Mr.コンティのRising JAPAN

マスコミの書かない&書きそうもない!スポーツ界の雑学・裏話を、サッカーを中心にコメントを掲載していきます。

Kellerduell HSV vs Takahara

2007-03-02 | EURO Football
Die Bundesliga は先々週末、第22節を終えて大混戦が話題になっている。と言ってもそれは上位争いでは無く下位の方だ。確かに上位陣も、今年は優勝常連のBayern Münchenがいまひとつ。首位 Schalke04 と勝点12あけられ4位。 Champions League 出場資格のある3位Werder Bremen とも勝点差5をつけられるなど例年とは異なる。そしてついにマガト監督が解任。指揮は後任のヒッツフェルト新監督に委ねられることになった。とは、言ってもフェリックス・マガト氏は現役時代、HSVで活躍し1982-83 Europe Champions Cup 優勝当時の中心選手。またヒッツフェルト氏もBayern Münchenを監督として率いて何度もマイスターシャーレを勝ち取り、ついでにメインスポンサーの Deutche Telecom のCFにまで出たことがある。ここは元鞘に戻ったといったところか?
そして下位争いに目を転じると第22節終了時で最下位 Borssia Monchengragladbach の勝点が20であるが、11位 VfL Wolfsburg が勝点25。勝点5差の中に8チームが犇く。Bundesliga は下位3チームが2部に降格するがその降格争いがこれから熾烈を極めていく見込みらしい。 そして第23節では11位以下のチーム同士の直接対決が多く組まれ(もちろん日程はリーグ開始前に決まっている。)地元 Kicer 紙では下記の対決をKeller
( 地下の ) duell ( 直接対決 )と呼んでいる。

Energen Cottbus ( 16位 ) vs Arminia Bielefeld ( 12位 )
HSV Hanburg ( 17位 ) vs Eintracht Frankfurt ( 15位 )
VfL Bochum ( 14位 )   vs Alemania Aachen ( 13位 )

