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「モスコー芸術座へ行くと頭が痛くなるよ」(by 河野通九郎)

2009-05-17 | 映画・演劇・美術・音楽
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 5月17日(日)16時55分13秒

以下も「東山千栄子さんに聞く」からの引用です。
河野通九郎は東山千栄子(もちろん芸名)の14歳年上の夫君で、「東山千栄子さんに聞く」には「主人」とあるだけですが、他の資料で名前を知りました。

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 尾崎[宏次] オペラの次が芝居ですか?
 はい。オペラは、ドイツの物が多かったようですけれど、ちゃんとやっておりましたよ。その次に、ことばがわからなくても、スタニスラフスキーの評判がいいから行ってみようというので芸術座に行ったんです。主人はわりと、そういうことをよく知っておりました。
 戸板 カリキュラムがちゃんとあるね(笑い)。
 私は何も知らないものですから、「お前は勉強させなければ社交界に出せない」って主人が言うのです。だんだん、仕込むつもりだったんでしょう。で、はじめて見た芝居が「桜の園」でした。ことばはわかりませんけど。
 尾崎 それが東山さんの一生を決めるとは、まさか・・・。
 あとで俳優になるとは思いもよりませんでしたからね。それで、「桜の園で」たしか瀬沼さんという方だと思います、日本から来られて「見たい」と言われるので、総領事さんがご案内したか、主人がご案内したか、私も知らないのですけれども、同じ席にいました。日本語の翻訳も持っていらっしゃって。きっと全訳ではなかったでしょう、薄いものでしたから。筋だけ、書いてあったんじゃないかと思います。私はそれをボックスに入ってから見せていただいて見物したのです。私にはまだ何が何だかわからないけれども、「ほら、あれがチェホフの奥さんだよ」って教えられました。クニッペルさんが出ていらっしゃったんです。お兄さんの役がスタニスラフスキー、演出もこの方がやっているんだって、主人が教えてくれましたの。無我夢中ですよ、でも楽しかった、何だか知らないけれども。わからなくても、楽しいですよ。ほかにもきっと有名な方が出ていたんでしょうね、アーニャだの何だの。モスクウィンも出ていたでしょう。その後やっぱり「知恵の悲しみ」だとか、トルストイの「生ける屍」とか、みなむずかしいんですが見ました。ロシア語ができても、むずかしいでしょう。ましてロシア語ができないから、「ドン・ファン」とか、まだいくつか拝見いたしましたけれども、主人の方は仕事が忙しいものですから、「モスコー芸術座へ行くと頭が痛くなるよ」っていうんです。一生懸命見てくるからでしょうね。「私、芸術座見たい」といいますと、「あすこへ行くのはもういいだろう、それよりもオペレッタへ行こう」って言うんです。ところがオペレッタとなりますと、私はキリスト教で育っておりますし、私にはちょっと色っぽいものが多すぎるんですよ。それを主人が喜んで見ているのが、私にはちょっと軽薄のような気がしましてね(笑い)。二十歳の乙女としてはいやなんですよ。うしろからデコルテのお乳をのぞいたり何かするでしょう。ハートが出てくると、それにキューピッドが矢を射る、何かそういうのがつまらなかった。
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<それで、「桜の園で」たしか瀬沼さんという方だと思います>の部分、少しつながりがおかしいですが、原文のままです。
『桜の園』を最初に翻訳したのは群馬県高崎市出身の瀬沼夏葉(1875~1915)という女性ですが、「瀬沼」というのは比較的珍しい苗字ですから、関係がありそうですね。
ただ、女性ならそう書くような感じもするので、夫の瀬沼恪三郎のことですかね。
詳しい方がいたら、ご教示ください。

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瀬沼恪三郎 せぬま‐かくさぶろう
1868‐1945
明治-昭和時代前期の神学者。
慶応4年6月27日生まれ。瀬沼夏葉の夫。明治23年ロシアに留学し、キエフ神学大にまなぶ。帰国後、正教神学校教授、校長をつとめた。ロシアのトルストイと文通し、尾崎紅葉と「アンナ=カレーニナ」の翻訳をおこなった。昭和20年8月死去。78歳。武蔵(むさし)八王子(東京都)出身。正教神学校卒。旧姓は河本。
http://kotobank.jp/word/%E7%80%AC%E6%B2%BC%E6%81%AA%E4%B8%89%E9%83%8E
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Bolshevik Revolution

2009-05-17 | 映画・演劇・美術・音楽
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 5月17日(日)15時55分36秒

「東山千栄子さんに聞く はじめて『桜の園』を見たころ─帝政末期・モスコーの思い出─」(『悲劇喜劇』第255号、1972)を読んでみましたが、これも面白いですね。
少し引用してみます。

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革命の頃■
私がモスコーへ参りましたのは一九〇九年で、革命の起こる一九一七年までおりましたでしょう、だから、革命の予感は知っています。革命の起こる三ヶ月前にちょっと日本に帰って、また向こうに行くつもりでおりましたら、おまえの家は革命で焼けてしまったと知らされました。総領事館も引き揚げるからもう帰れないよといわれましてね。(中略)
お店の人たちは、その晩みんなで芝居を見に行こうというので、私の留守宅に集まって、いい着物を着ていたら、革命が起こったんです。私のところはクレムリンと士官学校の間にありましたが、大砲をうち合ったそうです。お互いに向き合って、一週間だか、続いたそうです。自分のところが焼けると、焼けない家へ逃げて行って、またそこが燃えるとあっちへ行きというふうに逃げたんですって。「これから先、どうなるかわからない。これは、家内がとても好きで弾いていたピアノだから、今晩、お別れに私が家内のピアノを弾きます」と、ショパンの何かを弾いたという話もききました。悲壮だったっていっていましたよ。(中略)
でも、奥さんがいたら、燃えている中に荷物を取りに行って、きっと死んでいたかもしれない、いなくてよかったなんて言われました。モスコー銀行に預けたものがだめになったでしょう、モスコー銀行とられたもんですから。それで、みんな失いました。銀の食器─お客さんは銀でないといけないので─とか、自分は飾らないけれども、お客に対して宝石とか─商売道具ですよ─そんなものみんな預けてきたのを一番先にとられてしまったのね。主人は十五年あちらにおりましたから、すべてをそこに賭けていたわけです。東京にあるお金もここにおいておくほうがいいと、わざわざモスコーへ取り寄せたら取られてしまって。革命は起こりそうだっていうことはわかっておりました。でも、いつ成功するかはわかりませんでしたね。家のすぐそばにモスコー大学がありましてね、そこを毎日のように市場に女中さんと一緒に買い物に行ったのですが、大学の前を通ると、よく、騎馬巡査がいっぱい大学を取り巻いていました。学生がそれに対抗していて、「きょうはここは通行禁止だから遠回りして帰れ」といわれたくらい、騒いでおりました。でも、それがそんなに早く成功するとはね・・・。
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この後、聞き手の一人である戸板康二氏は、「革命の勃発の晩、シャリアピンが歌っていたんですからね。予兆はわからなかったのでしょう」と言っていますが、革命の予感はあったけれど、時期は予想できなかった、という本人の発言を受けた後の感想としては、少し間が抜けている感じがします。
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