Mr.コンティのRising JAPAN

マスコミの書かない&書きそうもない!スポーツ界の雑学・裏話を、サッカーを中心にコメントを掲載していきます。

イスラエルにて その1 俺は勉強が足らない...

2007-03-02 | EURO Football
今週初めにドイツからイスラエルに移動。
テルアビブ空港にルフトハンザ機が到着したのは午前3時50分であった。当然日の出はまだで当たりは暗い。パスポートコントロールではセミロングヘァーのおめめパッチリ子の女性係官(俺の好みだ)が“パスポートにスタンプを捺していいか?”と尋ねるではないか?イスラエル入国の履歴が残っていると中東諸国を初め入国拒否する国があるとは知っていた。それに配慮をしているのか?いつも係官(男女を問わず: 当たり前か?)はこう尋ねるらしい。 パスポートももうすぐ申請しなおす必要があるのでここは捺して貰うことにした。そして荷物をピックアップして税関に向かう。1972年5月、テルアビブ空港(今の旧ターミナルだった。)で3人の日本人が銃を乱射し民間人を始め100人以上の死傷者を出した。奥平剛士と安田安之の2名はそのまま自決(1人は手榴弾を持ったまま荷物搬送用ベルトの上に駆け上がり足を滑らせて転送した弾みで手榴弾が暴発し死亡、もう一人はイスラエル軍兵士に撃たれたと私は学生時代に習ったが。)これは日本赤軍のテロ活動と報じられることもあるが、日本赤軍が公式に結成される前だったので、“テルアビブ空港銃乱射事件”との表現が正しいらしい。
そして唯一生き残った岡本公三が逮捕された。その13年後岡本公三は捕虜交換で釈放され今はレバノンに潜伏しているらしい。 ここで話をしたイスラエル人(といっても年齢的に私より上の人ばかりだが。)は全て岡本公三を知っていた。 だから鞄の全てを開けられて、荷物検査をされるのではと覚悟をしていたが、全くのフリーパスで税関を抜けられた。 外では早朝にもかかわらず現地のお客さんが迎えに来てくれていた。少し緊張が解ける….  お客の運転する車でエルサレムに向かうが外はまだ暗いので景色は解らない。エルサレムはテルアビブと異なり標高約800m に位置しているとの事、したがって前日雨が降っていたせいか、標高があがるに従って霧が出てくる。小一時間ほど車を走らせるとエルサレムに入りホテルにチェックイン。最近出来たホテルらしく大きな綺麗なそして現代的なホテル….しかしそれをまかなうソフト(特にサービスそれと朝飯のメニュー)が付いていっていない印象が消えなかった…..
当日は午後から色々と仕事関係先をまわる。この日は天気がわるく時折小雨が。街が見えてくるとまず目に付くのは石の多さ。それと小道の多さに坂の多さと車の多さ。そしてスカーフをするイスラム教徒女性も少なくなかった。ここのイスラム教徒はスンニ派とのこと。そういえばレバノンのイスラム教過激派組織ヒズボラはシーア派、レバノンを支配するシリアもシーア派だ。ここにはパレスティナ系アラブ人も多く住んでおりその居住地区はすぐにわかると教えてもらった。屋根がフラットなのがアラブ系の家でその理由は世代ごとに屋根の上に住居を重ねられるようにとのこと。ユダヤ人の屋根は三角だ。エルサレムは雪が結構降るらしく屋根が三角の方がずっといい、のだが、今年はここも暖冬で雪の日が少なかったそうだ。でも私の第一印象は“思ったほど共存度が高いなぁ”と言うこと。それは当たり前で、日本で報道される様に毎日ドカンドカンと銃撃や自爆テロがあちこちで起こっているわけではなく、そう言う事が起こるのもごく僅かの地域らしい。日本のマスコミはそういう事件が起こってくれない平和な間は報道や記事ネタに不自由するのだろう。でもスーパーやレストランに入るときは必ず持ち物等を金属探知機で調べられる。これは法律らしい。しかし、最近彼らより疎まれているのが移民警察。ここでも和食レストランではタイからの移民が厨房に入っている。特にレストラン業界では人手が足りずに移民に人材などを頼っているが、不法滞在を取締る移民警察は時にはアジア系の移民の後をつけて彼らのアパートに踏み込み、不法滞在者を一網打尽にする事が多々あるらしい。まぁ、テロリスト達から市民を守ると言う大義名分もあるのだろうが。
