投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 5月 9日(土)22時34分18秒
それでは久しぶりに鎌倉時代の上杉氏について検討します。
久保田順一氏の『上杉憲顕』(戎光祥出版、2012)に掲載されている「系図2 勧修寺流と土御門流王家との関係」(p22)を見ると、右側に顕憲・盛憲・清房以下の上杉一族が並び、左側に源通親を中心とする、久保田氏の造語らしい「土御門流王家」のメンバーが並んでいてなかなかの壮観ですが、両者を繋ぐ位置に存在するのが「能円」という僧侶です。
https://twitter.com/koottayokan/status/1253331156675616772
顕憲の子の盛憲と能円が兄弟で、この能円に「承明門院 在子」と「信子」の二人の娘がいて、「承明門院 在子」は後鳥羽妃となり、「信子」は通親の子の(堀河)通具の室となって嫡子・具実と僧籍に入った行空を生み、行空の女子が承明門院と後鳥羽天皇の間に生まれた土御門天皇の孫の宗尊親王に嫁して「永嘉門院 瑞子」と真覚という僧侶を生んでいます。
私はこの図を見るまで永嘉門院と(堀河)通具の関係に気づいていなかったので、なるほどな、と感心したのですが、しかし、改めて能円がいかなる人物であったを考えると、果たして能円は上杉一族と「土御門流王家」を繋ぐ存在たり得たのか、上杉一族と「土御門流王家」との間に、当事者が強く意識するような関係が本当にあったのか、極めて疑問に思えてきます。
能円(1140-99)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%BD%E5%86%86
能円についてはウィキペディアあたりにもそれなりの説明がありますが、より正確を期すため、橋本義彦氏の『人物叢書 源通親』(吉川弘文館、1992)を少し引用したいと思います。
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平安末から鎌倉初期、乱世を積極的に生きぬいた公家政治家。通説を排し足跡辿り全体像を描く。
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b33549.html
同書は、
はしがき
第一 村上の源氏
第二 朝廷出仕
第三 朝政参議
第四 源平争乱の渦
第五 天下草創の秋
第六 院近臣の歩み
第七 朝幕関係の新展開
第八 源博陸
第九 続発する都下騒擾
第十 栄光の晩年
むすび─通親以後
(附)久我源氏中院流家領と通親
と構成されていますが、「第五 天下草創の秋〔とき〕」の第二節の冒頭を引用します。(p78以下)
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二 御乳父〔おんめのと〕
ところで後鳥羽天皇が践祚するや、通親の地位に一つの変化が起った。天皇の御乳母〔おんめのと〕の一人、藤原範子を妻に迎えて、御乳母の夫、すなわち御乳父〔おんめのと〕となったのである。範子は従三位刑部卿藤原(高倉)範兼の女で、法勝寺執行能円に嫁し、在子(のちの承明門院)を生んだ。範子は藤原氏南家の末流に属する儒臣であるが、長寛三年(一一六五)四月没したので、以後範子は範兼の養子(実は弟)範季の庇護のもとにあった。また能円は少納言藤原顕憲の男で、その母は二条大宮すなわち太皇太后令子内親王の女房であるが、この女房はのちに平時信に嫁して、時忠や清盛妻時子を生んだので、能円は時忠・時子と異父兄弟の関係にあって、清盛に近侍していた。『愚管抄』には、能円は時子が「子ニシタル者」にて、その縁で範子が皇子(後鳥羽)の乳母になったのであると説明している。
ところが平氏一門の西下に際して、能円は平氏と行を共にしたが、範子は都に留まって範季とともに幼少の皇子の養育に当り、程なくその皇子が践祚したので、範季の地歩は一挙にたかまり、法皇の近臣の列に加わった。のちに『愚管抄』の著者慈円は、「コノ範季ハ後鳥羽院ヲヤシナイタテマイラセテ、践祚ノ時モヒトヘニサタシマイラセシ人也」と述べている。通親はこの範子を迎えて妻室とし、在子をも引き取って養女としたのである。その時期はいま確定できないが、範子が通親の妻となって最初に生んだ男子通光は文治三年(一一八七)の誕生であるから、平氏西下の寿永二年八月以後、文治三年以前、恐らく平氏滅亡後の文治元年ないし二年の間ではなかろうか。なお、能円は西下後も範季に平氏の情勢を通報しているが、檀浦合戦後、宗盛・時忠らととともに捕えられて帰洛し、ついで備中に配流された。それはとも角、後鳥羽天皇の御乳母を妻とした通親は天皇の御乳父ということになったが、御乳父が天皇の後見として宮廷内外に勢威をふるった例は少なくなく、これが爾後の通親の活躍を支える重要な足場となったことは疑いない。
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要するに藤原範子の先夫である能円は平家とともに滅んだ過去の人で、能円に代わって藤原範子を正室に迎え、後鳥羽天皇の「御乳父」として「活躍を支える重要な足場」を得た源通親、そして通親の子孫である村上源氏やその周辺の人々にとっては能円などどうでもよい存在、というか忘れ去りたい過去の遺物ですね。
また、上杉一族にとっても、別に能円は自慢できる先祖ではなく、その血縁があることをもって有力者への接近の材料とできるような存在でもなかったはずです。
綺麗な系図を描いて、その系図だけで人間関係をあれこれ想像するのは、中世史研究者が嵌りやすい陥穽の一つではないかと思います。
