五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

田植えの季節

2015年05月09日 | 第2章 五感と体感
田植えの季節です。
水が張られ、稲の苗が植えられる風景は、身心を和ませる力を持っています。
先日の旅では、山形からの帰り道、久しぶりに日本海を眺め、新潟の田園地帯を抜けて関越道を走りました。ゴールデンウィークの直前でもあり、連休返上家族総出で田植えをされるのでしょう。田植えの準備に勤しみトラクターが動く光景を方々で見ました。

幼い頃二年間住んでいた福井・大野の家の隣の家には田んぼがありました。
水を張った田んぼに浸かった人々が細い緑色の苗を手に持ち、一つ一つぬかるんだ土に挿してゆく手元を見ると何故か心が安らぐのでした。
夏になると自分の背丈よりも高くなった稲が、青々と風にそよぐのを見ることも私のお気に入りの風景の一つでした。

自分の身心を和ませる風景が田んぼであることは、新幹線で関西に行き来する事が多くなったここ12,3年に気付いたことです。
小学一年生から身近に田んぼの無い場所に住むようになり、忘れていた風景を思い出させてくれたのです。

田植えの季節。水を張った田んぼに晴天の空と雲が映るのも何とも素敵な風景です。
稲がすくすく育ち、出来る事なら安定した天候が続き、豊作でありますよう祈ります。
五月に入り、方々で五穀豊穣のお祭りも行われています。
そろそろ田んぼの蛙が賑やかに鳴く季節となりましょう。頼もしや頼もしや。


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土地に立つ

2015年05月08日 | 第2章 五感と体感
土地に立ち、その土地を見て、空気に触れて、匂いを嗅ぎ、聴こえてくるものに耳を澄まし、できることならその場所の食を味わう経験を意識化して言語化することで、「自分」という主体が、自分を通して、その土地の比較考察をすることがフィールドワークとなります。
ここで大事なのは「自分」という個性化された概念から湧く「思考や感情」です。
「私」は「私」であり、他の何者でもありません。
その私が感ずることは、私そのものの感覚でもあり、概念でもあります。
ただ、数人でそこを訪れると、それぞれの概念がそれぞれの言葉を発するので、そこで今度は訪れた人々の比較考察やその人の個性の美を知ることにも繋がります。

先日、甲骨文字の専門家が「寺」の説明をしてくださいました。「寺」とは、「一寸たりとも動かない」という意味であるそうです。私はそれを聞き、「聖地」の定義の一節を思い出しました。「聖地は、一寸たりとも動かない。」
一寸たりとも動かない場を感じ取るのは、やはり「人」です。
「人」に五感や知覚を与え、言葉を紡ぐ能力を与えたことは、人と人とのコミュニケーションだけが目的ではなさそうです。

五感で感ずることを咄嗟に感ずる「印象」も大事でしょうが、その場を離れ、時間が経ってからじわじわと湧いてくる思いの方がより深いことも、人の特徴でもありましょう。今年前半、方々訪れた場所を書き連ねながら、これから予定している旅の場所で自分が何を感じてどんな言葉が出てくるか、今から楽しみです。


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連休明け

2015年05月07日 | 第2章 五感と体感
ゴールデンウィークが明けました。
普段のペースでは出来ない仕事を集中してやったおかげで、旅の後の5連休は実家に行くぐらいで殆ど家の中で過ごしました。
仕事に煮詰まると冬夏物の服の入れ替えに勤しみ、ビニール袋に溜まっていく不用な服に微かな快感を覚えつつ、毎年恒例の地味な私のゴールデンウィークは終わったわけです。
そんなわけで、朝から出かける仕事のためにバタバタと家事をこなす主婦的動きをしてようやく連休が明けたことを意識しています。
このような性格なものだから、自らを家から引き離さない限り「休み」という行為を成しと得ないようにも思います。こういうのを貧乏性って言うのかもしれませんが(笑)。しかし、「誰とも口を利かず、黙々と仕事に勤しむことができる環境が整う」のが連休だという意味では、しっかりと休みを取ったのかもしれません。

