『辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~』 目次
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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~ 第98回
シキ様は? 澪引様は? と訊いたのだから、今の自分が何をしなければならないか分かったはずなのに、どうして、何故、などともがいてしまう。 涙が止まらない。
ポトポトポトと衣を濡らしていく。
「拭け」
僅かに顔を上げると手巾が差し出されている。 マツリの手の上に乗った手巾。
紫揺が百八十度向きを変える。 ゴシゴシゴシと手の甲や腕で涙を拭くが、どちらも涙を吸い取ってはくれない。 涙が顔じゅうに広がるだけ。
女人が手で涙を拭くなどと・・・。 だがリツソのように鼻を垂らして泣き喚かないだけマシか、と思いながらマツリが立ち上がった。
紫揺との間にあった卓の横を歩くと、百八十度向きを変えていた紫揺の前にしゃがんだ。
手の甲で手の平で腕で顔中を拭いている紫揺。 目が吊り上がったり下がったり。 その顔に手巾を押し付ける。
「手で拭ったとて拭えまい」
拒否するように紫揺が顔を避ける。
「今日はもう遅い、休むが良い。 あの者たちを呼んでよいか?」
あの者たち “最高か” と “庭の世話か” のことだ。 泣いている顔を見られてもいいかと訊いている。
受け取らない手巾を紫揺の頭の上に乗せる。 紫揺の返事があるまで待つ。
どれだけ手で拭っても涙が顔から離れない。 その上まだまだ次発列車ならず、次発涙が次々と生産されている。
「・・・どうして」
「うん?」
「どうして・・・私なの・・・」
「生まれ持った力。 それだけのことだ。 それは紫だけではない。 皆それぞれに生まれ持った何かの力を持っておる。 その力を持て余しておる者もおるだろう。 初代紫も、初代紫は・・・その力に苦しんだのだろう。 それを紫に同じ苦しみを味あわせないよう、初代紫は息吹を吹き込んだのだろう。 初代紫の配慮に感謝しあの紫水晶を扱え。 紫なら、お前なら出来る」
紫揺の頭の上から手巾を取ると、もう一度紫揺の顔に押し付けた。 しばらくじっとしていた紫揺だったが、手巾の上に手を置き涙を拭い始める。 全く楚々とした拭き方ではないが。
『シユラ様。 諦めようよ。 オレたちの運命としようよ。 ね、心当たりがあるならハッキリ言って欲しい。 その対処をしなくちゃ・・・力の使い方を覚えなくちゃ、北の領土以外では生きていけないよ』
北の屋敷で自分の部屋を破壊した日、トウオウが言っていた。
もう何十年も前のような気がする。 そんなことは無いのに。 トウオウのその声が何度も頭に繰り返される。 そして段々と小さく・・・。
涙を拭いていた紫揺の手が落ち身体が揺れた。 咄嗟にマツリが紫揺の身体を支える。 また気を失ったのか? 焦ったマツリが紫揺を覗き込む。
―――熟睡。
完全に寝息を立てている。
「は? 座ったままで? さっきまで泣いていたのに?」
話も中途半端なままだし、気を失っていたといえどかなり寝ていたはずだ。 それなのにまだ寝る?
信じられないという目をした。 紫揺を抱えながら今度は呆れた目で見る。
だが・・・暫くするとクックと笑いが出てきた。
パチリと目が開いた。
装飾の施された木が幾つもの大きな真四角にかたどった見覚えのない天井。 首を捻ると見たこともない部屋の中が目に映る。
「・・・どこ?」
起き上がると布団の上で寝ていたのだと分かる。 その布団はシキの部屋のように膝の高さくらいの寝台に敷かれていた。
寝台の上で記憶の頁をめくる。
そうだ、気が付いたら本領に居た。 マツリの部屋に。 ・・・それから。
徐々に昨日のことが思い出されていく。
「くそっ! マツリの前で泣いたんだっ!」
紫揺の声が少々大きかった。
「お目覚めで御座いますか?」
襖の外から声が掛かった。 それは覚えのある声音。
「あ・・・はい」
ゆっくりと襖が開くと “最高か” と “庭の世話か” が襖の前に立ててあった衝立の横から入ってきた。 襖を開けても部屋の中の様子が回廊から見えないように、若木に小鳥が止まっている絵を施した漆塗りの衝立が置かれている。
衝立の両横に二人ずつ座ると手をついて頭(こうべ)を垂れる。
「あの・・・」
静々といった態で頭を垂れていた四人がバッと頭を上げると、すぐさま立ち上がり衣を翻し紫揺に駆け寄って来た。
「大事は御座いませんか?」
「え・・・全然・・・。 あの、ここは・・・?」
「マツリ様がお待ちに御座います。 失礼とは存じますが、彩楓がご説明を致しまして、わたくし共がお着替えをお手伝いさせていただきます」
紅香が “庭の世話か” に視線を送る。 心得たとばかりにシキに言われ用意していた衣装を寝台の横に置く。
「紫さま、お立ち下さいませ」
彩楓が言う。
言われるがままに寝台を降り下り立ち上がると、紅香と “庭の世話か” が忙しく手を動かし始めた。
紫揺の正面に座した彩楓が口を開く。
己らはマツリの部屋の前の回廊で紫揺を待っていた。 以前であるのならばシキの部屋に案内するが、今回は客の泊まる部屋に紫揺を連れて行くようにとマツリから言われていた。 四方には了解済みだと。
宮の中が沈み返り、夜告鳥の声も聞こえなくなった時、マツリの押し殺した笑い声が聞こえてきた。 何事が起きたのかと思っていれば「居るか?」 と尋ねられた。
「はい」と応えると「開けよ」と言われ、襖を開けると立っているマツリに抱きかかえられた紫揺が居た。
また気を失われたのかと四人が血の気を失いかけた時
『話の途中で座りながら寝たようだ。 疲れたのだろう、案ずることは無い』 そう言ったという。
それから用意をしていたこの部屋に案内したということだった。
「え? うそ・・・」
話の途中で? 座りながら? 寝る? そんな器用なことが自分に出来たのか?
「マツリ様が仰っておられました。 紫さまをお疲れにさせるお話をされたと。 今日は紫さまのお疲れが取られるまでお待ちするようにと」
マツリが紫揺を抱えながら眉を顰め「トウオウ・・・」 と独語を吐いたことは言わない。
マツリが言うより先に腕の中で「トウオウ」と紫揺が言ったのだった。
トウオウは北の領土の異(い)なる双眸を持った五色。 マツリが紫揺からトウオウの名を聞いたのはこれで二度目だった。
それに一度目は聞き逃すことが出来ないシチュエーションで。 それはあくまでもマツリ的にだが。
紫揺が「トウオウ」と言った時、抱きかかえるマツリの腕がビクリと動いた。 それを見逃すことがない “最高か” と “庭の世話か” だった。
彩楓と話している間にもスススと着替えが進んでいる。 キュッと帯が締められた。
最初にマツリが待っていると言っていた。
「えっと・・・」
今何時ですか? とは訊けなかったのだった。 まだまだ日本の感覚が抜けない。
「二日間、お倒れになられており、夕べやっと遅くに食を口にされました。 今は昼餉の時はとうに過ぎております。 お召し上がりになられましょうか?」
是非とも食べて欲しい、そうでなければ身体に宜しくない、という眼光を送りながら訊いている。
「え? お昼すぎてるんだ・・・」
どれだけ寝たのだろうか。 二日間もぶっ倒れて寝ていたというのに。
「昼餉はどうなさいます?」
彩楓の目が恐い。 と思っていたら、他の三人の目もあまりに眼光が鋭すぎる。
「あ・・・いただきます」
いつの間にか着替えが終わっていたようだ。
どうしてだ。
昼餉を食べるだけじゃなかったのか。
何故、マツリの部屋にいる。 そして何故、昼餉を食べる紫揺の前にマツリが座している。
「よく眠れたか」
無視を決め込み箸を動かす。
「この刻限まで寝ておったのだ。 疲れは取れただろう」
ドンダケ嫌味なヤツ。 たしかに寝過ぎたが。
「夕べ言っておったあの紫水晶、石の話は覚えておるか。 本領の端まで置いたということを」
箸を止めると上目遣いにマツリを見る。
夕べの話を回想する。 たしかにそんなことを聞いた覚えがある。
あの紫水晶は本領の端に置いてあるから、今のところあの紫水晶からの影響はないやらナントカ。
コクリと頷く。
「これからキョウゲンにあの紫水晶を取りに行ってもらう。 あの紫水晶と向き合えるか? まだ整理がついていないようならばキョウゲンは飛ばん」
「・・・」
動かしかけた箸が止まった。
「キョウゲンが取りに行っても戻ってくるに何辰刻もかかる。 いま飛び立って今すぐ向き合うということではない」
箸を動かす。
「・・・あと半日」
「え?」
「・・・夕時になってから」
いまキョウゲンが飛び立てば陽の光の中を飛ばなくてはならない。 夜行性のキョウゲンのことを考えて言っているのだろう。
「それまで・・・」
「・・・何をしておる」
不思議なほど色んなおかずを茶碗の飯の上に乗せていた。
「あ・・・」
意識なくやっていたようだ。 良く言えば彩丼ぶりの出来上がり。 ストレートに言えば残飯に近い。
盛ったものを捨てるわけにはいかない。 残飯に見えるが口に運ぶ。 胃の中に入ってしまえば同じことなのだから。
「・・・それまで・・・、マツリの話を聞く」
マツリが両の眉を上げた。 残飯をかっ食らう紫揺を見ながら。
「力のこと何も知らないし。 ムカつくけど、腹立つけど、顔も見たくないし声も聞きたくないけど・・・話を聞く。 仕方ないから。 マツリと同じ場所にいたくもないけど」
むかつくの意味は分からないが他は分かる。
「そうか。 では食し終えてから話を聞かせよう。 まずはゆるりと食べよ」
そう言うと立ち上がり部屋を出て行った。
あれ? 言い過ぎたか? 箸が止まる。
マツリとすれ違いに “最高か” と “庭の世話か” が入ってきた。
「いかがされました?」
茶碗の中にありとあらゆるおかずが乗っている。
「あ、いえ、何でもないです」
残飯に箸を動かす。
「あの、マツリ・・・」
紫揺の口からマツリの名前が出た。 四人が目を輝かせグイっと紫揺に顔を寄せる。 残飯が視野の下に映るが、そんなことはどうでもいい。
「マツリ様が?」
「あ・・・えっと。 ・・・なんでもないです」
「まぁ、何でも仰って下さいませ」
「ええ、そうですわ。 わたくしたちは紫さまのことだけを考えておりますのですから」
「え・・・」
「そうで御座います。 ただただ、紫さまのお幸せだけを」
「紫さまのお幸せが、わたくしたちの幸せとなります故」
「ですから、何で御座いましょう?」
最後は素晴らしいカルテットでズズイと寄ってきた。
「あ・・・えっと。 その、今ちょっとマツリに言い過ぎたかなって」
「まぁ! マツリ様のことをお気にされておられたと?」
「いや・・・そういう意味じゃないですけど・・・ちょっと、じゃなくてかなり嫌味を言っちゃったから、出て行っちゃったみたいで」
「まー、まー、その様なことをお考えになられておられたのですか。 ですがそのようなことはお気になさらず」
「え?」
「マツリ様は何もかも分かっておいでです」
「なにもかもって?」
「もう少しすればお分かりになります。 さ、お食べになって下さいませ」
止まっていた箸を残飯に動かすよう促す。
「あ・・・はい」
四人にじっと見られていれば食べにくいが、それぞれがあれやこれやと話を聞かせてくれる。 太鼓橋のある庭の花が綺麗に咲き始めたとか、池の鯉が増えたとか。
そう言えばと、彩楓が急に声を改めた。
「紫さま、危のう御座いますので、太鼓橋の欄干の上はお歩きになりませんように」
「え?」
“庭の世話か” が何のことかと目を合わせる。
「あれ? 見てたんですか?」
欄干に立って歩いたことを思い出した。 とてもつまらなかった。
“最高か” に休憩をして下さいと言ったら、とんでもないと言われた。 だからもう少しすればシキが来る、その時の茶の用意をしてもらえるよう頼んでその間に欄干の上を歩いていたつもりだったのだが、見られていたようだ。
「シキ様がお倒れになる寸前で御座いました」
そう言われればマツリから言われた。 欄干に座っていただけなのに『姉上が見られたら卒倒される』 と。
欄干に座っていただけなのに。 いや、シキは座る前、欄干の上を歩いていたのを見たのか。
「・・・シキ様」
どれだけシキに心配をかけてしまっているのだろうか。
グスリと鼻をすする。
「紫さま?」
あの築山でシキが五色の力の事を話してくれた。 ゆっくりと紫揺が分かるように笑みを添えて。
無理だ。 シキを想うと涙を止めることなど出来ない。
―――自分にそんな力なんてあるはずない。
右手で箸を持ち、左手の手首で涙を払う。
・・・払い切れない。 箸を持った右手の参戦も加わるが涙を払えない。
イヤだ。
どうして・・・。
トウオウの言葉がまた頭を巡る。
『シユラ様。 諦めようよ。 オレたちの運命としようよ』
「紫さま・・・」
四人の手から手巾が出てきた。 その時、バンと襖が開けられた。
「シキ様! ややもいるというのに、はしたないでは御座いませんか!」
昌耶の声が耳に入った。 顔を上げ振り返る。 襖の向こうにシキの顔が見える。 シキにピントが合った。 シキの前にはぼかしたようについてきた手巾。
一眼レフで撮ったようなワンショットが紫揺の前に見えた。
「・・・シキ様?」
身を捻じってシキに向き合う。
「紫・・・」
紫揺の頬に涙の足跡が見える。 マツリからそんなことは聞いていない。 紫揺が泣いているなどとは。
四人が手巾と共に身を引く。
「・・・紫」
シキが紫揺の前に膝をつき、紫揺の頭を抱え抱き寄せた。
「どこか痛いの? 苦しいの? 言ってちょうだい?」
ああ、そうか。 マツリは言っていないのか。
シキは紫揺が倒れた事だけに想いを馳せているんだ。 倒れた理由も、これからどうするも、簡単に受け止められていないのもシキに言ってないんだ。
それに四人が言っていた
『マツリ様は何もかも分かっておいでです』 『もう少しすればお分かりになります』 と。 言っていたのはシキのことだったのか。 マツリはシキを呼ぶために部屋を出たのか。 嫌味を言い過ぎたからではなかったのか。
「大丈夫です」
シキに頭を抱擁されながらも紫揺が顔を上げた。
「やや、おめでとうございます」
“やや” 初めて口にする言葉。 気恥ずかしいが、この地の、宮の言葉で言わなければ。
薄っすらとシキが頬を桜色に染める。
「ありがとう」
シキがもう一度紫揺の頭を抱き頬を寄せた。
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辰刻の雫 (ときのしずく) ~蒼い月~ 第98回
シキ様は? 澪引様は? と訊いたのだから、今の自分が何をしなければならないか分かったはずなのに、どうして、何故、などともがいてしまう。 涙が止まらない。
ポトポトポトと衣を濡らしていく。
「拭け」
僅かに顔を上げると手巾が差し出されている。 マツリの手の上に乗った手巾。
紫揺が百八十度向きを変える。 ゴシゴシゴシと手の甲や腕で涙を拭くが、どちらも涙を吸い取ってはくれない。 涙が顔じゅうに広がるだけ。
女人が手で涙を拭くなどと・・・。 だがリツソのように鼻を垂らして泣き喚かないだけマシか、と思いながらマツリが立ち上がった。
紫揺との間にあった卓の横を歩くと、百八十度向きを変えていた紫揺の前にしゃがんだ。
手の甲で手の平で腕で顔中を拭いている紫揺。 目が吊り上がったり下がったり。 その顔に手巾を押し付ける。
「手で拭ったとて拭えまい」
拒否するように紫揺が顔を避ける。
「今日はもう遅い、休むが良い。 あの者たちを呼んでよいか?」
あの者たち “最高か” と “庭の世話か” のことだ。 泣いている顔を見られてもいいかと訊いている。
受け取らない手巾を紫揺の頭の上に乗せる。 紫揺の返事があるまで待つ。
どれだけ手で拭っても涙が顔から離れない。 その上まだまだ次発列車ならず、次発涙が次々と生産されている。
「・・・どうして」
「うん?」
「どうして・・・私なの・・・」
「生まれ持った力。 それだけのことだ。 それは紫だけではない。 皆それぞれに生まれ持った何かの力を持っておる。 その力を持て余しておる者もおるだろう。 初代紫も、初代紫は・・・その力に苦しんだのだろう。 それを紫に同じ苦しみを味あわせないよう、初代紫は息吹を吹き込んだのだろう。 初代紫の配慮に感謝しあの紫水晶を扱え。 紫なら、お前なら出来る」
紫揺の頭の上から手巾を取ると、もう一度紫揺の顔に押し付けた。 しばらくじっとしていた紫揺だったが、手巾の上に手を置き涙を拭い始める。 全く楚々とした拭き方ではないが。
『シユラ様。 諦めようよ。 オレたちの運命としようよ。 ね、心当たりがあるならハッキリ言って欲しい。 その対処をしなくちゃ・・・力の使い方を覚えなくちゃ、北の領土以外では生きていけないよ』
北の屋敷で自分の部屋を破壊した日、トウオウが言っていた。
もう何十年も前のような気がする。 そんなことは無いのに。 トウオウのその声が何度も頭に繰り返される。 そして段々と小さく・・・。
涙を拭いていた紫揺の手が落ち身体が揺れた。 咄嗟にマツリが紫揺の身体を支える。 また気を失ったのか? 焦ったマツリが紫揺を覗き込む。
―――熟睡。
完全に寝息を立てている。
「は? 座ったままで? さっきまで泣いていたのに?」
話も中途半端なままだし、気を失っていたといえどかなり寝ていたはずだ。 それなのにまだ寝る?