また最下位 Monchengragladbach は3位 Bremen と 11位の 1 FSV Mainz 05 は Nuremberg とそれぞれホームゲームを行った。 ここで目に付くのが昨シーズンまで高原の所属した、と言うよりも3位で Champions League に出場した HSV Hamburg の低迷ぶり。Bundesliga 発足以来まだ2部落ちした事がないが今シーズンは降格も視野に入れねばならない状況。昨年12月初旬に出た Sport Bild 誌にもHSVの低迷に関する特集記事が2週に渡って掲載された。年明け早々に来年度の予算編成案を3月15日まで提出するようにとの書簡がリーグ連盟から送られるのだが、HSVはどうやら2部落ちしたときの編成案も提出する見込みとの事。その際は選手達のサラリーを含めた全体の予算を約5000万ユーロ(約80億円)減らさねばならないらしい。今季は Champions League に向けての強化の為に新戦力の整備に2500万ユーロ( 約40億円)を投じた。例えば Juan Pablo Sorin には370万ユーロ( 約5.92億円 ) Nigel de Jong の獲得には250万ユーロ(約4億)を掛け、他にも8人の新戦力を補強した。だが彼らが充分に機能しているかと言うとそれは疑問符が付く。高原の移籍は戦力に影響を及ぼさなかっただろうが、昨シーズンの守備の中心選手 van Buyten ( Bayern München ) そして攻撃の要 Brbarez ( Leverkusen ) の穴は埋められていない。特に Barbarez は得点も取れてスルーパスも出せそして守備能力も高いことから何故引き止めなかったのかと思う。 HSVの新規加入戦力ら高給取りは降格すれば当然移籍リストに載せられ、エースの van der Vaart でさえ例外では無い。2部落ちした場合は収入も激減するらしい。2000万ユーロ(約32億円)見込めるスポンサー収入は約3割~4割減収を余儀なくされ、VIP ルームの収入1500万ユーロ(約24億円)そしてシーズンチケット1700万ユーロ(約27.2億円)もどれだけ減るか?シーズンチケットはともかくVIPはほぼ零になるのではないか?テレビ放映による2000万ユーロ(約32億円)の分配金も2部のチームは4割の800万ユーロ(約12.8億円)となり、当然 UEFA Champions League 関係の放映料1000万ユーロ(約16億円)の収入は無くなる。こうして数字を見ると残留と降格は金銭面では改めて天と地ということがわかる。Jリーグでこれだけ収入あるのかな?AFC Champions League に出ても16億円も収入は無く、かえって遠征費用等の持ち出しが多いだろう。
今シーズンの戦いを分析すると試合終盤での“スタミナ切れ”が顕著らしい。それでなくてもHSVは毎年何試合か終了直前の失点で勝点を失っている。Champions League の アウェーでのアウェーArsenal 戦は前半に先制しながら後半に3失点を喫し敗れている。DFのJoris Mathijsen は “我々は試合が45分で無く、90分の勝負だと再点検せねばならない。” Bayern München戦で1-2 と敗れた後のコメントだ。昨シーズンはバイエルン相手にホーム&アウェーで連勝し好成績に繋げたのだが、今年は土をつけられ、この試合では終了6分前にエースの van der Vaart がベンチに下がった。1点差でリードされているのにエースが下がるなんて??Kicker 紙はこう語る。それは van der Vaart のコンディションに問題があるのか?または Doll 監督の采配が悪いのか?それら両方が当たっていると考えられている。 Van der Vaart のみならず、故障者が続出しておりDF のAtoube等殆どのレギュラー選手が怪我を押して出場しているのが現状。大枚を投じて選手を補強したのに満足に動けない。それはどうもAOLのピッチに問題があるとか?それは天候の影響か?ワールドカップの為に“再整備”をした影響か?そして Doll 監督の采配。 Berund Hoffmann 会長は“間違いを冒さない人間はいない”と言いながらも“これ以上は待てない状況”と結局 1月いっぱいで Doll 監督の更迭を決めた。2004-05 シーズン、18位に低迷するチームを(高原を活用して)建て直し、翌シーズンは(高原に替えて van der Vaart を起用する事により)チームを3位に引き上げ UEFA Champions League の出場権を得たが、今シーズンはその Champions League と Bundesliga との日程に悩み選手起用にちぐはぐが目立った。11月4日の Wolfsburg 戦では6人の選手が今シーズン初登場。そして試合は0-1 で破れ、続く VfB Stuttgard 戦でも4人の選手をデビューさせ 0-2 で完敗。続く Minz 戦に向けては練習時間を長く取るという準備を施したおかげで? 0-0 と勝点を挙げた。また エースの van der Vaart を特に強豪相手( Arsenal, Bayern München ) で守備的MFに置くと言う采配。Van der Vaart 自身はそれでも守備的によく機能していたらしいが、彼がゴールを狙わない事ほど相手DFに安心感を与える事はないであろう。今季昇格してきたチームとの対戦ではAachen ( アウェー 3-3 ) Bochum ( アウェー 1-2 ) Cottbus ( ホーム 1-1 ) と勝ち星をあげられない。これも低迷に大きく拍車をかけている。 それらを見れば更迭は当然の結果だろう。
しかし、その結果が現れたか?21節では上位を行く Bremen をアウェーながら van der Vaart の2ゴールで 2-0 と勝利を収めている。一方の Eintracht Frankfurt 、日本では高原のゴール数ばかりが報道されるが前節 VfB Stuttgard 戦ではホームながら 0-4 の完敗。降格ゾーンが徐々に近づいて来ている。高原はこのチームで居場所を見つけてこれまで7ゴールを上げているが、チームとしては大量失点が目立つ。 Bremen 戦の6失点に始まり、4失点が2回( Vfb Stuttgard 0-4, VfL Bochum 3-4 ) 3失点が2回( Bielefeld 0-3, FC Shalke 04 0-3 ) 第22節終了時点の42失点はリーグワーストだ。前日の地元紙、及び Kicker 紙ではこの試合の鍵を握る選手として HSV は Huub Stevens 新監督そして Frankfurt は高原の名前が挙がっていた。
しかし、どちらとも喉から手が出るほど欲しいのは勝ち星。特にHSVはEintracht 戦に勝てば降格ゾーンから脱出でき、Frankfurt は反対に降格圏内に落ちる。(また10試合以上残っているけど。) そして高原にとっては心中期する試合であったに違いない..... 続く..

イスラエルにて その3 もう泳げるの?

