投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月16日(月)10時30分51秒
『難太平記』で『太平記』に言及している七つの記事の内、最後の二つは読み応えがありますね。
まず、「15.青野原合戦事」は暦応元年(1338)、北畠顕家が二度目の上洛軍を率いてきて青野原で合戦になったとき、了俊の父・範国が配下から「こんな馬鹿な大将は焼き殺した方がましだ」と言われたという強烈なエピソードを載せています。
「現代語訳 難太平記」(『芝蘭堂』サイト内)
http://muromachi.movie.coocan.jp/nantaiheiki/nantaiheiki13.html
面白いので、原文(『群書類従』第二十輯、合戦部)を丁寧に紹介してみます。
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建武四年やらん。康永元年やらんに。奥勢とて北畠源大納言入道の子息顕家卿三十万騎にて押て上洛せしに。桃井駿河守に<今播磨守>。宇津宮勢三浦介以下為味方自跡おそひ上りしに。故入道殿は其時は遠江国三倉山に陣どりて。此御方の勢に馳加て海道所々にて合戦なり。自三河国又吉良右兵衛督<于時兵衛佐>。満義朝臣。高刑部大輔。三河勢など馳加て。二千余騎にて美濃国黒田に着けるに。当国の守護人土岐弾正少弼頼遠。土岐山よりうち出て。青野原にてもみ合べしと申けるに。明日の合戦一大事とて海道勢三手に分て。一二三番の籤を取て入替々々せらるべしとてくじをとられしに。桃井。宇津宮勢は一くじ。故殿。三浦介は二のくじ。吉良。三河勢。高刑部は三籤也。桃井勢はみなたかの鈴をつけたり。故殿笠じるしを思案し給ひけるに。あか鳥を馬に付ばやとて其夜俄に付られき。
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建武四年(1337)も康永元年(1342)も両方間違いなので、了俊の記憶力に若干の疑念を抱かざるを得ない始まり方です。
顕家が率いた軍勢が三十万騎というのは過大な感じがしますが、『太平記』(西源院本)では五十万騎と書いた直ぐ後に六十万騎にしています(兵藤校注『太平記(三)』、p331・332)。
まあ、三十万騎でも大幅な水増しであることは間違いなく、了俊も軍勢の数についてはそれほど正確さを求めないようですね。
また、幕府側が籤で出陣の順序を決めたという話は『太平記』にも出てきますが、こちらは五番に分けていて、
一番 小笠原信濃守(貞宗)・芳賀清兵衛入道禅可
二番 高大和守(重茂)
三番 今川五郎入道(範国)・三浦新介(高継)
四番 上杉民部大輔(憲顕)・上杉宮内少輔(憲成)
五番 桃井播磨守直常・土岐弾正少弼頼遠
となっています(兵藤校注『太平記(三)』、p334以下)。
さて、「15.青野原合戦事」の続きです。
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稲垣八郎。米倉八郎左衛門。かが爪又三郎。平賀五郎など云若者共申けるは。籤はさることなれ共。当手の人の中に少々一番勢の前がけをすべしとて。以上十一騎桃井より先に赤坂口あめ牛山と云処に駆上けるを。御方は敵の馳上事かと見けるに。一番に上ける蘆毛なる馬に乗たる武者切落され。次々の武者皆切殺されて麓にころびたる時。味方とみければ一番勢合戦始けるに。桃井。宇津宮勢等うち負しかば。赤坂宿の南をくゐ瀬河に退けり。故入道殿入替られて敵山内と云けるもの以下打とり給ひて。西のなはて口にてほろかけ武者二騎を故殿射落し給ひし也。猶敵支ける間。くゐ瀬川の堤の上にの家ありけるにおりゐ給ひけり。夜に入て雨降しかば。敵重てかからぬ時。黒田の味方に加り給べしと人々申けるを。只是にて明日御方を可待と被仰ければ。米倉八郎右衛門。手負ながら有けるが云く。如此のおこがましき大将をば焼ころすにしかじとて火を付ければ。力なく此あかりにて黒田に被加けり。
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攻撃の順番を籤で決めたのに、今川範国配下の「稲垣八郎。米倉八郎左衛門。かが爪又三郎。平賀五郎など云若者共」合計十一騎が勝手に「桃井より先に赤坂口あめ牛山と云処に駆上」ったものの、「次々の武者皆切殺されて麓にころびたる」という悲惨な状況になってしまった、ただ、それが開戦のきっかけとなった、とのことで、まあ、今川家にとってはそれなりに大事な話ですね。
そして、「故入道殿」範国の活躍が少し描かれた後、再び「米倉八郎右衛門」が登場します。
範国が「くゐ瀬川の堤の上」の「の家」で休んでいて、そのまま夜に入って雨になり、敵の重ねての攻撃が止んだとき、「黒田の味方に加り給べし」と「人々」が言ったにも拘らず、範国が「只是にて明日御方を可待」などとグズグズしていたところ、手負いの「米倉八郎右衛門」が、こんな馬鹿な大将は焼き殺した方がましだ、と言って「の家」に火を付けたので、範国も仕方なく「此あかりにて黒田に被加けり」という展開です。
死んだはずの「米倉八郎左衛門」が「米倉八郎右衛門」になって再登場していますが、まあ、「皆切殺されて」は言葉の綾で、「左衛門」と「右衛門」の違いも単なる誤記なのでしょうね。
途中ですが、いったんここで切ります。
それにしても、了俊は父親が配下から「如此のおこがましき大将をば焼ころすにしかじ」と罵倒されたという不名誉なエピソードを、何故こんなに淡々と記すのか。
