Mr.コンティのRising JAPAN

マスコミの書かない&書きそうもない!スポーツ界の雑学・裏話を、サッカーを中心にコメントを掲載していきます。

Best is the Best

2005-11-29 | EURO Football
欧州での商用を終え帰国の道中に寄った Copenhagen 飛行場内のテレビに“Death George Best” の BBCの報道が映し出されたのは” Press and Book “ でお気に入りの雑誌と新聞を購入すべくレジに並んでいた現地時間の11月25日の午後1時過ぎであった。同日、25日付けの朝刊 Times では Cover Page には約半分を Best の顔写真に”主治医からもう余命幾許も無い、後1時間も生きられないと宣言された元 Manchester United のサッカー選手 George = Best の家族は昨夜彼の枕元に集まった“とのキャプション付きで掲載され、Reverse Cover Pageから7頁に渡り Best の特集記事が組まれた。前日24日付けの同 Times では同じく Manchester United の Roy Kean の引退記事に数頁を割いており、半頁に Best の主治医である Roger Williams 氏のコメントと彼自身の紹介が掲載されていた。 Roger 氏によると( Best は )ここ数週間,最も穏やかな表情になったがもうGeorge Best がこれ以上生き続けられる事は難しいと報道陣に答えたらしい。24日の BBC News の報道でも Bobby=Charlton, Sir Alex Ferguson らが見舞いに訪れたことを報道。かなり厳しい状況と報道されていた。その死因は重度のアルコール依存症から来る肝臓機能障害。74歳の主治医 Williams 氏は肝臓器分野の権威でもあり、5年前から Best を診察していた。最初に Best が West London にある Cromwell Hospital を訪れた際に受付嬢が彼に George=Best が来診している事を興奮気味に伝えられたそうだが、結婚暦が2度有り8人の子供がいて Sailing が趣味で最近 J92 Boat を購入した Royal Ocean Racing Club と Royal Yacht Squadron のWilliam 氏は(さすがは Times そこまで調べるか??) George=Best が誰なのかは全く知らなかったそうだ。William 氏は Best は常に私を Doctor と呼ぶほどに紳士であったとコメントしており、この病状も”多くの訪問者が一杯勧めるのを彼は断りきれなかった“と指摘。また2000年にはアルコールが死因となった人は 5,525 人であったのが、いまや年間 6,525 人にも登っていると。 その William 氏が出会うまで知らなかった George=Best こそ Manchester United の生んだ最大のスーパースターであったと認めるサポーターは少なくない。先日入手した The Unseen Archives Manchester United と言う写真集では歴代のどの選手、監督よりも多い28頁に渡って紹介されていた。Best is the Best と言う Phrase は当時のサポーター同士の挨拶替わりにもなったらしい。残念ながら私は彼の全盛期を知らない。あと4~5年いや3年生まれたのが早ければ日本代表の メキシコ 五輪の銅メダルと George=Best 観られたのにと思ったものだった。 1963年に 17歳で West Bromich Albion 戦でデビューを果たし、同年の Nottingham Forest 戦では初ゴールを挙げ 5-1 で大勝する立役者に。最も彼を有名にしたのは 1968年の Europe Champions Cup の決勝戦で Benfica Lisbon を破り England Club に初めて欧州王者のタイトルをもたらした試合であった。Manchester United 通算出場試合 466試合。通算得点は176であった。しかし、Tommy Dorcherty が監督に就任すると彼の自由奔走なせ性格が災いしチームを出る羽目に。次の所属先はなんと non League の Dunstable であった。そこでも試合になれば普段は200人程度しか集まらないチームに12,000人の観衆をもたらした。彼を気の毒に思ったのか直ぐにかつての僚友 Rodney Marsh のいたFullham FC が契約。だが直ぐ ”London を運転中に Drink Canada Dry の( ジンジャエールの宣伝)広告を見たので“と言う理由でアメリカに渡る事に。当時アメリカは NASL ( North America Soccer League ) と言う League があり、 1975年に New York Cosomos がサッカー界の神様 Pele を強引に口説き落として3年契約で復帰させ、後にItaly の キナーリャ 西ドイツの ベッケンバウアー、Hollad の ニースケンス, Brazil の マリーニョら当時の Big Name と契約、1979年には Johan=Crayff が Washington Diplomats に入団するなど世界でも話題になっていた。Best の所属は Los Angels Aztecs 。早速現地の Play Mate Girl の Linda Joinett と浮名を流す事に。”ここに来たばかりの時は Soccer って何だい?って聞かれたよ。でも今は George=Best って誰だい?ってきかれるのさ“と笑いながら英国のインタビューに答えたらしい。 引退後の彼の人生は現役時代とは対照的であったと言えるだろう。1984年には飲酒運転で警察に逮捕され、後にテレビの解説やイベントゲスト等で生計を立てていたが人前で話すことが不得手な彼には適職でなかったらしい。現役時代、英国人ではSusan George, Linda Joinett, Eva Haraldsted, , Best の歌を歌ったLucy, Toni Ceo, Jacky Glass, Silvia Hederhy, 元 Miss World の Mary Steven, アメリカ人ではHeidi Stillians, スウェーデン人のElisabeth Benson らとの女性関係が報道される様にピッチ以外でも Best はスターだった。当時 Jacky Charlton や Denis Law らが一週間に£500稼ぐところを Best は £5,000 稼いでいたと言われる。だがそれらの女性関係も2度目の伴侶 Alex Fursey を1984年に迎えることによってピリオドを打った。 だがアルコールグラスは放せなかったようだ。Alexは何度も夫がアルコールに溺れている姿に涙したと言う。そして上述した DOC. Roger Williams の初診察には彼女が付き添っていた。おそらく Best は現役時代、 当時のManchester United 監督の Matt Busby は彼の父親代わりの様に慕っていたのではなかったか?それ故にピッチ外での派手な生活も Busby の掌の中でのごとくに思っていたのか?それとも、サッカー選手になる前の貧しい暮らしが長かった事からピッチ以外ではまた貧乏暮らしになるのではとの不安に駆られ、それを紛らわしたかっただろうか? 
彼を知らない人は如何に彼がすばらしい選手だったかを知らないとTimes のコラムが述べるとおり、彼は Pele, Cryff , Beckenbauer そしてDiego Maradona らと並んで賞される選手であるべきだったが、所属代表チームであった北アイルランドは当時弱ワールドカップの舞台とは縁のない国であった。当時ある Bar で Bobby Charlton の写真の卵を投げつけたというエピソードも。5人目の Beatles とか欧州選手では南米並みのテクニックを備えたと言う様な賞賛ではワールドカップに出場したと言う実績には及ばなかったのか。だが George=Best が当時の Manchester United のサポーター達に最も愛されたと言う事実は変わらない。もう一度言わせてもらおう。Best is the Best と。

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1 コメント

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ご無沙汰しております (nobuta)
2005-11-29 19:57:57
立ち寄ってエントリを覗くことは結構あるのですが、コメントを残すのは久しぶりになります。当方にコメントを頂き、Yahooで開設されたブログを見させていただいておりますが、あちらにコメントを残すことが出来ないので、コメントを残す機会がある場合は、こちらのブログに残すようにします(悪しからず)
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