2007-03-02 | EURO Football
UEFAに組み入れられたイスラエル、30年近くに渡り欧州列強の草刈場であったが、EURO2000 では予選ではスペインに次いで2位に入りプレーオフに進んだ。そしてデンマークに敗れた(ホーム 0-5 アウェー 0-3 ) 欧州カップ戦での戦績はUEFA Cup 2001-02 で Hapoel がベスト8( AC Milan に敗れる) Champions League 2002-03 のグループリーグ戦での Manchester United 戦の勝利 ( ホームで 3-0 ) が目立つくらい。プラティニ新会長の打ち出した“発展途上国へのチャンス拡大策”にあやかれるだろうか? 国内リーグでは Maccabi Haifa, Maccabi Telaviv, Hapoel Tel Aviv raが力があり,Tel Aviv の2チームのダービーはものすごいらしい。そして現在Beitar Jerusalem が国内リーグトップだがそれはロシア人オーナーのArkady Gaydamak 氏の影響が大きいらしい。彼は“イスラエルの Abramovich “ とさえ呼ばれており、 Gaydamak がいれば Liverpool からジェラードでさえ引き抜けると思うサポーターも?しかし、チーム予算がこれまでUS$700万だったのが Gaydamake が来てから6倍以上のUS$4,250 に引き上げられ、Jerome Leroy をフランスの Lens から年棒US$200万で引き抜いた。それまでのイスラエルリーグでの最高給取りは Avi Nimni のUS$28.3 万であったから約10倍近く引き上げられたことになる。その Avi Nimni はイスラエル代表の主将で 2003年かつては上層部と衝突し Beiter Jersalem に移籍させられたがそこでの多くの試合のプレーを拒否し、その後Atletico Madorid , Derby County でのプレー経験を経て再びMaccabi Telaviv に戻った英雄だ。 Nimni がチームを出た時にエチオピア系ユダヤ人選手の Baruch Dego が Maccabi に入団したが、 Nimni を懐かしむ熱狂的な Maccabi サポーターから非難の的となり心無い民族的な野次や怪我に悩まされた。そして今や Maccabi のライバルチーム Hapoel の中心選手だ。テルアビブの街を歩くとアフリカ系移民が目に付くが、彼らはエチオピア系ユダヤ人で移民政策の一環のエチオピアから多く受け入れられた移民達だ。ユダヤ系で繋がっているところは先のアジア大会でカタール、バーレーンがケニヤ、ブルンジから移民選手を受け入れ陸上の長距離で好成績を挙げさせたのとは少し赴きが異なる様だ。

エルサレムと異なりテルアビブは海にも面している投宿したホテルの前には砂浜が広がっていた。早速朝のジョギングに。すると午前7時と言うのに既に泳いでいる人が。確かに寒くはないのだが。後で聞いたらこの地区はロシア系ユダヤ人が多く、彼らは皮下脂肪が豊富で体感温度も日本人と違いこの程度の気温なら泳いでしまうらしい。それにロシア人の海に対する愛着は前から知っていた。テルアビブでアラブ人バスは見かけなかった。ここではそういうバスは無いのかな?エルサレムだからこそアラブ系パレスティナ人が多いのか? でもここの運転はエルサレム以上に更に乱暴だ。車線変更も左折もまずハンドルを切ってからウィンカーが出てくる。N子さんが教えてくれた、“今はテロよりも交通事故の方が死亡率が高いと地元の人は言っています。” 何となくうなづける。しかし、ここでは子供たちもそんな“交通戦争”を行きぬく術を知っているだろう。ここでは自己防衛能力を高めねばならない。日本の(うちの子供もそうだけど)ゲームですら攻略本に頼っている子供たちとは違うのだ。 だがそれが平和な国との違いだ。どちらが良いのかは判らない。そして私達は飛行場に向かった。

イスラエルにて その2 対イスラエル戦7連敗中...