『難太平記』で『太平記』に言及している七つの記事の内、最後の二つは読み応えがありますね。
まず、「15.青野原合戦事」は暦応元年(1338)、北畠顕家が二度目の上洛軍を率いてきて青野原で合戦になったとき、了俊の父・範国が配下から「こんな馬鹿な大将は焼き殺した方がましだ」と言われたという強烈なエピソードを載せています。
「現代語訳 難太平記」(『芝蘭堂』サイト内)
http://muromachi.movie.coocan.jp/nantaiheiki/nantaiheiki13.html
面白いので、原文(『群書類従』第二十輯、合戦部)を丁寧に紹介してみます。
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建武四年やらん。康永元年やらんに。奥勢とて北畠源大納言入道の子息顕家卿三十万騎にて押て上洛せしに。桃井駿河守に<今播磨守>。宇津宮勢三浦介以下為味方自跡おそひ上りしに。故入道殿は其時は遠江国三倉山に陣どりて。此御方の勢に馳加て海道所々にて合戦なり。自三河国又吉良右兵衛督<于時兵衛佐>。満義朝臣。高刑部大輔。三河勢など馳加て。二千余騎にて美濃国黒田に着けるに。当国の守護人土岐弾正少弼頼遠。土岐山よりうち出て。青野原にてもみ合べしと申けるに。明日の合戦一大事とて海道勢三手に分て。一二三番の籤を取て入替々々せらるべしとてくじをとられしに。桃井。宇津宮勢は一くじ。故殿。三浦介は二のくじ。吉良。三河勢。高刑部は三籤也。桃井勢はみなたかの鈴をつけたり。故殿笠じるしを思案し給ひけるに。あか鳥を馬に付ばやとて其夜俄に付られき。
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建武四年(1337)も康永元年(1342)も両方間違いなので、了俊の記憶力に若干の疑念を抱かざるを得ない始まり方です。
顕家が率いた軍勢が三十万騎というのは過大な感じがしますが、『太平記』(西源院本)では五十万騎と書いた直ぐ後に六十万騎にしています(兵藤校注『太平記(三)』、p331・332)。
まあ、三十万騎でも大幅な水増しであることは間違いなく、了俊も軍勢の数についてはそれほど正確さを求めないようですね。
また、幕府側が籤で出陣の順序を決めたという話は『太平記』にも出てきますが、こちらは五番に分けていて、
一番 小笠原信濃守(貞宗)・芳賀清兵衛入道禅可
二番 高大和守(重茂)
三番 今川五郎入道(範国)・三浦新介(高継)
四番 上杉民部大輔(憲顕)・上杉宮内少輔(憲成)
五番 桃井播磨守直常・土岐弾正少弼頼遠
となっています(兵藤校注『太平記(三)』、p334以下)。
さて、「15.青野原合戦事」の続きです。
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稲垣八郎。米倉八郎左衛門。かが爪又三郎。平賀五郎など云若者共申けるは。籤はさることなれ共。当手の人の中に少々一番勢の前がけをすべしとて。以上十一騎桃井より先に赤坂口あめ牛山と云処に駆上けるを。御方は敵の馳上事かと見けるに。一番に上ける蘆毛なる馬に乗たる武者切落され。次々の武者皆切殺されて麓にころびたる時。味方とみければ一番勢合戦始けるに。桃井。宇津宮勢等うち負しかば。赤坂宿の南をくゐ瀬河に退けり。故入道殿入替られて敵山内と云けるもの以下打とり給ひて。西のなはて口にてほろかけ武者二騎を故殿射落し給ひし也。猶敵支ける間。くゐ瀬川の堤の上にの家ありけるにおりゐ給ひけり。夜に入て雨降しかば。敵重てかからぬ時。黒田の味方に加り給べしと人々申けるを。只是にて明日御方を可待と被仰ければ。米倉八郎右衛門。手負ながら有けるが云く。如此のおこがましき大将をば焼ころすにしかじとて火を付ければ。力なく此あかりにて黒田に被加けり。
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攻撃の順番を籤で決めたのに、今川範国配下の「稲垣八郎。米倉八郎左衛門。かが爪又三郎。平賀五郎など云若者共」合計十一騎が勝手に「桃井より先に赤坂口あめ牛山と云処に駆上」ったものの、「次々の武者皆切殺されて麓にころびたる」という悲惨な状況になってしまった、ただ、それが開戦のきっかけとなった、とのことで、まあ、今川家にとってはそれなりに大事な話ですね。
そして、「故入道殿」範国の活躍が少し描かれた後、再び「米倉八郎右衛門」が登場します。
範国が「くゐ瀬川の堤の上」の「の家」で休んでいて、そのまま夜に入って雨になり、敵の重ねての攻撃が止んだとき、「黒田の味方に加り給べし」と「人々」が言ったにも拘らず、範国が「只是にて明日御方を可待」などとグズグズしていたところ、手負いの「米倉八郎右衛門」が、こんな馬鹿な大将は焼き殺した方がましだ、と言って「の家」に火を付けたので、範国も仕方なく「此あかりにて黒田に被加けり」という展開です。
死んだはずの「米倉八郎左衛門」が「米倉八郎右衛門」になって再登場していますが、まあ、「皆切殺されて」は言葉の綾で、「左衛門」と「右衛門」の違いも単なる誤記なのでしょうね。
途中ですが、いったんここで切ります。
それにしても、了俊は父親が配下から「如此のおこがましき大将をば焼ころすにしかじ」と罵倒されたという不名誉なエピソードを、何故こんなに淡々と記すのか。
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