の話ですね。あの安寿と厨子王は地方の領主の荘園に奴隷として売られますが、芸人の女性もそういう人がけっこういたのでは、と思います。芸能人に対する差別はずっと昔からありました。歴史的に根の深い問題ですが、今はすっかりなくなったと皆さんは思いますか? この話は例の「慰安婦問題」にも絡んできそうですが、これ以上は今は措いておきます。少なくとも、いろんな事情で悲惨な境遇に生きてきた人を決して差別しないことです。

 えーと、今日は五百年という時代を超えて、もしかして現代の君たちにも直接通じるものがあるんじゃないかと思って戦国時代の小歌を紹介しましたが、どうだったかな?
 僕が残念なのは、どんなメロディで歌われたかよくわからないこと。伴奏楽器は尺八と、それから三味線は16世紀の後半頃からかなあ・・・。
 「歌は世につれ世は歌につれ」というけど、歌を中心にして歴史を見るのも楽しいよね、・・・と言いつつ、今回は個人的趣味に走って皆さんの知らない歌を歌ったりして悪かったですね。じゃ、おしまい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする