学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学の中間領域を研究。

徳永恂『現代思想の断層─「神なき時代」の模索』

2019-07-03 | 森本あんり『異端の時代─正統のかたちを求めて』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 7月 3日(水)12時26分52秒

森本あんり氏の認識と異なり、ウェーバーが自身を「宗教音痴」であると「公言」した事実はなさそうですが、掲示板をサボっている間にたまたま手に取った徳永恂氏の『現代思想の断層─「神なき時代」の模索』(岩波新書、2009)に「音痴」云々が出ていたので、備忘のためにメモしておきます。

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神は死んだ──ニーチェの宣告は,ユダヤ・キリスト教文化を基層としてきた西欧思想に大きな深い「断層」をもたらした.「神の力」から解き放たれ,戦争と暴力の絶えない20世紀に,思想家たちは自らの思想をどのように模索したか.ウェーバー,フロイト,ベンヤミン,アドルノなどの,未完に終わった主著から読み解く.

https://www.iwanami.co.jp/book/b225993.html

引用は「第1章 マックス・ウェーバーと「価値の多神教」」からです。(p54以下)

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 ウェーバーの信仰

 だが、信仰という面ではどうだったのか。彼は自由なプロテスタントの家庭で、とくに敬虔な信者である母親の影響下に育ち、成人してからも一緒に宗教書を読むなど、彼にとって「超自我」の形成者は母親であり、そういう母へのマザー・コンプレックス(普通言われているオイディプス・コンプレックス、すなわち父親の死への罪の意識ではなく)が、彼の後の神経障害をもたらしたとさえ考えられる。しかし少年マックスは、けっして敬虔な信者ではなかった。かれは一五才の時すでに教えられる信仰に疑念を抱き、自らの眼で「旧約」を読むために、ヘブライ語の学習を志したらしい。また広く深い宗教をめぐる学問的仕事をなしとげた後でも、「私は信仰に関しては音痴です」と述懐した、と伝えられている。私生活の面では、神の存在や秘蹟を信じるという意味でも教会に通うという意味でも、彼は信者ではない。彼が求めたのは「救い」ではなく、「救済についての確実性」であり、その確証だった。
 しかしキリスト教の倫理は彼の内面生活に深い刻印を印し、彼の学問的関心に決定的な影響を及ぼしたと考えられる。それはキリスト教を専門的な研究対象とする宗教学者になったということではなく、何よりも彼の歴史観全体、歴史的地平の下での自己の実存了解にも関わる広汎な浸透であった。そこにウェーバーにおける「大きな物語」が開けてくる。
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「歴史観全体」の「歴史観」には傍点があります。
なお、「「私は信仰に関しては音痴です」と述懐した」のは1909年ですから「広く深い宗教をめぐる学問的仕事をなしとげた後」が適切な表現かについては若干の疑問も感じますが、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」が1904年なので、まあ良いのでしょうね。

「事態の冷静な経験的観察はそれに適合した唯一の形而上学として<多神論>を認めることへ導く」(by マリアンネ・ウェーバー)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2aa1f494acbe273331693aebaaedd033

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