何故に慈光寺本では西園寺家の使者が登場しないのかについては、単純に知らなかった可能性はもちろんあるでしょうが、慈光寺本作者は西園寺家を無視する傾向が強いので、その現われの可能性もありますね。
もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その25)─「十善ノ君ノ宣旨ノ成様ハ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5bff55e756146f37e86ea769222736e3
また、流布本では西園寺家の使者のみならず、京都守護・伊賀光季の使者まで登場せず、さすがに不自然な感じがします。
ただ、こうしたシンプルな構成とした上で、三浦義村が北条義時に卑屈な態度を取っているので、義時の指導者としての卓越性が強調されているようにも思えます。
流布本での政子の演説は愚痴が八割で、全然格調が高くありませんが、これも義時の引き立て役とするためと考えれば一応の説明が可能となりそうです。
流布本も読んでみる。(その12)─「尼程物思たる者、世に非じ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b9854a9a3a206b7a5b3ad99fd91c09cf
政子の演説は流布本より慈光寺本の方が格調が高くなっていますが、構成は流布本とよく似ていますね。
流布本も読んでみる。(その14)─慈光寺本の政子の演説との比較
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/00bd3e649b0356c54796c755db41a69e
演説の格調の高さという点では『吾妻鏡』が一番ですが、これは『吾妻鏡』が『六代勝事記』を借用しているためであることが平田俊春氏の研究で明らかになっています。
さて、流布本・慈光寺本・『吾妻鏡』において、義時はどのように描かれているのか。
まず流布本では、自分の首を取ったらどうだ、と冗談を言う義時に対して、三浦義村が「平家追討より以来、度々の戦に忠節を致し、一度も不忠の儀候はず。自今以後も又、疎略を不可存」と誓約し、この約束を破ったら神仏の罰を蒙ると言います。
このように三浦義村は北条義時に忠誠を誓う立場ですが、ただ、義時が政子の許に行く際には「駿河守を相具して」おり、その点では義村も他の御家人とは別格とされている感じです。
そして、政子のあまり格調の高くない演説で十九日は終り、翌二十日に義時邸で「軍の僉議評定」が始まると、最初に「武蔵守」泰時が「是程の御大事、無勢にては如何が有べからん。両三日も被延引候て、片田舎の若党・冠者原をも召具候ばや」と発言します。
すると義時は激怒し(「権大夫、大に瞋りて」)、泰時を「不思議の男の申様哉」と痛罵し、「自分は「君」(後鳥羽院)に忠のみあって不義はない。他人の讒言に依って朝敵にされてしまった以上、どれほどの大軍を集めようと、自分が天命に背いていたら「君」には勝てないはずだ。今や、ただ自分の「果報」に任せるしかない。一天の君を敵にして、対処を遅らせるべきではない。早く上洛せよ、直ちに打立て」と激を飛ばします。
義時の主張は、じっくり考えてみるとどのように論理がつながっているのか分かりにくいところもありますが、とにかく流布本での義時は一切の逡巡を見せない断固たる指導者であり、独裁者的な雰囲気も漂わせています。
流布本も読んでみる。(その13)─「一天の君を敵に請進らせて、時日を可移にや。早上れ、疾打立」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/64c7d8a7d233b802827b85946ddb2266
これに対し、そもそも後鳥羽院より先に大変な野心家・独裁者として登場していたはずの慈光寺本の義時に対して、三浦義村は流布本のように卑屈ではなく、まるで対等な相手のように接しています。
「軍ノ僉議」の場では、泰時に激怒するような場面もありません。
ただ、「義時ハ此ニ居ナガラ、手際ノ軍場ハ兼テ知タリ」という具合いに軍事面での指導者としては自分の能力を確信していますね。
流布本に比べると政子の演説が格調高いこともあり、流布本のように義時一人が堂々たる指導者・独裁者という雰囲気ではありませんが、まあ、義時は、少なくとも軍事面では迷いのない指導者です。
もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その29)─「数ノ染物巻八丈、夷ガ隠羽、一度モ都ヘ上セズシテ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0158cea1e24a32f59a83f766a2e2bfe3
さて、流布本・慈光寺本に比べると、我々が『吾妻鏡』で知っている義時は、ちょっと情けない指導者ですね。
『吾妻鏡』では政子の演説は極めて格調が高く、少なくとも精神面においては政子が別格の指導者であることが強調されています。
そして、五月十九日の政子の演説の後、義時邸で時房・泰時・大江広元・三浦義村・安達景盛らが評議しますが、足柄・箱根で敵を待つという消極策を大江広元が批判し、義時は両案を政子に示したところ、政子が広元案に賛成し、迅速な派遣が決まります。
ところが、二十一日になって、再び消極策が蒸し返されたのに対し、改めて大江広元が早期出陣を主張し、義時は広元の意見に感心はしたものの、宿老の三善康信(善信)の意見も聞いたいということで、政子の許に招くと、康信も広元案に賛成したので、義時は「両者の意見が一致したのは神仏の御加護である。早く出発せよ」と泰時に指示します。
ここにはおよそ独裁者的な雰囲気はないどころか、指導者としても義時はずいぶん頼りなく、あちこちに意見を聞いてやっと決断する優柔不断な人物として描かれていますね。