信じられないという目をした。 紫揺を抱えながら今度は呆れた目で見る。
だが・・・暫くするとクックと笑いが出てきた。
パチリと目が開いた。
装飾の施された木が幾つもの大きな真四角にかたどった見覚えのない天井。 首を捻ると見たこともない部屋の中が目に映る。
「・・・どこ?」
起き上がると布団の上で寝ていたのだと分かる。 その布団はシキの部屋のように膝の高さくらいの寝台に敷かれていた。
寝台の上で記憶の頁をめくる。
そうだ、気が付いたら本領に居た。 マツリの部屋に。 ・・・それから。
徐々に昨日のことが思い出されていく。
「くそっ! マツリの前で泣いたんだっ!」
紫揺の声が少々大きかった。
「お目覚めで御座いますか?」
襖の外から声が掛かった。 それは覚えのある声音。
「あ・・・はい」
ゆっくりと襖が開くと “最高か” と “庭の世話か” が襖の前に立ててあった衝立の横から入ってきた。 襖を開けても部屋の中の様子が回廊から見えないように、若木に小鳥が止まっている絵を施した漆塗りの衝立が置かれている。
衝立の両横に二人ずつ座ると手をついて頭(こうべ)を垂れる。
「あの・・・」
静々といった態で頭を垂れていた四人がバッと頭を上げると、すぐさま立ち上がり衣を翻し紫揺に駆け寄って来た。
「大事は御座いませんか?」
「え・・・全然・・・。 あの、ここは・・・?」
「マツリ様がお待ちに御座います。 失礼とは存じますが、彩楓がご説明を致しまして、わたくし共がお着替えをお手伝いさせていただきます」
紅香が “庭の世話か” に視線を送る。 心得たとばかりにシキに言われ用意していた衣装を寝台の横に置く。
「紫さま、お立ち下さいませ」
彩楓が言う。
言われるがままに寝台を降り下り立ち上がると、紅香と “庭の世話か” が忙しく手を動かし始めた。
紫揺の正面に座した彩楓が口を開く。
己らはマツリの部屋の前の回廊で紫揺を待っていた。 以前であるのならばシキの部屋に案内するが、今回は客の泊まる部屋に紫揺を連れて行くようにとマツリから言われていた。 四方には了解済みだと。
宮の中が沈み返り、夜告鳥の声も聞こえなくなった時、マツリの押し殺した笑い声が聞こえてきた。 何事が起きたのかと思っていれば「居るか?」 と尋ねられた。
「はい」と応えると「開けよ」と言われ、襖を開けると立っているマツリに抱きかかえられた紫揺が居た。
また気を失われたのかと四人が血の気を失いかけた時
『話の途中で座りながら寝たようだ。 疲れたのだろう、案ずることは無い』 そう言ったという。
それから用意をしていたこの部屋に案内したということだった。
「え? うそ・・・」
話の途中で? 座りながら? 寝る? そんな器用なことが自分に出来たのか?
