Mr.コンティのRising JAPAN

マスコミの書かない&書きそうもない!スポーツ界の雑学・裏話を、サッカーを中心にコメントを掲載していきます。

Die Erste Liebe vom Leipzig

2005-11-18 | EURO Football
Leipzig は雨だった。でもおかげでまだ気温は平年並みには下がらなかった。来年開催される FIFAワールドカップの開催地の中で Leipzig が唯一、旧東ドイツ領からの開催都市に選ばれた。旧東ドイツ都市からの開催と言えば Dresden が一時は有力視もされていた。ここにはかつて Dynamo Dresden と言う強豪チームがあり、統一直前の 1990-1991年の Europe Champions Cup では マシアス=ザマー を擁して ベスト8に進出したが、準々決勝での優勝した Crvena Zvezda ( レッドスターベオグラード ) 戦で敗退が決まると観衆は暴徒と化した。今回の Dresden が開催会場から漏れたのもそれが遠因になっているか? ドイツ統一後、旧東独チームの衰退は激しく、Dynamo Dresden は今2部の16位に低迷している。統一後、東独リーグ上位2チームがBundesliga に組み込まれ, Dynamo Dresdenと Hansa Rostok を含めた20チームで1部リーグが構成されたが Rostok は18位に終わり直ぐに降格。 Dynamo Dresden は14位に終わり降格は免れたが以降の順位は 15位,13位と常に残留争いに参加。そして 94-95 のシーズンは最下位に終わり、以降まだ1部昇格は果たしていないが替わって Hansa Rostok が再び 95-96のシーズン から昇格、そのシーズンにいきなり6位に。以降 97-98 も6位、03-04 は9位と一桁順位にまで上がり10シーズン1部 リーグ に残った後昨 シーズン は17位で降格してしまった。他の旧東独地区にチームでは01-02, から2シーズンEnergen Cottbus が 1部リーグでプレーをし今は2部の3位につけ来季の昇格を狙っているがこの Home Town も Leipzig ではない。Leipzig をホームにするクラブチームは今Bezriksklasse (日本の都道府県リーグにあたる)所属する Lokomotive Leipzig や SG Olympia 1896 Leipzig, SG Mo Go No Leipzigらがあるが、Bayern Munchen や Werder Bremen と相対するのはいつの日だろう。来年のワールドカップ以降、これらの チーム が立派な Leipzig Arena を本拠地にするのかしら?東独代表のハイライトは何と言っても 1974年の ワールドカップ西ドイツ大会。結果的に最初で最後のワールドカップ出場となったこの大会ではグループリーグの最終戦で西ドイツと対戦する。既に東西ドイツは2次リーグ進出を決めていた。ベルリンで行われたこの試合は Sparrwasser のゴールで東ドイツが勝利をものにする。だが収穫のあったのは敗れた西ドイツの方だった。この敗戦により2次リーグでは、Johan=Crayff 率いる Holland 、連覇を狙う Brazil とは別のグループとなり決勝戦への道を短くなだらかに出来た。もう1つは大会前から物議を醸した 1972年欧州選手権優勝の英雄 ギュンター=ネッツァー の起用だった。チリ、オーストラリアに連勝するもネッツァーの出番は無かった。東ドイツ戦では得点の入らない自国の試合振りに業を煮やした観衆が “ ギュンター!ギュンター!“と彼の出場を促す。そしてSchoen監督はネッツァーを送り出す。大歓声を受けてようやく地元ワールドカップのピッチに立ったネッツァーであったが、上述した Sparrwassr のゴールに西ドイツは沈む。これで Schoen監督の、ネッツァーの様な芸術家よりも、ボンホフ、オベラーツ、ヘーネス、グラボウスキーといった労働者タイプの有用性の証明を世論に示す事ができた。以降ネッツァーはベンチにも入れず、優勝の瞬間は観客席にいねばならなかった。だがスタンドから主将のベッケンバウアーに握手を差し出すその姿は紳士そのものであった。そして東ドイツは2年後のモントリオール五輪で Poland を破り金メダルを勝ち取る。しかし期待されたアルゼンチンワールドカップは シャヒナー、クランクル、ペッツィらを擁したオーストリアの前に連続出場を阻まれ、オーストリアは本大会でも38年ぶりに西ドイツを破ってしまう。1980年の欧州選手権予選、東ドイツは Poland, Holland と同じ組に分けられた。冷戦時代の欧州ではスポーツと言え東側諸国には気が使われた。当時の Champions Cup でもまず共産国同士で1回戦を闘ったものだ。それでもこの欧州選手権の組み分けは死のグループと言えた。3カ国の激戦が続き、最終戦 Leipzig での Holland戦を残して東ドイツが単独首位に立つ。Holland は74年のメンバーから Crayff, Rensenbring, Neeskens, Rep, Haan らが抜けたがアジア系の Simon=Tahamata, Chu=La Lin らが入ってきた。最終戦も激しい試合となり前半で東ドイツは2点を先制する。そして La Lin と東ドイツDF が乱闘を始めて退場に。Holland はいよいよ苦しくなるが、後半に何と3ゴールを東ドイツゴールに叩き込み翌年イタリアで開催される欧州選手権出場を決めた。しかし、その後 Holland が ワールドカップに再登場するのは フリット、ファンバステン、ライカールト の登場まで待たねばならず、それと入れ替わりにベルリンの壁は崩れた。今 Leipzig の街を歩く建物等いたる所に共産圏時代の名残を見出せる。中央駅はショッピングモールと化しているがこれは旧東独の特徴だ。他に改造できる建物が無いのだ。失業率も旧西ドイツ地区よりも高い。最近ここに設立された工場には雇用促進の為に国から補助が出ている。その制度に旧西ドイツ地区の人々は不満を隠さない。ここの工場で働く若い人は少ない。聞けば Berline や Frankfurt に仕事を求めて行く人が今も絶えないらしい。ここで働くおばさん達は英語を殆ど話さない。ロシア語なら結構話す。これも共産時代の名残だ。こちらも習いたてのドイツ語と知っているロシア語の単語を並べて話し掛けるとみな満面の笑みで会話の中心に据えてくれる。”結婚はしているのか?子供は?この後どこに行くのか?“これも共産時代の遺物だ。だが、こういった”財産“は永遠に残して欲しい