投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 6月15日(日)09時06分21秒
上島亨氏の「法勝寺創建の歴史的意義─浄土信仰を中心に─」(『院政期の内裏・大内裏と院御所』.文理閣.2006)は法勝寺研究の現時点での到達点を示す論文だと思いますが、山岸常人氏の例の「劇場」説、即ち法勝寺をはじめとする六勝寺の本質は上皇が主宰する法会の臨時の会場、いわば「劇場」であって、顕密諸寺院の総体の枠からはみ出した「擬似寺院」だとする見解については、法勝寺供僧が常住していた具体例をあげるなどして批判し、次のように結論づけていますね。
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頼道時代より急速に開発が進んだ白河の地は、既に都市としての性格を持ちつつあった。法勝寺の建立とともに、白河地域の景観と性格は大きく変貌し、宗教性が一層顕著となる。院近臣たちの中には法勝寺周辺に堂舎を設け、そこで往生を遂げる者もおり、法勝寺は彼らの信仰の核になっていた。また、寺辺には供僧が常住し教学・宗教活動を行い、寺院活動を支える俗人たちも居住しており、法勝寺は単なる「劇場」では決してなかった。法勝寺の周囲には僧俗が居住する舎屋が立ち並び、彼らに仕える雑人まで含めるとかなりの人々が白河地域で暮らしていたと推測される。白河は法勝寺を核に<宗教都市>と呼ぶべき空間を呈していたといえよう。(287p)
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そして、法勝寺の歴史的位置付けについては、
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法勝寺が法成寺の伽藍・寺院構成・法会などの形態を継承・発展させた寺院であることは拙稿でも論じてきたが[上島2001]、浄土信仰、願主の葬送・追善などの側面でも同様の指摘が可能なことが分かった。道長の構想を展開させた法勝寺の宗教的意義として、本稿で強調したいのは、一一世紀から見られる堂衆・遁世僧の宗教活動に明確な位置づけを与え、中世仏教・中世寺院の新たな形を明示したことである。法勝寺三昧僧の活動は中世禅律僧の始原のひとつとして高く評価されるべきであろう。(306p)
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としていますね。
ここまでは、おそらくかなり多くの人が納得するでしょうが、続いて、
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では、道長が建立した法成寺の性格を継承した法勝寺が、摂関家「累代の別業」たる白河殿を破壊した跡地に建立されたという事実はいかに評価すべきであろうか。これはまさに摂関政治と院政との関係を象徴するものと考える。頼道が新造し上東門院彰子も御所とした白河殿は、白河天皇が強く意識した前代の政治を表徴する邸宅のひとつといえ、その地に自らの滅罪・往生をも祈る鎮護国家の伽藍を創建することは、摂関政治の否定を世に示したものといえる。しかしながら法勝寺の実態は新たな寺院・宗教のあり方を創始した道長の法成寺を継承・発展させたものであり、白河天皇による新たな政治の内実は道長政治の展開上に位置づけることができるのである。ミクロな視点では摂関政治や外戚としての摂関家の否定により院政が成立したといえるが、マクロな視野から見れば、院権力は<道長の王権>を継承・発展させたと評価できる。歴史的意義を論じるさいに、大状況の把握こそが前提とならねばならない。
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とされる部分、特に後半については、議論が続くでしょうね。
上島亨氏の「法勝寺創建の歴史的意義─浄土信仰を中心に─」(『院政期の内裏・大内裏と院御所』.文理閣.2006)は法勝寺研究の現時点での到達点を示す論文だと思いますが、山岸常人氏の例の「劇場」説、即ち法勝寺をはじめとする六勝寺の本質は上皇が主宰する法会の臨時の会場、いわば「劇場」であって、顕密諸寺院の総体の枠からはみ出した「擬似寺院」だとする見解については、法勝寺供僧が常住していた具体例をあげるなどして批判し、次のように結論づけていますね。
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頼道時代より急速に開発が進んだ白河の地は、既に都市としての性格を持ちつつあった。法勝寺の建立とともに、白河地域の景観と性格は大きく変貌し、宗教性が一層顕著となる。院近臣たちの中には法勝寺周辺に堂舎を設け、そこで往生を遂げる者もおり、法勝寺は彼らの信仰の核になっていた。また、寺辺には供僧が常住し教学・宗教活動を行い、寺院活動を支える俗人たちも居住しており、法勝寺は単なる「劇場」では決してなかった。法勝寺の周囲には僧俗が居住する舎屋が立ち並び、彼らに仕える雑人まで含めるとかなりの人々が白河地域で暮らしていたと推測される。白河は法勝寺を核に<宗教都市>と呼ぶべき空間を呈していたといえよう。(287p)
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そして、法勝寺の歴史的位置付けについては、
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法勝寺が法成寺の伽藍・寺院構成・法会などの形態を継承・発展させた寺院であることは拙稿でも論じてきたが[上島2001]、浄土信仰、願主の葬送・追善などの側面でも同様の指摘が可能なことが分かった。道長の構想を展開させた法勝寺の宗教的意義として、本稿で強調したいのは、一一世紀から見られる堂衆・遁世僧の宗教活動に明確な位置づけを与え、中世仏教・中世寺院の新たな形を明示したことである。法勝寺三昧僧の活動は中世禅律僧の始原のひとつとして高く評価されるべきであろう。(306p)
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としていますね。
ここまでは、おそらくかなり多くの人が納得するでしょうが、続いて、
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では、道長が建立した法成寺の性格を継承した法勝寺が、摂関家「累代の別業」たる白河殿を破壊した跡地に建立されたという事実はいかに評価すべきであろうか。これはまさに摂関政治と院政との関係を象徴するものと考える。頼道が新造し上東門院彰子も御所とした白河殿は、白河天皇が強く意識した前代の政治を表徴する邸宅のひとつといえ、その地に自らの滅罪・往生をも祈る鎮護国家の伽藍を創建することは、摂関政治の否定を世に示したものといえる。しかしながら法勝寺の実態は新たな寺院・宗教のあり方を創始した道長の法成寺を継承・発展させたものであり、白河天皇による新たな政治の内実は道長政治の展開上に位置づけることができるのである。ミクロな視点では摂関政治や外戚としての摂関家の否定により院政が成立したといえるが、マクロな視野から見れば、院権力は<道長の王権>を継承・発展させたと評価できる。歴史的意義を論じるさいに、大状況の把握こそが前提とならねばならない。
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とされる部分、特に後半については、議論が続くでしょうね。