学問空間

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與那覇潤・安冨歩・東島誠のトライアングル

2019-07-09 | 東島誠「「幕府」論のための基礎概念序説」

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 7月 9日(火)11時29分24秒

「「幕府」論のための基礎概念序説」、佐藤進一だけでなく、私も従来から関心を抱いている石母田正・渡辺浩・水林彪氏なども登場するので、少し真面目に検討してみましょうか。
まずは「はじめに」から少し引用します。(p28以下)

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 この、いささか旧い口頭報告を文字化しておきたい、と考えたのは、近年の幕府研究がみな一様に佐藤学説の克服を目指しながら、にもかかわらず、後人のなかでその学問を正しく理解している人は驚くほど少ないのではないか、と感じるからである。かつて與那覇潤は、歴史学で網野善彦を誤読していないのは、東島誠と桜井英治だけだ(つまり與那覇を含め三人だけだ)と指摘したが、同じ状況は、じつは佐藤進一についても当てはまる。「佐藤進一はいかに誤読されたか」である。
 もちろん、世に生産的な誤読と呼ぶべきものはあって、学問の意義はその生産性如何による、とは言える。しかしながら、世上活況を呈しているかに見える「幕府」論が、佐藤進一の目指したものより生産的な議論となっているか、と言えば、これまた疑問なしとしない。與那覇潤との対談では、この問題をかなり集中的に論じたのだが、最近、神野潔が亀田俊和の近著への書評で「東島が示してきたような主張」を対論として挙げ、また佐藤雄基が近藤成一の近著への書評で、「校正段階で東島誠氏の仕事に学ぶ必要に気づいた」と述べるなど、幾人かの鋭敏な研究者もまた、問題の所在に気づき始めているようである。この、研究史上の新たな兆しに呼応して、「幕府」論のための基礎中の基礎というべき佐藤学説を再定位し、もって論者の参考に供すること―これが、本稿の執筆動機である。

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/660/660PDF/higashijima.pdf

「かつて與那覇潤は、歴史学で網野善彦を誤読していないのは、東島誠と桜井英治だけだ(つまり與那覇を含め三人だけだ)と指摘した」に付された注(2)、「與那覇潤との対談では、この問題をかなり集中的に論じたのだが」に付された注(3)を見ると、

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(2)與那覇潤「無縁論の空転―網野善彦はいかに誤読されたか」(『東洋文化』八九号、二〇〇九年)。なお同様の指摘として、安冨歩「無縁・マツコ・オタク」(『現代思想』四二巻一九号、二〇一四年)も参照。
(3)東島誠+與那覇潤『日本の起源』(太田出版、二〇一三年)八三~九六頁。
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とありますが、與那覇氏は東島氏との対談本『日本の起源』を出された後、躁うつ病(双極性障害Ⅱ型)になって二年間入院され、愛知県立大学の職も辞されたそうですね。
『日本の起源』は私も一応読みましたが、與那覇氏についての事後的経過を知った後で読み直すと、対談の時点でも些か「軽躁状態」(『知性は死なない─平成の鬱をこえて』、文藝春秋、2018、p93等)であったのではないかと思われるような記述もありますね。

今上天皇・網野善彦・阿部謹也
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6876529ed09c4b7243ef525364fd2c68
與那覇亭と東島亭の芸風比較
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/014623ff97c0c451d9174cd601402387
潤と誠
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/77132f27d804f2985ec41a07e7eb8c50

安冨歩の「無縁・マツコ・オタク」という論文(?)、私も眺めたことがありますが、全く理解できませんでした。
私は以前、アマゾンのレビューで安冨歩の愚書、『原発危機と「東大話法」』(明石書店、2012)を批判したところ、若干のトラブルとなったことがあり、ツイッターでも安冨とお互いにブロックし合うような間柄なので、東島氏が何故に安冨を高く評価しているのか分らないのですが、正直、あまり分かりたいとも思いません。
ちなみに安冨論文(?)の「マツコ」とはタレントのマツコ・デラックス氏ですね。

「東大=ショッカー」説
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8b4813511410cb1dca32ce970e93e5f3
不評の喜び
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bcb51005eefd8f254d47b1e6d8e2ca3f
謹告:「中切」のお話は中断させていただきます。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5309aed7c6a3f27875f827ba8a4e1315

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【設問】東島誠「「幕府」論のための基礎概念序説」を読んで、その内容を五字で要約せよ。

2019-07-09 | 東島誠「「幕府」論のための基礎概念序説」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 7月 9日(火)09時31分23秒

>筆綾丸さん
>ヴェーバーの「理念型」や「価値自由」の概念を正確に理解しているのはボクだけだな

東島氏の論文を読んで私が最初に奇妙に思ったのは、東島氏が自明の前提としているウェーバーと佐藤進一との関係ですね。
佐藤進一が「主従制的支配権」や「統治権的支配権」をウェーバーの所謂「理念型」として構成しているのでなければ「「幕府」論のための基礎概念序説」全体が砂上の楼閣となってしまいますが、その点は東島氏が一番最初にきちんと、佐藤の論文等の具体的根拠に基づいて実証すべきなのに、東島氏は、そんなこと当然だろ、という態度で終始しています。
この点、ツイッターでは名城大学教授の伊藤俊一氏がかなり厳しい表現で批判されていましたが、私も極めて疑問に思っています。
佐藤進一自身が「分析のツールとしてではなく、分析結果の収納先、言うなれば、分別収集のゴミ袋のごときもの、分類のツールとして取り扱っている」概念を、東島氏が「理念型」と「誤読」している可能性が高いんじゃないですかね。

設問は私が4月7日にツイートしたもので、一部で少しウケました。
正解は「我を崇めよ」(五字)ですが、この冗談の元ネタが荒俣宏原作『帝都物語』の加藤保憲だということも、若い世代は知らないかもしれないですね。
『帝都物語』は映画化されると嶋田久作の怪演で話題になりましたが、加藤保憲が何のために闘っているのか今一つ分らない点では東島氏とちょっと似ているような感じもします。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「分別収集のゴミ袋」2019/07/08(月) 15:09:33
小太郎さん
東島氏は立命館大学にキャリアアップしていたのですね。
「「幕府」論のための基礎概念序説」を読んでみましたが、現今の中世史研究者のなかで、ヴェーバーの「理念型」や「価値自由」の概念を正確に理解しているのはボクだけだな、という自画自賛の論文ですね。ボクはキミらと違って、すごく頭がいいんだよ、といい歳して自慢してもなあ、という感じがします。

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 そもそも、例外の指摘が可能ということ自体、主従制的支配権や統治権的支配権が、〈理念型〉のセットとして成功していることの、何よりの証左ではないのか。これは、およそ学問に携わる者の基本事項であるが、ヴェーバーの〈理念型〉とは、分析に先立って用意するモノサシのことであって、複数の〈理念型〉を組み合わせることで、複雑な構造とその動態を記述可能にするツールのことである。したがって、亀田のように「であるはずの」と述べた瞬間に、その論者は〈理念型〉をそうした分析のツールとしてではなく、分析結果の収納先、言うなれば、分別収集のゴミ袋のごときもの、分類のツールとして取り扱っている、ということが露呈してしまうのである。これが〈理念型〉分析とかけ離れた態度であること、つまり佐藤批判になりえていないことは明らかであろう。(345頁~)
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「分別収集のゴミ袋のごときもの」とは随分な言い草で、亀田俊和氏に対して、お前はバカだ、と言っているようなものですね。
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