五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

神様の愚痴を聞いた

2009年02月22日 | 悔いのない人生とは?
先日、能楽を鑑賞しました。
学生時代の友人の祖父様が能で家を潰した、、という話がいつも頭のどこかにあり、「そこまで取り憑かれるものなのか・・・」と能を鑑賞するたびごとに、佐渡島出身の友人を懐かしく思っていました。

去年の秋から謡と仕舞を始めてまだ数か月。いま話題の「呂律ろれつ」を向き合って座る師匠からの口伝で、真似をしながら、少しずつ練習を重ねています。

見るのと聴くのでは大違い。
能と私の付き合い方は、一人ぼっちになって自分と向き合う座禅みたいなもので、薪能以外は、人と連れあっていくことはめったにありませんでした。
始めてみて、「見る」ことと「演じる」ことは、天と地以上に違うことを思い知らされています。
どうも、私の想像以上の時空感が舞台にはあるようです。

先日の演目は、「葛城」。

出羽三山の羽黒山から吉野に向かう山伏が、もう一息というところで吹雪に遭い、休むために立ち寄った庵で葛城明神の化身である女人に出会います。
女人は、神であることをほのめかし、「罪を背負っていることに、ほとほと疲れ苦しんでいます。助けてください。。。」ということを語り、消え去ります。
そして、里人が葛城の神が本山への岩橋をかけ損ねて、怒りをかい、蔦葛で体を縛られてしまった、、、という伝説を語ります。
それを聞いた、山伏が供養を行います。
そこで、現れた葛城明神。。。蔓草にまとわれた自分の醜さを恥じりつつ、神楽を舞うのです。舞ながら再び岩戸へと隠れていきます。

神仏習合の美しい物語です。雪降る白銀の情景の中で、舞う神を表現する謡の「言の葉」が花びらを一枚一枚落としていくような美しさです。
面をつけていない山伏の演者の表情がだんだんと高揚していき、舞台の中での「気」が壮大な空間を創り上げていくのがわかります。これは、観客とは隔絶された遠い魅力です。
なるほど、これを知ってしまうと後には戻れないかな・・・

ほどほど、というものがどこまでかは分かりませんが、「神と私」を繋げる古来からの芸能は、永遠普遍のものであると、しみじみ思いました。

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