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「姫の前」、後鳥羽院宮内卿、後深草院二条の点と線(その7)

2020-03-14 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 3月14日(土)16時15分54秒

前回投稿でチラッと書いた『古今著聞集』の宮内卿の話ですが、確認してみたら宮内卿が甥と関係を持ったという内容でした。
永積安明・島田勇雄校注『日本古典文学大系84 古今著聞集』(岩波書店、1966)の巻第八(好色第十一)から引用してみます。(p258)

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三二八 宮内卿男疎遠の時詠歌の事

 宮内卿は、娚にてある人に名たちし人也。おとこかれがれになりにけるとき、よみ侍ける、

  都にも有けるものをさらしなやはるかにきゝしおばすての山
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本文はたったこれだけです。
宮内卿は甥と男女の関係にあるという評判が立った人で、男の来訪が途絶えがちになったとき、姨捨山は遥かに遠い信濃の更科だけではなく都にもあるのだなあと詠んだ、とのことで、山の名と「叔母を捨てた」を掛けている訳ですね。
「娚」に付された注記に「諸本『娚』。版本「娚<をひ>」のふりがなによる。俊信男俊平、具親男輔通・輔時がある」とあります。
『尊卑分脈』を見ると、源師光の子には俊信・具親・泰光・尋恵(山)・澄覚(山)・女子(歌人・後鳥羽院宮内卿)の順で六人の子女がいることになっていますが、俊信に「本名泰光」と付されていて、諸本に異同があるものの、二人は「恐重複」であることを『尊卑分脈』自体が認めています。
『公卿補任』宝治二年(1248)によれば、泰光は同年に八十二歳なので、逆算すると仁安二年(1167)生まれとなり、井上宗雄氏が治承(1177~81)の頃に生まれたと推定されている具親よりかなり年上ですね。
具親男の輔通は元久元年(1204)生まれで、輔時はその弟ですから、この二人は宮内卿没後の誕生となります。
従って、仮に『古今著聞集』の好色話が事実であれば、宮内卿の相手は泰光(=俊信)男の俊平となりそうです。
ま、真実であるかどうかは確かめようもありませんが、『古今著聞集』の編者に宮内卿に対する悪意があることは間違いないですね。
ちなみに、この宮内卿の話の三つ後に「三三一 後嵯峨天皇某少将の妻を召す事並びに鳴門中将の事」という後嵯峨院への悪意を窺わせる好色話が載っています。

「後嵯峨天皇、なにがしの少将の妻を召す事」(『新潮日本古典集成 古今著聞集上』)
http://web.archive.org/web/20061006214559/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-kokonchomonju-gosaga.htm

『古今著聞集』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%8A%E8%91%97%E8%81%9E%E9%9B%86
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