投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 5月18日(月)23時54分42秒
国会図書館の雑誌検索でタイトルに「桜の園」が含まれる記事を調べたら、「『桜の園』と不動産業者の普遍性1」(宮沢章夫、『ユリイカ』2003年9月号)という奇妙な論文が出てきたので、取り寄せてみました。
経済学者が冗談まじりに書いたエッセイなのかなと思ったら、著者は劇作家で、マルクスの『資本論』なども引用した大真面目な論文なので、ちょっとびっくりしました。
宮沢章夫氏によれば、
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ここで『桜の園』を読むにあたってひとまず「経済」に焦点をあてたのは、論考の第一回としてその概要を示すにあたり、チェーホフのの『桜の園』とはつまるところ「不条理の劇」ならぬ、「不動産の劇」にちがいないと考えるからである。(p218)
マルクスは『資本論』で「土地所有」に関し、「小農民的農業では、土地の占有は直接生産者にとっての生産条件として現われ、彼の土地所有は彼の生産様式の最も有利な条件、その繁栄として現れるのである。資本主義的生産様式一般が労働者からの労働条件の収奪を前提とすれば、この生産様式は農業では農村労働者からの土地の収奪と、利潤のために農業を営む資本化への農業労働者の従属を前提とする」と書くが、ここで強調すべきなのは先にも書いたとおりロバーヒンが農民階級の出身だったことだ。(中略)
当然ながらロバーヒンに注目することが、『桜の園』という作品にとっての核となるが、さらに踏み込めば、そこに「不動産の劇」として「チェーホフ的な喜劇」を見ることができ、ロバーヒンとはつまり概念を体現する「人の形」をしたなにものかだ。概念として、あるいは土地そのもの、桜が植えられて育った「土」こそが、「喜劇」の主役だと理解するべきではないか。だからさらにマルクスは書く。
「土地所有は、ある人々がいっさいの他人を排除して地球の一定の部分を彼らの個人的意志の占有領域として支配するという独占を前提とする」
ここにチェーホフがみつめ、『桜の園』のほか、小説などにもしばしば書いた「土地にまつわる喜劇」の本質があるのではないか。つまり「いっさいの他人を排除して地球の一定の部分を彼らの個人的意志の占有領域として支配する」ことにまつわる滑稽さを「喜劇」として見つめるチェーホフのイロニーだ。(p220)
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のだそうです。
うーむ、何という深遠さ。
「論考の第一回」だけでも長大なこの論文は、さらに第二回、第三回と続くのですが、私は続きを読むのは遠慮しました。
国会図書館の雑誌検索でタイトルに「桜の園」が含まれる記事を調べたら、「『桜の園』と不動産業者の普遍性1」(宮沢章夫、『ユリイカ』2003年9月号)という奇妙な論文が出てきたので、取り寄せてみました。
経済学者が冗談まじりに書いたエッセイなのかなと思ったら、著者は劇作家で、マルクスの『資本論』なども引用した大真面目な論文なので、ちょっとびっくりしました。
宮沢章夫氏によれば、
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ここで『桜の園』を読むにあたってひとまず「経済」に焦点をあてたのは、論考の第一回としてその概要を示すにあたり、チェーホフのの『桜の園』とはつまるところ「不条理の劇」ならぬ、「不動産の劇」にちがいないと考えるからである。(p218)
マルクスは『資本論』で「土地所有」に関し、「小農民的農業では、土地の占有は直接生産者にとっての生産条件として現われ、彼の土地所有は彼の生産様式の最も有利な条件、その繁栄として現れるのである。資本主義的生産様式一般が労働者からの労働条件の収奪を前提とすれば、この生産様式は農業では農村労働者からの土地の収奪と、利潤のために農業を営む資本化への農業労働者の従属を前提とする」と書くが、ここで強調すべきなのは先にも書いたとおりロバーヒンが農民階級の出身だったことだ。(中略)
当然ながらロバーヒンに注目することが、『桜の園』という作品にとっての核となるが、さらに踏み込めば、そこに「不動産の劇」として「チェーホフ的な喜劇」を見ることができ、ロバーヒンとはつまり概念を体現する「人の形」をしたなにものかだ。概念として、あるいは土地そのもの、桜が植えられて育った「土」こそが、「喜劇」の主役だと理解するべきではないか。だからさらにマルクスは書く。
「土地所有は、ある人々がいっさいの他人を排除して地球の一定の部分を彼らの個人的意志の占有領域として支配するという独占を前提とする」
ここにチェーホフがみつめ、『桜の園』のほか、小説などにもしばしば書いた「土地にまつわる喜劇」の本質があるのではないか。つまり「いっさいの他人を排除して地球の一定の部分を彼らの個人的意志の占有領域として支配する」ことにまつわる滑稽さを「喜劇」として見つめるチェーホフのイロニーだ。(p220)
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のだそうです。
うーむ、何という深遠さ。
「論考の第一回」だけでも長大なこの論文は、さらに第二回、第三回と続くのですが、私は続きを読むのは遠慮しました。