歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

④ 東漸寺 視界を遮る大銀杏は落馬防止ですか?

2010年10月21日 | お寺・神社
昨日の続きです。

お堂の前に、何やら“案内板”らしきものを見つけました。中心線のズレに対する回答が書かれているかもしれません。


この“堂宇”ですか?ムズカシイ表現を使います。単に、お堂とか、観音堂でイイと思います。寛文7年、1667年の創建と云う事は、いまから343年前で、4代将軍家綱の頃ですね。


それで、山門は「仁王門」で、お堂は「観音堂」で、どちらも“市指定文化財”で、観音堂の“向拝の木鼻”は室町末期から、江戸初期の“形式”の“雰囲気”を止めているのですか、「雰囲気」とは、かなり控えめで微妙な表現です。

仁王門は元禄3年、1690年に“吉田村の清左衛門さん”の寄進ですか、吉田村と云うのは、この近所なのでしょうか? 現在の地図では、近くにその地名は見つかりません。

観音堂に安置されている観音様は、行基の作と伝えられているのですか、行基は奈良時代の人ですし、仏像を彫ったなんてことは・・・、もし、そうだとしたら、これは、もう、大変、間違いなく、国宝の中の国宝です。まあ、そうでは無いので、市指定の文化財なのでしょう。

それで、観音様の御利益は、家運隆盛、除災招福で、特に馬の息災には霊験が著しいのですか・・・・・・。

それで・・・・・・、ありました! “中心線ズレ問題”の答えが! たぶん、コレです!

『・・・昔乗馬のままお堂の前を通ると、落馬すると言われた為お堂と道路の中間に銀杏を植樹して見えないようにしたという。今に残る「めかくし銀杏」がそれである』

たぶん、この関連で間違いないと思うのですが、厳密に言えば、すべての中心線が少しずつズレている為、大銀杏は道路から視界を遮っているとは言えないのですが・・・、まぁ、多少のズレは。


道路からは、仁王門、大銀杏を通して観音堂は見えるのです。


こんな配置になっています。


ここで、暫く、じっくり配置図を見つめて、熟考に、熟考を重ね、あれや、これやと、いろいろ考え、迷った末に、それなりの答えを見つけました。

先ず、観音堂の創建が1667年であり、今から343年前であること、それに対して、銀杏の大木の樹齢は「幹周・樹高」から、少なく見積もっても、500年は経っています。と云うことは、観音堂が創建される前から銀杏はあったのです。

「観音像行基説・落馬伝説・めかくし銀杏伝説」は、頭の働く関係者の宣伝戦略と思われます。当時、馬は農業にとって大変大事なものでしたから、馬の無病息災を願う需要は大きかったのです。

その宣伝戦略の結果、「陰暦7月10日の縁日は・・・近郷近在の信者が境内をうずめ稀にみる賑わいを呈した・・・」のでしょう。

銀杏と観音堂のズレは、銀杏を意図的に植えたのではなかった事でほぼ説明できます。これで、何故の一つが解決しました。

残りの何故?は、意図的に造られた、仁王門と、観音堂と、参道のズレ問題です。しかし、ここまで辿り着くのにかなりの時間を要しました。

残りの何故?は次回とします。


それでは、また明日。




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