2007-03-02 | EURO Football
テルアビブに向かう日、もう春の到来とばかりに抜けるような青空そしてぽかぽか陽気。高速道路を飛ばしてエルサレムを離れる。途中で何度かイスラエル軍兵士の検問があるが運転するのはイスラエル人のお客さん。顔をみせるだけの文字通り顔パス。しかしここでも車を止められてトランクを調べられたり鏡で車の下を覗かれたりする人達も。こういう光景を見ると国情がわかる。 テルアビブの市街に着いての第一印象は“何だかアテネみたいだな。”8年前に一度アテネにいた事がある。アテネ五輪開催は決まっていたが本当に五輪をする街かいな?と言うのが第一印象。そこをもう少し開発途上にしたらルーマニアの首都ブカレストになるなぁと思った。イスラエルと言えば私は先進国の一つと思っていたが、それは正しくなかったらしい。前日のK子さんが教えてくれたが、イスラエルが本格的に発展したのは1990年代に入ってからで、それまではエルサレムを初め観光業で外貨を獲得していた国で日本では絶対に乗らないようなレベルの古い車が何台も走っていたそうだ。もっと街にも緊張があったらしい。ユダヤ人がイスラエル建国後も世界中に散らばって商売を続けているのもどうやら少し理由がわかってきた。人によれば“イスラエルが建国されてからユダヤ人らしさが薄くなった”と言う人もいるくらいだ。でもエルサレムと比較してテルアビブの方が経済的には発展しているのは直ぐに解った。“しまったなぁ、ここの日程を長く取ればよかったなぁ。”と少し後悔する。テルアビブは坂の多いエルサレムとは異なり街は平坦だ。そして遺跡が少ないせいか開発が早いらしい。“京都がエルサレム、東京がテルアビブと想像していただければ丁度いいです。”と教えてくれたのはテルアビブ在留7年の日本人女性N子さん。ご主人はイスラエル人との事。テルアビブで思い出すのが1977年にここで行われたワールドカップ予選。韓国、イスラエル、北朝鮮(イスラエルが同組だったので棄権した。)とアジア地区1次予選で同組になった日本はホーム&アウェーでありながら日本赤軍のテロ活動対策が保障できないと言う警備上の理由で東京開催を返上し“ホームゲームをテルアビブ”で行った。日本国内の予想でも圧倒的に不利。それでも朝日新聞には当時の二宮代表監督の“20人に聞けば20人、イスラエルに勝てるなんて言わない。でも負けるつもりなら初めからイスラエルに行かなければ良い。”とのコメントが載せられた。2月11日、13日に行われたアルゼンチンの強豪クラブインデペンディエンテとの親善試合では怪我で釜本を欠くも 2-3, 0-0 と善戦。初戦の敗戦も先行されながら奥寺、永井の攻撃陣が早い動きでゴールを上げ終了間際のオマール・ラローサのPKで敗れたもの。ラローサは翌年にワールドカップアルゼンチン大会のメンバーでもう1人ルベン・ガルバンと言う翌年のワールドカップメンバーもこのチームにいた。その後西ドイツに渡り調整合宿を経てのテルアビブ入りであったが3月6日、テルアビブでの第一戦、エース釜本が肉離れでスタメンから急遽外れた日本は永井、奥寺、碓井、西野を前線に置いた。しかし、この10日前に当地で行われた韓国戦でイスラエルは引き分けたのでこの日本戦には並々ならぬ意気で当たってきた。開始から日本は徹頭徹尾攻められ続け、この試合を報道したNHKのニュースセンター9時のスポーツ担当福島アナウンサーは“日本はGK1人でやっているみたいです。”と表現。そのGKが田口光久であった。結局前半終了直前にマヒネスが後半にもバールがFKから得点を挙げ 2-0 でイスラエルが勝利を収めた。4日後の3月10日は後半から釜本が登場したがどうする事も出来ずマヒネス、ペレツにゴールを許し2連敗で帰国する事になった。この2試合のダイジェストは3月26日に東京で行われた韓国戦(0-0 で引分け)のハーフタイムでも放映された。あの時テルアビブで日の丸を打ち振っていた人達は今どうしているのだろう? 1970年代までイスラエルはアジア地区に属しており1970年メキシコワールドカップ、1976年モントリオール五輪にはアジア代表で出場している。日本とはワールドカップ西ドイツ大会、アルゼンチン大会予選、そしてモントリオール五輪予選で同じ組となっており、都合6試合行っており0勝6敗得点2失点15と全く歯が立たなかった。そして1974年のアジア大会でも 0-3 で破れ対イスラエル戦7連敗中だ。後にGKとしてイスラエルと戦った田口光久氏は“イスラエルはアジアと言っても体格は完全な欧州人でそれでいて細かいパスをきちんと繋いでくるチームだった。”と述解する。70年代末になると中東諸国が台頭してきて政治上の理由からイスラエルをアジアから欧州に移さねばならなくなった。
以降五輪を含めた世界の舞台でイスラエルを見る事は無い。
今、日本代表がイスラエル代表と試合をすればどんな勝負をするのだろう?それが実現するのはワールドカップか五輪といった公式大会でしか不可能だろう。イスラエルに入国をすれば中東諸国には入れない。あとはオーストラリアや韓国の様にイギリスで“ホームゲーム”を行うか??

