学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学の中間領域を研究。

radishのように。

2008-07-19 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 7月19日(土)01時37分5秒

>筆綾丸さん
日野資朝が京極派=持明院統をどのように考えていたのかという問題と、兼好が京極為兼の捕縛話の直後に盆栽の話を配列したのはどのような意図によるものなのか、という二つの問題がありますね。
前者は結局のところ日野資朝の内心の問題であり、判断材料があまりに少ないですね。
他方、二条派の「和歌四天王」のひとりである兼好が京極派に対して、要するに京極派など、ひねくれた盆栽にすぎないと思っており、その意図を日野資朝の二つのエピソードの配列によって示したのだと考えることは、それなりに説得的な推論ではないかと思います。
最近の国文学界では、岩佐美代子氏をはじめとして多くの有力学者が京極派を誉めるので、京極派の悪口は何となく言いづらいのですが、少なくとも兼好にとってみれば、京極派など狭い世界に閉じこもってチマチマした観念論をこね回している鬱陶しい連中であって、根こそぎ捨て去ることができたら気分がよかろう、くらいなことは思っていたような感じがします。

>後伏見上皇書状
辻彦三郎氏が「後伏見上皇院政謙退申出の波紋─西園寺実兼の一消息をめぐって─」で描き出した人間関係は不可解な部分がありますね。
以前読んだときは、どうにも落ち着かない気持ちになってそのままにしていたですが、丁寧に再読してみたいと思います。
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