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孤独な知識人・藤原秀能について(その1)

2023-04-13 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

※追記(2023年4月24日)
流布本作者を藤原秀能とする仮説は無理が多く、全面的に撤回しましたが、この記事はそのまま残しておきます。

流布本作者=藤原秀能との仮説は全面的に撤回します。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9ab913546709680fe4350d606a965d81

 

先月二十六日、流布本『承久記』の作者が藤原秀能ではないかとの仮説を提示して以降、平岡豊氏「藤原秀康について」シリーズを十回、長村祥知氏「藤原秀康-鎌倉前期の京武者と承久の乱」シリーズを二回、田渕句美子氏「第三章 藤原秀能」シリーズを十三回、その途中に稲葉美樹氏「後鳥羽院に見出された二人の歌人」シリーズを五回、合計三十回の投稿で藤原秀能とその周辺を見てきました。

流布本の作者について(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/93233b1dcf18f7be733b1bf66fc91c33
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b30ed265c22c723332caed683b7db19f

私は渡邊裕美子氏の「慈光寺本『承久記』の和歌─長歌贈答が語るもの─」(『国語と国文学』98巻11号、2021)を読んで、慈光寺本における藤原能茂の登場の仕方に極めて奇妙な点があることに気付き、ついで田渕句美子氏の「藤原能茂と藤原秀茂」(『中世初期歌人の研究』所収、笠間書院、2001)で藤原能茂の娘が三浦光村室となっていることを知って以降、慈光寺本の作者が藤原能茂であることを微塵も疑っていません。
これに対し、流布本の作者が能茂を猶子とした藤原秀能ではないか、との私見は、流布本自体の分析から直接に導かれた仮説ではありません。
それはあくまで流布本と慈光寺本を比較して、流布本と慈光寺本の作者は思想的に対極の立場にあるにも拘わらず、その関心の対象が相当に重なっており、かつ、武家社会における擬制的関係を含めた父子相克と兄弟相克に特別な興味を抱いている点でも共通であることから、藤原能茂の周辺を探った結果として間接的に導かれた仮説です。
この仮説に対し、秀能の歌人としての経歴と業績に詳しい研究者は、承久の乱に際して後鳥羽院と秀能の間に何らかの齟齬があったとしても、秀能が終生、後鳥羽院を敬愛し、思慕していたことは『如願法師集』から明らかであるから、その秀能が流布本『承久記』のような、後鳥羽院に極めて批判的な書物を書くはずがないではないか、という批判をされると思います。
この当然予想される批判に対し、私は秀能が流布本を書いた目的は極めて政治的なものであり、それは幕府に後鳥羽院の還京を要請するための説得材料であって、そこでは幕府は絶対的に正しく、後鳥羽は絶対的に誤っていたと書かれねばならなかった、と答えたいと思います。
私が想定する藤原秀能像は、極めて知的能力が高いことを当然の前提とした上で、武家社会を知悉しつつも、公家社会の教養を幅広く身に付けた当時の第一級の知識人です。
承久の乱以前において、下北面程度の身分の秀能が傑出した歌才の持ち主であることを見出し、その活躍の場を提供してくれたのは後鳥羽院であって、秀能は後鳥羽院への感謝の気持ちを終生忘れることはなかったはずです。
そして、後鳥羽院としては、秀能ほど多大な恩顧を与えてやった者はいないので、承久の乱に際しても当然に自分の味方になると期待していたはずですが、明晰な頭脳を持ち、武家社会を知悉する秀能にとって、後鳥羽の計画はあまりに無謀であり、いかに恩顧を蒙っていようとも、それに追随することはできなかったものと想像されます。
醒めた知性の持ち主である秀能には倒幕計画に狂奔する後鳥羽院とその周辺は狂人の集団に思え、自分にとって自明の将来予想は兄弟の秀康・秀澄、息子の秀範、猶子の能茂らを始め、誰にも全く理解してもらえず、深い孤独を覚えたでしょうが、その孤独は戦後も続いたのではないかと思われます。
戦後の秀能(如願法師)は、表面的には貴顕と華やかに交際し、北条氏との関係も円滑であって、経済的にも相当豊かであったでしょうが、後鳥羽院の恩を仇で返した裏切り者という評価は、陰に陽につきまとったはずです。
また、秀能は北条氏との関係が良好であったため、後鳥羽院も自身の還京を実現する一つの手段として秀能の利用価値を考慮し、『遠島御歌合』に加えるなど表面的には秀能との関係を維持しますが、最大の裏切り者として冷たく眺めていたことは隠しようがありません。
他方、もはや片思いとはいえ、後鳥羽を敬慕する秀能は後鳥羽の処遇を気の毒に思い、還京を希望したでしょうが、九条道家を中心とする後鳥羽院の還京運動に秀能が加わった形跡は窺えません。
私には、醒めた知性の持ち主である秀能にとって、道家の情勢分析と見通しの甘さが見えていたように感じられます。
では、後鳥羽院の還京を実現するため、秀能が取り得る実効的な手段としては何が考えられるのか。

コメント
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