人を大切にする、人を愛する、という意味が未だに分かっていないようです。男の友情とか、女の友情とか言いますが、その違いも、真剣に問い詰められますと、明確な返事も出来ません。こうして数十年の人生が流れて、今日にいたった次第ですが、もう、このような理屈は、哲学的に思索する必要がないのかもしれない、と今、ふと、気づきました。それよりも身近な友達や学友達が、どう人々と関わって、泣いたり、笑ったりしているかを、明るく楽しく爽やかに、ひそかに観察してみたくなりました。そこにこそ愛情、友情の人間らしい現実が見えてきて、身近な人間関係での喜怒哀楽の中に大きな人生での愛の姿が見えてくるのかも、とふと、思いました。愛について思索する方法は、大げさな、ドラマチィックなものではなく、日常生活でのマンネリズムの中で垣間見られる人間関係での喜怒哀楽にこそサムシンググレートの配慮、摂理、愛の姿があるらしい。心がジーンとくる相手の眼差し、言葉、雰囲気をこれから大事にしていきたくなりました。ギリシャ神話、新約聖書、旧約聖書、ケルト神話、日本神話を気楽に読んできましたが、どの物語も現代の人間関係での喜怒哀楽を大げさに表現してはいます。これらの大げさな物語が何を示唆しているかを私は長年、少々考えすぎたような気がしてきました。日常生活での喜怒哀楽の奥に潜む真理を古代の人々が大げさに言いたくなる気持ちがわかってきたような気がします。現在の人間関係を益々大切に生きていくために、ギリシャ神話や古典を益々、愛読していこうと、としみじみ思う今日日曜の朝です。
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