翌朝は深夜に雨が降ったせいで道が濡れている中を走った。丁度登校時間らしく、すれ違う子供たちが何かしら声を掛けてくるので、こちらも手を振ったりして愛想を振りまく。(なんて言われてるんやろ?)何度か白色にグリーンのストライプの入った小型バスがスカーフをした子供達が数人集まっている所に止まり、そのバスに子供たちが乗り込む。スクールバスか?と思うと社内にはおばぁさんやおじさんが。後で聞いて解ったのだがそれはアラブ人専用バスでたまに無免許のアラブ人が運転しているときもあり、事故の原因となっているらしい。そうかと思えば数メートル前に他のバスが止まり、突然マシンガンを抱えたイスラエル兵、女性兵士もいる、が4~5人降りてくる。ここでは20歳になると男子は3年間、女子は2年間の兵役の義務があるが、70年代と異なり最近では兵士としても規律や誇りに問題があるとか。この辺の感覚は平和な(今のところ)日本では解らないところか?
この日はお客さんが気を利かせてくれて旧市街地を案内してくれた。案内してくれたのはあるお客さんの奥さんで日本人のK子さん。イスラエル在住はもう18年らしく、当然現地語もぺらぺらでガイドの資格も持っておられる。有名な建造物など歴史事象を交えて実に細かく説明してくれて大変ありがたかった。こちらも岡本公三の事や“日本のシンドラー”と言われた杉原千畝氏の話を切り出したりする。2人ともイスラエルでは両極端な理由で名が知れているらしい。またナチのホロコースト博物館もあり、そこでは強制収容されたユダヤ人の一人一人の顔写真がマイクロフィルムで保存されるなど膨大な資料が揃えられており今でも戦争当時から肉親の行方が解らない人がここの資料を頼って訪れるらしい。かつて“ Eichman in my hand “ と言うナチスの将校を逮捕すべく南米まで渡ったイスラエル秘密警察の行動を読んだ事がある。アイヒマンは戦後15年経ってイスラエル秘密警察に逮捕され、絞首刑になり遺体を焼かれて海に捨てられたがこれはユダヤ式では最悪の”屈辱“を与えた事になるらしい。まず、イスラエル建国史上死刑に処されたのはアイヒマンだけであの岡本公三でさえ死刑にはならなかった。そしてユダヤ式では死体は魂が戻って来るところを残しておく為に絶対に焼かずに土葬にする。それを焼くということはこの世から完全に抹殺すると言ういみらしい。
前バチカン司祭のヨハネパウロ2世(ポーランド人)がここにこられた時の事や“嘆きの壁”も案内して貰った。こうやって考えるといかに高校時代の世界史の授業が受験の為でしかなかったかという事が再認識させられる。ローマ人の侵攻やキリストの復活やらこの映像の発達した時代、実際の建築物などの写真を見せながら歴史の授業をすればもっともっと頭に入ったことだろう。この旧市街地の中にもアラブ系、ユダヤ系の人々が居住地区は分かれているが共存するらしい。ホテルからここまで通った道はかつてイスラエル領とヨルダン領の国境だったとか。
ユダヤ人独特の黒いつば広帽子をかぶる人やスカーフをするイスラム教徒女性達がすれ違う様子を見て帰国したら絶対に歴史書を買って勉強しなおそうと誓い、K子さんには何度も御礼を言い、次の訪問地テルアビブに向かった…. 続く 


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