「マツリ様が仰っておられました。 紫さまをお疲れにさせるお話をされたと。 今日は紫さまのお疲れが取られるまでお待ちするようにと」
マツリが紫揺を抱えながら眉を顰め「トウオウ・・・」 と独語を吐いたことは言わない。
マツリが言うより先に腕の中で「トウオウ」と紫揺が言ったのだった。
トウオウは北の領土の異(い)なる双眸を持った五色。 マツリが紫揺からトウオウの名を聞いたのはこれで二度目だった。
それに一度目は聞き逃すことが出来ないシチュエーションで。 それはあくまでもマツリ的にだが。
紫揺が「トウオウ」と言った時、抱きかかえるマツリの腕がビクリと動いた。 それを見逃すことがない “最高か” と “庭の世話か” だった。
彩楓と話している間にもスススと着替えが進んでいる。 キュッと帯が締められた。
最初にマツリが待っていると言っていた。
「えっと・・・」
今何時ですか? とは訊けなかったのだった。 まだまだ日本の感覚が抜けない。
「二日間、お倒れになられており、夕べやっと遅くに食を口にされました。 今は昼餉の時はとうに過ぎております。 お召し上がりになられましょうか?」
是非とも食べて欲しい、そうでなければ身体に宜しくない、という眼光を送りながら訊いている。
「え? お昼すぎてるんだ・・・」
どれだけ寝たのだろうか。 二日間もぶっ倒れて寝ていたというのに。
「昼餉はどうなさいます?」
彩楓の目が恐い。 と思っていたら、他の三人の目もあまりに眼光が鋭すぎる。
「あ・・・いただきます」
いつの間にか着替えが終わっていたようだ。
どうしてだ。
昼餉を食べるだけじゃなかったのか。
何故、マツリの部屋にいる。 そして何故、昼餉を食べる紫揺の前にマツリが座している。
「よく眠れたか」
無視を決め込み箸を動かす。
「この刻限まで寝ておったのだ。 疲れは取れただろう」
ドンダケ嫌味なヤツ。 たしかに寝過ぎたが。
「夕べ言っておったあの紫水晶、石の話は覚えておるか。 本領の端まで置いたということを」
箸を止めると上目遣いにマツリを見る。
夕べの話を回想する。 たしかにそんなことを聞いた覚えがある。
あの紫水晶は本領の端に置いてあるから、今のところあの紫水晶からの影響はないやらナントカ。
コクリと頷く。
「これからキョウゲンにあの紫水晶を取りに行ってもらう。 あの紫水晶と向き合えるか? まだ整理がついていないようならばキョウゲンは飛ばん」
「・・・」
動かしかけた箸が止まった。
「キョウゲンが取りに行っても戻ってくるに何辰刻もかかる。 いま飛び立って今すぐ向き合うということではない」
箸を動かす。
「・・・あと半日」
「え?」
「・・・夕時になってから」
いまキョウゲンが飛び立てば陽の光の中を飛ばなくてはならない。 夜行性のキョウゲンのことを考えて言っているのだろう。
「それまで・・・」
「・・・何をしておる」
不思議なほど色んなおかずを茶碗の飯の上に乗せていた。
「あ・・・」
意識なくやっていたようだ。 良く言えば彩丼ぶりの出来上がり。 ストレートに言えば残飯に近い。
盛ったものを捨てるわけにはいかない。 残飯に見えるが口に運ぶ。 胃の中に入ってしまえば同じことなのだから。
「・・・それまで・・・、マツリの話を聞く」
マツリが両の眉を上げた。 残飯をかっ食らう紫揺を見ながら。
「力のこと何も知らないし。 ムカつくけど、腹立つけど、顔も見たくないし声も聞きたくないけど・・・話を聞く。 仕方ないから。 マツリと同じ場所にいたくもないけど」
むかつくの意味は分からないが他は分かる。
「そうか。 では食し終えてから話を聞かせよう。 まずはゆるりと食べよ」
そう言うと立ち上がり部屋を出て行った。
あれ? 言い過ぎたか? 箸が止まる。
マツリとすれ違いに “最高か” と “庭の世話か” が入ってきた。
「いかがされました?」
茶碗の中にありとあらゆるおかずが乗っている。
「あ、いえ、何でもないです」
残飯に箸を動かす。
「あの、マツリ・・・」
紫揺の口からマツリの名前が出た。 四人が目を輝かせグイっと紫揺に顔を寄せる。 残飯が視野の下に映るが、そんなことはどうでもいい。
「マツリ様が?」
「あ・・・えっと。 ・・・なんでもないです」
