投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 6月 2日(月)23時40分22秒
>筆綾丸さん
>『香川県史 2中世』
ご紹介、ありがとうございます。
コピーの山を探していたら、同じく佐々木孝浩氏の「人麿影の伝流─影供料里海庄をめぐって─」(『和歌文学研究』60号、平成2年)が出てきました。
少し引用しますと、
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人麿影の相伝過程は、『古今著聞集』第五に於て、顕輔→清輔→経家、また、顕季→顕輔・保季→成実→後嵯峨院と、三分されて伝えられている。これに対して、鈴木徳男氏は、保季と成実の間に、知家が存在することを指摘され、更に竹下豊氏は、清輔と経家の間に、季経の所持を認める旨を発表されている。以上により、竹下氏は、六条藤家内部に於て人麿影が、顕季→顕輔→清輔→季経→経家→保季→知家→成実の順で相伝されていったものと推定されたのである。
しかしながら、公家日記・私家集等のより信頼度の高い資料によって確認された、季経と知家の人麿影所持の事実は、明らかに『古今著聞集』の記述と齟齬するものであり、これらを止揚するためには、新たな視点が必要となるものと思われる。
ここで注目したいのが、十五世紀中葉に成立したと目される『東野州聞書』に存する以下の記述である。
影供永久年中に始行有り。讃岐国に里海と申す所を、為影供
領、被下顕季畢。此影供領、彼の家に中絶する事有るなり。至
正応年中安堵有。隆博朝臣、顕季の末孫也。
----------------
とあって、この後に建治二年(1276)の「妙意申状」の紹介と分析が続きます。
里海庄について、佐々木氏は、「同庄は、現在の徳島県鳴門市内に推定地が存し、後引の「皇代暦裏書」にも阿波国と見えるが、信頼度の高い史料には何れも讃岐とあり不審」(注5)と書かれていますね。
>『甘粕正彦 乱心の曠野』
うーむ、『阿片王』で3桁の計算ミスを2回繰り返した佐野眞一氏ですか。
「湯水のごとき資金源の謎」あたりに、微妙な不安を感じますね。
>筆綾丸さん
>『香川県史 2中世』
ご紹介、ありがとうございます。
コピーの山を探していたら、同じく佐々木孝浩氏の「人麿影の伝流─影供料里海庄をめぐって─」(『和歌文学研究』60号、平成2年)が出てきました。
少し引用しますと、
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人麿影の相伝過程は、『古今著聞集』第五に於て、顕輔→清輔→経家、また、顕季→顕輔・保季→成実→後嵯峨院と、三分されて伝えられている。これに対して、鈴木徳男氏は、保季と成実の間に、知家が存在することを指摘され、更に竹下豊氏は、清輔と経家の間に、季経の所持を認める旨を発表されている。以上により、竹下氏は、六条藤家内部に於て人麿影が、顕季→顕輔→清輔→季経→経家→保季→知家→成実の順で相伝されていったものと推定されたのである。
しかしながら、公家日記・私家集等のより信頼度の高い資料によって確認された、季経と知家の人麿影所持の事実は、明らかに『古今著聞集』の記述と齟齬するものであり、これらを止揚するためには、新たな視点が必要となるものと思われる。
ここで注目したいのが、十五世紀中葉に成立したと目される『東野州聞書』に存する以下の記述である。
影供永久年中に始行有り。讃岐国に里海と申す所を、為影供
領、被下顕季畢。此影供領、彼の家に中絶する事有るなり。至
正応年中安堵有。隆博朝臣、顕季の末孫也。
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とあって、この後に建治二年(1276)の「妙意申状」の紹介と分析が続きます。
里海庄について、佐々木氏は、「同庄は、現在の徳島県鳴門市内に推定地が存し、後引の「皇代暦裏書」にも阿波国と見えるが、信頼度の高い史料には何れも讃岐とあり不審」(注5)と書かれていますね。
>『甘粕正彦 乱心の曠野』
うーむ、『阿片王』で3桁の計算ミスを2回繰り返した佐野眞一氏ですか。
「湯水のごとき資金源の謎」あたりに、微妙な不安を感じますね。