それでは久しぶりに鎌倉時代の上杉氏について検討します。
久保田順一氏の『上杉憲顕』(戎光祥出版、2012)に掲載されている「系図2 勧修寺流と土御門流王家との関係」(p22)を見ると、右側に顕憲・盛憲・清房以下の上杉一族が並び、左側に源通親を中心とする、久保田氏の造語らしい「土御門流王家」のメンバーが並んでいてなかなかの壮観ですが、両者を繋ぐ位置に存在するのが「能円」という僧侶です。
https://twitter.com/koottayokan/status/1253331156675616772
顕憲の子の盛憲と能円が兄弟で、この能円に「承明門院 在子」と「信子」の二人の娘がいて、「承明門院 在子」は後鳥羽妃となり、「信子」は通親の子の(堀河)通具の室となって嫡子・具実と僧籍に入った行空を生み、行空の女子が承明門院と後鳥羽天皇の間に生まれた土御門天皇の孫の宗尊親王に嫁して「永嘉門院 瑞子」と真覚という僧侶を生んでいます。
私はこの図を見るまで永嘉門院と(堀河)通具の関係に気づいていなかったので、なるほどな、と感心したのですが、しかし、改めて能円がいかなる人物であったを考えると、果たして能円は上杉一族と「土御門流王家」を繋ぐ存在たり得たのか、上杉一族と「土御門流王家」との間に、当事者が強く意識するような関係が本当にあったのか、極めて疑問に思えてきます。
能円(1140-99)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%BD%E5%86%86
能円についてはウィキペディアあたりにもそれなりの説明がありますが、より正確を期すため、橋本義彦氏の『人物叢書 源通親』(吉川弘文館、1992)を少し引用したいと思います。
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平安末から鎌倉初期、乱世を積極的に生きぬいた公家政治家。通説を排し足跡辿り全体像を描く。
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b33549.html
同書は、
はしがき
第一 村上の源氏
第二 朝廷出仕
第三 朝政参議
第四 源平争乱の渦
第五 天下草創の秋
第六 院近臣の歩み
第七 朝幕関係の新展開
第八 源博陸
第九 続発する都下騒擾
第十 栄光の晩年
むすび─通親以後
(附)久我源氏中院流家領と通親
と構成されていますが、「第五 天下草創の秋〔とき〕」の第二節の冒頭を引用します。(p78以下)
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二 御乳父〔おんめのと〕
ところで後鳥羽天皇が践祚するや、通親の地位に一つの変化が起った。天皇の御乳母〔おんめのと〕の一人、藤原範子を妻に迎えて、御乳母の夫、すなわち御乳父〔おんめのと〕となったのである。範子は従三位刑部卿藤原(高倉)範兼の女で、法勝寺執行能円に嫁し、在子(のちの承明門院)を生んだ。範子は藤原氏南家の末流に属する儒臣であるが、長寛三年(一一六五)四月没したので、以後範子は範兼の養子(実は弟)範季の庇護のもとにあった。また能円は少納言藤原顕憲の男で、その母は二条大宮すなわち太皇太后令子内親王の女房であるが、この女房はのちに平時信に嫁して、時忠や清盛妻時子を生んだので、能円は時忠・時子と異父兄弟の関係にあって、清盛に近侍していた。『愚管抄』には、能円は時子が「子ニシタル者」にて、その縁で範子が皇子(後鳥羽)の乳母になったのであると説明している。
ところが平氏一門の西下に際して、能円は平氏と行を共にしたが、範子は都に留まって範季とともに幼少の皇子の養育に当り、程なくその皇子が践祚したので、範季の地歩は一挙にたかまり、法皇の近臣の列に加わった。のちに『愚管抄』の著者慈円は、「コノ範季ハ後鳥羽院ヲヤシナイタテマイラセテ、践祚ノ時モヒトヘニサタシマイラセシ人也」と述べている。通親はこの範子を迎えて妻室とし、在子をも引き取って養女としたのである。その時期はいま確定できないが、範子が通親の妻となって最初に生んだ男子通光は文治三年(一一八七)の誕生であるから、平氏西下の寿永二年八月以後、文治三年以前、恐らく平氏滅亡後の文治元年ないし二年の間ではなかろうか。なお、能円は西下後も範季に平氏の情勢を通報しているが、檀浦合戦後、宗盛・時忠らととともに捕えられて帰洛し、ついで備中に配流された。それはとも角、後鳥羽天皇の御乳母を妻とした通親は天皇の御乳父ということになったが、御乳父が天皇の後見として宮廷内外に勢威をふるった例は少なくなく、これが爾後の通親の活躍を支える重要な足場となったことは疑いない。
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要するに藤原範子の先夫である能円は平家とともに滅んだ過去の人で、能円に代わって藤原範子を正室に迎え、後鳥羽天皇の「御乳父」として「活躍を支える重要な足場」を得た源通親、そして通親の子孫である村上源氏やその周辺の人々にとっては能円などどうでもよい存在、というか忘れ去りたい過去の遺物ですね。
また、上杉一族にとっても、別に能円は自慢できる先祖ではなく、その血縁があることをもって有力者への接近の材料とできるような存在でもなかったはずです。
綺麗な系図を描いて、その系図だけで人間関係をあれこれ想像するのは、中世史研究者が嵌りやすい陥穽の一つではないかと思います。
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