ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

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「北朝鮮帰還事業開始から50年」の報道から考える

2009-12-19 23:40:29 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 12月14日(月)は、1959年12月14日、新潟港から北朝鮮帰還の第1船が在日朝鮮人とその家族ら975人出港してからちょうど50年目の日。
 「毎日新聞」夕刊には、<北朝鮮生活「つまらん青春」-「祖国」脱出の男性>という見出しで、朝鮮半島南部の出身でありながら北の「祖国」へ帰還し、その後脱北して東京都内のアパートに住む60歳代の在日朝鮮人2世の男性に取材した記事を載せていました。(この男性の実名は記されていません。)

 他の新聞各紙はどう伝えているかなと検索して見てみると、量的にはあまり変わらず。内容も、日本人妻の安否確認や帰国を求める集会が開かれたことを伝える記事と、この「毎日」のように脱北して帰国した人、あるいは身内が北朝鮮に行ったという人についての記事。

 この帰還事業には、マスコミ自体も大きな役割を果たしたようで、1959年当時はもっと大々的にそのニュースを取り上げたはずです。
 その後50年、まさかこのようなことになってしまうとは、ほとんどの人が予測できなかったとは思います。しかし、やはりマスコミとしては自身の反省も含めて、現在の状況をもっと大きく報道すべきだというのが私ヌルボの感想&意見です。

 ただ、関係記事を検索した中で、「毎日新聞」の新潟版で「ボトナムは知っている:北朝鮮帰還事業50年」と題した企画連載記事を載せているのが目にとまりました。

 毎日目を通していたのですが、いろいろな立場の関係者を訪ねて直接話を聞いているという多角的取材で、なかなか内容のある記事だと思いました。(とくに、50年前に平壌まで行って帰還者歓迎のようすを現地取材した当時の「毎日」の記者の話を聞きに行っている点などが良い。) 今日最終の10回目がupされたので紹介しておきます。
 ※2024年6月12日の付記 以下1~10のリンクは現在切れています。ただ「1 植樹の日に生まれて」については→コチラ
の記事を参照のこと。











 各記事の具体的内容をみると、無残としか言いようのない事例がいくつもあります。
 たとえば・・・・

 「80年ごろ、万景峰(マンギョンボン)号で一度だけ兄に会いに行った。アパートから白髪で前歯のない女性が出てきた。兄の妻だった。とても40代に見えなかった。
 親族訪問の時は、特別に配給があるという。ひからびたタコやイカを水で戻して出されたが、女性ははしを付けられなかった。兄の家族は「こんなの普段は口にできない」と喜んで食べた。
 14歳のめいは、親指ほどしか映る部分のない古い手鏡を、顔の前であちこち動かしていた。日本から持ってきた手鏡を貸してあげると、めいは食い入るように見つめ、「自分の顔、初めて見た」とつぶやいた。」

 「近所の日本人妻は食料が尽き、動けなくなった。17歳の息子が母に食べさせようとパンを盗んだが、見つかって銃殺刑になった。処刑場には小中学生も動員される。怖くて直視できなかったが、同情の言葉を口にする人はいなかった。体制への批判的な言葉を口にしようものなら「明日は我が身」だった。」

 また、私ヌルボが初めて知ったこともいろいろありました。たとえば・・・
・「北緯38度線は、新潟をも貫く。」
・「新潟は堀のほとりにしだれていた柳の美しさから「柳都」と呼ばれた。平壌もまた「柳京」の異名をもつ。柳が植樹されたこの道を、北村一男知事(当時)が「ボトナム(朝鮮語で柳のこと)通り」と名付けた。」
 ※<ポドゥナム.버드나무>が原音に近いのですが・・・。ヌルボは平壌=「柳京」は知っていましたが、新潟も「柳都」だったんですね。平壌にある柳京ホテルは有名ですね。
・「帰還事業が始まった当初、日本人の里帰りは想定されていなかった。」

 総じて、<帰還事業開始から50年>関係の報道をみると、<帰還者>を人質に取られている家族の口が重く、また脱北し帰国した人も自身の安全を懸念して(?)表立った発言はしにくく、またマスコミ自身も何らかの気がね(?)のようなものがあって書かないか書けないものがいろいろあるように思われます。
 それって一体なんなんでしょうかね? 私ヌルボなりに考えていることもあるのですが、それはまたいずれ・・・。