Mr.コンティのRising JAPAN

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テレマカシ マレーシア モスクワ五輪予選

2006-01-17 | Football Asia
マレーシアの首都 クアラルンプール には立派な競技場が幾つか目に付く。1996年、アトランタ五輪予選に臨み28年ぶりに五輪出場を決めた思い出の競技場として憶えておられる方も。今はもう国際試合には使われなくなったムルデカ競技場と言うスタディアムがある。1990年代初めまではこの競技場でムルデカ大会と言うサッカー大会が開催されていた。ムルデカとはマレー語で独立と言う意味らしい。マレーシアはA代表とB代表が参加し、タイやインドネシア、シンガポールと言った東南アジア諸国のみならず時には中東諸国そして韓国も参加をした大会だ。70年代から80年代にはもちろん日本もよく参加していた。当時、代表Aマッチを組む機会が乏しい中この大会はアジア諸国にとっては貴重な大会であった。マレーシアが早くからアジアの中で国際大会を開催するなどリーダーシップ的な存在であったその背景には1954年、AFC アジアサッカー 連盟が設立された際、当時マレーシア首相であったサッカー好きのラーマン氏の尽力があった。AFCの本部はマレーシアの クアラルンプール にある。そして今のAFC 事務総長ピーター = ペラパン氏はマレーシア人だ。五輪予選や ワールドカップ予選等の試合をここで集中開催される事もあった。 ムルデカ大会での日本のハイライトは1976年、マレーシア代表に次いで2位に輝いた事だ。その後1979年大会は韓国、マレーシアに次いで3位になったことがあった。90年の大会にはエントリーをしたが当時はイラク軍がクウェートに侵攻し湾岸戦争が勃発。安全の為海外渡航が自粛される中で、同大会の選手団の派遣も見送られてしまった。それ以降、この大会にはエントリーもせず、そして大会自身とうとう霧散してしまった。ムルデカ大会が盛況な70年代は当に マレーシアサッカーの最盛期であった。その時代、マレーシアの最高傑作と言われたソー・チン・アンは今でもASEAN 諸国史上最高の選手と言う人も。残念ながら2年ほど前に食道癌でこの世を去ってしまった。他にも後にオーストラリアに渡った ジェームス=ウォン 、アブドーラ=アリ と言った名前を聞くだけで頭を抱える韓国人サッカーファンは少なくないはずだ。日本がメキシコ五輪で銅メダルの金字塔を打立てた次のミュンヘン五輪予選は韓国での集中開催であった。誰もが日韓対決で雌雄を決するものと思われていたのに、マレーシアが日本を 3-0 そして韓国を アウドーラ=アリ の一発で沈め五輪出場権を勝ち取ってしまった。これには韓国関係者も言葉が出なかったらしい。そしてその8年後1980年3月にクアラルンプールで集中開催されたモスクワ五輪予選。下馬評では圧倒的に韓国優位であった。1977年ワールドカップ予選ではイランに次いで2位。1978年のアジア大会で優勝(北朝鮮と引分で共に優勝)1979年のムルデカ大会はBチームを派遣しながら優勝。その他アジア諸国との試合では殆ど敗れたことは無かったので(1979年東京での日韓定期戦では日本が 2-1 で勝利。これ以来東京国立競技場では日本は韓国に勝っていない)選手も車範根がブンデスリーガに去ったが、李栄武、趙広来、許丁茂、朴成華、朴商寅らタレントが揃い、誰もが韓国の東京五輪以来の五輪出場を予想した。日本の専門雑誌でも韓国にどれだけ食い下がれるか?と予想されていた。この大会には他にもフィリピン、インドネシア、ブルネイを加えて6カ国総当りで上位2カ国が決勝戦を行い、勝者がモスクワ五輪への切符を手にすることが出来た。大会プログラムは開催国の有利な様に組まれるものだが日本の初戦は何と韓国戦であった。続く


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