イスラエルにて その1 俺は勉強が足らない...

2007-03-02 | EURO Football
今週初めにドイツからイスラエルに移動。
テルアビブ空港にルフトハンザ機が到着したのは午前3時50分であった。当然日の出はまだで当たりは暗い。パスポートコントロールではセミロングヘァーのおめめパッチリ子の女性係官(俺の好みだ)が“パスポートにスタンプを捺していいか?”と尋ねるではないか?イスラエル入国の履歴が残っていると中東諸国を初め入国拒否する国があるとは知っていた。それに配慮をしているのか?いつも係官(男女を問わず: 当たり前か?)はこう尋ねるらしい。 パスポートももうすぐ申請しなおす必要があるのでここは捺して貰うことにした。そして荷物をピックアップして税関に向かう。1972年5月、テルアビブ空港(今の旧ターミナルだった。)で3人の日本人が銃を乱射し民間人を始め100人以上の死傷者を出した。奥平剛士と安田安之の2名はそのまま自決(1人は手榴弾を持ったまま荷物搬送用ベルトの上に駆け上がり足を滑らせて転送した弾みで手榴弾が暴発し死亡、もう一人はイスラエル軍兵士に撃たれたと私は学生時代に習ったが。)これは日本赤軍のテロ活動と報じられることもあるが、日本赤軍が公式に結成される前だったので、“テルアビブ空港銃乱射事件”との表現が正しいらしい。
そして唯一生き残った岡本公三が逮捕された。その13年後岡本公三は捕虜交換で釈放され今はレバノンに潜伏しているらしい。 ここで話をしたイスラエル人(といっても年齢的に私より上の人ばかりだが。)は全て岡本公三を知っていた。 だから鞄の全てを開けられて、荷物検査をされるのではと覚悟をしていたが、全くのフリーパスで税関を抜けられた。 外では早朝にもかかわらず現地のお客さんが迎えに来てくれていた。少し緊張が解ける….  お客の運転する車でエルサレムに向かうが外はまだ暗いので景色は解らない。エルサレムはテルアビブと異なり標高約800m に位置しているとの事、したがって前日雨が降っていたせいか、標高があがるに従って霧が出てくる。小一時間ほど車を走らせるとエルサレムに入りホテルにチェックイン。最近出来たホテルらしく大きな綺麗なそして現代的なホテル….しかしそれをまかなうソフト(特にサービスそれと朝飯のメニュー)が付いていっていない印象が消えなかった…..
当日は午後から色々と仕事関係先をまわる。この日は天気がわるく時折小雨が。街が見えてくるとまず目に付くのは石の多さ。それと小道の多さに坂の多さと車の多さ。そしてスカーフをするイスラム教徒女性も少なくなかった。ここのイスラム教徒はスンニ派とのこと。そういえばレバノンのイスラム教過激派組織ヒズボラはシーア派、レバノンを支配するシリアもシーア派だ。ここにはパレスティナ系アラブ人も多く住んでおりその居住地区はすぐにわかると教えてもらった。屋根がフラットなのがアラブ系の家でその理由は世代ごとに屋根の上に住居を重ねられるようにとのこと。ユダヤ人の屋根は三角だ。エルサレムは雪が結構降るらしく屋根が三角の方がずっといい、のだが、今年はここも暖冬で雪の日が少なかったそうだ。でも私の第一印象は“思ったほど共存度が高いなぁ”と言うこと。それは当たり前で、日本で報道される様に毎日ドカンドカンと銃撃や自爆テロがあちこちで起こっているわけではなく、そう言う事が起こるのもごく僅かの地域らしい。日本のマスコミはそういう事件が起こってくれない平和な間は報道や記事ネタに不自由するのだろう。でもスーパーやレストランに入るときは必ず持ち物等を金属探知機で調べられる。これは法律らしい。しかし、最近彼らより疎まれているのが移民警察。ここでも和食レストランではタイからの移民が厨房に入っている。特にレストラン業界では人手が足りずに移民に人材などを頼っているが、不法滞在を取締る移民警察は時にはアジア系の移民の後をつけて彼らのアパートに踏み込み、不法滞在者を一網打尽にする事が多々あるらしい。まぁ、テロリスト達から市民を守ると言う大義名分もあるのだろうが。