「まぁ、何でも仰って下さいませ」
「ええ、そうですわ。 わたくしたちは紫さまのことだけを考えておりますのですから」
「え・・・」
「そうで御座います。 ただただ、紫さまのお幸せだけを」
「紫さまのお幸せが、わたくしたちの幸せとなります故」
「ですから、何で御座いましょう?」
最後は素晴らしいカルテットでズズイと寄ってきた。
「あ・・・えっと。 その、今ちょっとマツリに言い過ぎたかなって」
「まぁ! マツリ様のことをお気にされておられたと?」
「いや・・・そういう意味じゃないですけど・・・ちょっと、じゃなくてかなり嫌味を言っちゃったから、出て行っちゃったみたいで」
「まー、まー、その様なことをお考えになられておられたのですか。 ですがそのようなことはお気になさらず」
「え?」
「マツリ様は何もかも分かっておいでです」
「なにもかもって?」
「もう少しすればお分かりになります。 さ、お食べになって下さいませ」
止まっていた箸を残飯に動かすよう促す。
「あ・・・はい」
四人にじっと見られていれば食べにくいが、それぞれがあれやこれやと話を聞かせてくれる。 太鼓橋のある庭の花が綺麗に咲き始めたとか、池の鯉が増えたとか。
そう言えばと、彩楓が急に声を改めた。
「紫さま、危のう御座いますので、太鼓橋の欄干の上はお歩きになりませんように」
「え?」
“庭の世話か” が何のことかと目を合わせる。
「あれ? 見てたんですか?」
欄干に立って歩いたことを思い出した。 とてもつまらなかった。
“最高か” に休憩をして下さいと言ったら、とんでもないと言われた。 だからもう少しすればシキが来る、その時の茶の用意をしてもらえるよう頼んでその間に欄干の上を歩いていたつもりだったのだが、見られていたようだ。
「シキ様がお倒れになる寸前で御座いました」
そう言われればマツリから言われた。 欄干に座っていただけなのに『姉上が見られたら卒倒される』 と。
欄干に座っていただけなのに。 いや、シキは座る前、欄干の上を歩いていたのを見たのか。
「・・・シキ様」
どれだけシキに心配をかけてしまっているのだろうか。
グスリと鼻をすする。
「紫さま?」
あの築山でシキが五色の力の事を話してくれた。 ゆっくりと紫揺が分かるように笑みを添えて。
無理だ。 シキを想うと涙を止めることなど出来ない。
―――自分にそんな力なんてあるはずない。
右手で箸を持ち、左手の手首で涙を払う。
・・・払い切れない。 箸を持った右手の参戦も加わるが涙を払えない。
イヤだ。
どうして・・・。
トウオウの言葉がまた頭を巡る。
『シユラ様。 諦めようよ。 オレたちの運命としようよ』
「紫さま・・・」
四人の手から手巾が出てきた。 その時、バンと襖が開けられた。
「シキ様! ややもいるというのに、はしたないでは御座いませんか!」
昌耶の声が耳に入った。 顔を上げ振り返る。 襖の向こうにシキの顔が見える。 シキにピントが合った。 シキの前にはぼかしたようについてきた手巾。
一眼レフで撮ったようなワンショットが紫揺の前に見えた。
「・・・シキ様?」
身を捻じってシキに向き合う。
「紫・・・」
紫揺の頬に涙の足跡が見える。 マツリからそんなことは聞いていない。 紫揺が泣いているなどとは。
四人が手巾と共に身を引く。
「・・・紫」
シキが紫揺の前に膝をつき、紫揺の頭を抱え抱き寄せた。
「どこか痛いの? 苦しいの? 言ってちょうだい?」
ああ、そうか。 マツリは言っていないのか。
シキは紫揺が倒れた事だけに想いを馳せているんだ。 倒れた理由も、これからどうするも、簡単に受け止められていないのもシキに言ってないんだ。
それに四人が言っていた
『マツリ様は何もかも分かっておいでです』 『もう少しすればお分かりになります』 と。 言っていたのはシキのことだったのか。 マツリはシキを呼ぶために部屋を出たのか。 嫌味を言い過ぎたからではなかったのか。
「大丈夫です」
シキに頭を抱擁されながらも紫揺が顔を上げた。
「やや、おめでとうございます」
“やや” 初めて口にする言葉。 気恥ずかしいが、この地の、宮の言葉で言わなければ。
薄っすらとシキが頬を桜色に染める。
「ありがとう」
シキがもう一度紫揺の頭を抱き頬を寄せた。