photo:久良岐能舞台
雨上がりの朝、久良岐能舞台の山門をくぐると、水を含んだ土と草木から蒸気が立ち、青々しい新緑の香りに迎えられました。
ありがたいことに年に数回、能舞台に立つ機会を持たせていただいています。このような機会を惜しげもなく与えてくださる師匠に恵まれ、本当に私は出会いに恵まれているなぁと、しみじみと思います。
舞台に立たせていただくごとに、色々な実感が湧いてくるのですが、出来はまだまだとしても敦盛クセを舞うのが3月に続き二回目とあって、謡いの曲想と自分の所作が繋がることを意識出来たように思い、舞い終わった途端、「次へ」の情動が不思議と湧いてきたのです。あやふやな所作がクローズアップされてきたことで、ギリギリまで練習したのですが、あやふやなことがあやふやであることを気づくことができたのも、私にとっての進展かもしれません。
能を始めて5年目の春。ようやく一歩歩んだ心地になりました。
能の出合いは、中学生の頃、毎週日曜日の早朝にNHKで放映していた能楽です。日曜日、家族が誰も起きてこない早朝にリビングで一人能を観る事が恒例でした。自分でチケットを購入できるようになった学生の頃から能舞台に足を運ぶようになりました。美術を学びつつ、自分の興味は西洋よりも東洋に向き、曼荼羅を追い求めてインドやネパールを旅する中、その頃から、仏教講座を一般に開講する所が出始め、私なりの学びをしてきました。
段々と能の装束や日本の和室文化のしつらえが、私の身体に沁み込んでいることを改めて気付くこととなり、掛け軸や屏風を作り自分の作品をはめることで、自己表現を行ってきました。いつしか、表具の美しさの虜になってしまうわけですが(笑)
謡曲を謡いたいという気持は、20代の頃からありましたが、友人が習い始め「一緒にどう?」という言葉を掛けられたのは、それからとうに20年以上過ぎた時でした。その友人は、足を突っ込む前に止めてしまい、結局私の方が入門。何かに出合うというのは、こういくことかもしれません。
「自分のやりたいことを選んでいくこと」も「やらざる得ないこと」も、どちらにしても成りたい自分を自分が作り上げているようです。
「人は成りたい人に成る。」
という言葉に真実味を感じるようになったのも、人生五十年ゆえの我が感情なのだと思うわけです。
お金があろうと無かろうと
環境に恵まれていようといまいと、
やっぱり、「人は成りたい人に人は成る」ことは嘘ではなさそうです。
あれが欲しい、これが欲しい、
これがやりたい、あれがやりたい、、、
生きていればこそ、です。
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