私の貧乏性の話はさておき、新年度から一か月が経ち、そろそろ緊張の紐が緩む頃です。

「自分は随分頑張ってきたよなぁ~」と、心に胸をあて、連休明けだからこそ、一か月の疲れを意識してみる時期のようです。

新しい環境の中、自分のペースが整うには、人によってはまだちょっと時間がかかるかもしれません。

自分が新しい環境や人間関係に慣れていくのにどのくらいの期間が必要なのかを思い巡らしてみることも身心の健康維持に役立ちそうです。

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縄文のかたち:法螺貝編

2015年05月05日 | 第2章 五感と体感
出羽三山神社を詣でた際頂いたパンフレットにホラ貝を吹く修験者の写真が載っていました。今まで吉野や熊野三山を詣で、その上数ヶ月前に父がホラ貝を手にしたため、何となくホラ貝を吹くときの持ち方が頭の中に記憶されていたのですが、何か違和感を感じました。
もしかしたらパンフレット掲載用のポーズかとも思いましたが、ふざけるようなパンフレットでも無いので父に問い掛けてみました。
すると、違うそうなのです。持ち方が。
出羽三山は、他とは違うのだそうです。

ホラ貝を右方向に高めに上げ、ホラ貝の開いた口側を上に向け、高々とした感じで吹くようなのです。

何となく原始に近いような印象を持ちました。

音の出るものを高々と崇め、威厳的な立ち姿は、色々な情報が詰まり、そして戒律的な中で修験を極めようとする雰囲気とは少々違う印象なのです。

もっと、自然に近い。

これが東北の縄文的な大らかさの名残であるのかもしれません。

出羽は、明治以降陸奥の国から分離され、出羽国は秋田と山形、二県から成ります。東北の国々から分離され、本来出羽国の歴史は奈良時代に遡ります。つまり、明治時代になり、改めて明治政府が東北[蝦夷]を陸奥と出羽に分けたのは神仏習合の習わしと分離に対して何らかの特別な措置を取ったからなのでしょうか。だとすると、原始の形が断たれることなく、そのまま続いてきたとするとさもありなんのようにも思います。(これは私の勝手な推測です)。
秋田には白神山地があります。出羽三山、白神山地、そして鳥海山。
北前船の大切な拠点もあり、北海道を開拓するためにも特別な配慮も必要だったことでしょう。
江戸時代においても関ヶ原の合戦で活躍した酒井家が代々治めていました。
鶴岡市内は、明治以降にハイカラな西洋風の建物が建てられ、豊かで落ち着いた城下町でもあります。

日本を隈なく歩くには時間が足りません。。。


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月山

2015年05月03日 | 第2章 五感と体感
旅を終えて、久しぶりに森敦の小説「月山」を本棚の奥から取り出しました。
本の装丁は確か石岡英子が手掛け、表紙画は司修、題字は灌頂記の空海の文字です。出版は昭和49年。この小説で森敦は芥川賞を取りました。
私が中学一年か二年の時の事です。
この小説の装丁の素晴らしさと小説の美しさに感動し、以来数年に一度は読んでいます。
今思うと生意気な中学生だったとは思うのですが、子供でも本質的な審美を掴み取ることができる事の証しでもあるように思うのです。
感動の時から40年。今回の旅で初めて月山の懐を車で通過し、生まれたての緑色に残雪の山肌をこの世のものとは思えないくらいの配色に浄土の色の一つであろうと目を細め、その風景が心に留まっています。

「すなわち、月山は月山と呼ばれるゆえんを知ろうとする者には月山と呼ばれるゆえんを語ろうとしないのです」
森敦が描いた月山の表現は、私が歳を重ねるにつれ、尤もであると思うようになり、自分の内に深く刻まれている比喩となっているようです。

出羽三山は月山、湯殿山、羽黒山から成り、その全体を庄内平野から把握するのは少々難しいのです。古来からの信仰の山であり、神仏習合、つまり神と仏と古層の神々が堂々とおはしています。
今回の旅は、羽黒山の出羽三山神社を詣でました。月山の山開きは7月1日です。それほど標高が無いとはいえ、羽黒山の山頂境内にも雪が残っており、朝一番の参詣のお陰で神官の朝のお勤めと共に参拝が叶い、開帳と共に顕れる御神体を有り難く頭を下げました。
険しい山道を地元衆が毎年4月29日に掃除をするとのことで、地区毎に分担された階段を掃き清めていました。大勢の人々が一気に清掃する光景に人々の結束力と繋いでゆく使命の心得に改めて森敦の言葉が浮かんでくるのでした。

近い将来必ず月山の山肌に足を乗せ、願わくば肘折温泉で森敦の文章を読み更ける願望を叶えたいと強く思うのでありました。
死者のすまう山であるならば、自ずと辿りつく山であるやも知れませぬが。

出羽三山の参詣は麗しいものでありました。


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