翌朝は深夜に雨が降ったせいで道が濡れている中を走った。丁度登校時間らしく、すれ違う子供たちが何かしら声を掛けてくるので、こちらも手を振ったりして愛想を振りまく。(なんて言われてるんやろ?)何度か白色にグリーンのストライプの入った小型バスがスカーフをした子供達が数人集まっている所に止まり、そのバスに子供たちが乗り込む。スクールバスか?と思うと社内にはおばぁさんやおじさんが。後で聞いて解ったのだがそれはアラブ人専用バスでたまに無免許のアラブ人が運転しているときもあり、事故の原因となっているらしい。そうかと思えば数メートル前に他のバスが止まり、突然マシンガンを抱えたイスラエル兵、女性兵士もいる、が4~5人降りてくる。ここでは20歳になると男子は3年間、女子は2年間の兵役の義務があるが、70年代と異なり最近では兵士としても規律や誇りに問題があるとか。この辺の感覚は平和な(今のところ)日本では解らないところか?
この日はお客さんが気を利かせてくれて旧市街地を案内してくれた。案内してくれたのはあるお客さんの奥さんで日本人のK子さん。イスラエル在住はもう18年らしく、当然現地語もぺらぺらでガイドの資格も持っておられる。有名な建造物など歴史事象を交えて実に細かく説明してくれて大変ありがたかった。こちらも岡本公三の事や“日本のシンドラー”と言われた杉原千畝氏の話を切り出したりする。2人ともイスラエルでは両極端な理由で名が知れているらしい。またナチのホロコースト博物館もあり、そこでは強制収容されたユダヤ人の一人一人の顔写真がマイクロフィルムで保存されるなど膨大な資料が揃えられており今でも戦争当時から肉親の行方が解らない人がここの資料を頼って訪れるらしい。かつて“ Eichman in my hand “ と言うナチスの将校を逮捕すべく南米まで渡ったイスラエル秘密警察の行動を読んだ事がある。アイヒマンは戦後15年経ってイスラエル秘密警察に逮捕され、絞首刑になり遺体を焼かれて海に捨てられたがこれはユダヤ式では最悪の”屈辱“を与えた事になるらしい。まず、イスラエル建国史上死刑に処されたのはアイヒマンだけであの岡本公三でさえ死刑にはならなかった。そしてユダヤ式では死体は魂が戻って来るところを残しておく為に絶対に焼かずに土葬にする。それを焼くということはこの世から完全に抹殺すると言ういみらしい。
前バチカン司祭のヨハネパウロ2世(ポーランド人)がここにこられた時の事や“嘆きの壁”も案内して貰った。こうやって考えるといかに高校時代の世界史の授業が受験の為でしかなかったかという事が再認識させられる。ローマ人の侵攻やキリストの復活やらこの映像の発達した時代、実際の建築物などの写真を見せながら歴史の授業をすればもっともっと頭に入ったことだろう。この旧市街地の中にもアラブ系、ユダヤ系の人々が居住地区は分かれているが共存するらしい。ホテルからここまで通った道はかつてイスラエル領とヨルダン領の国境だったとか。
ユダヤ人独特の黒いつば広帽子をかぶる人やスカーフをするイスラム教徒女性達がすれ違う様子を見て帰国したら絶対に歴史書を買って勉強しなおそうと誓い、K子さんには何度も御礼を言い、次の訪問地テルアビブに向かった…. 続く