昨日の続きです。
昨日のタイトルが「若柴宿から牛久宿へ」となっていたのですが、牛久宿へは辿り着けませんでした。
本日も、牛久宿を目指して出発します。
後ろから、私を抜き去って行った高校生の一団。男の子と、女の子が、自転車で通学しているのです。
う~ん! 青春の1ページです! “青い山脈”です!←知らないか? 彼らは、この道が、昔の水戸街道だと知っているのでしょうか?
そんなことは、関係ないか、兎に角、“青春時代の真ん中”です。いろいろあるから、いろいろ経験して下さい。
こんな感じの田舎道です。この道は何度も通っています。初めてではありません。
そろそろ、アレが見えてきます。
アレは、コレではありません。水戸道の面影はココいらには無いのです。
この先です。前を走る赤い車の右手辺りです。
右手、一段高くなった処がそうです。
コレ何です。説明板がせ無ければ、建設残土の上に雑草が生えているだけ、そんな風景にしか見えません。
“一里塚です!” “何処がァ?”
と、思われることを察して、敢えて写真を載せ、そして、それでも疑問を生じると思い、わざわざ丸く円を描き “ここがァ!”と、示しているのです。
それで、この説明板の内容なのですが、疑問を抱いてしまいました。
「女化の道標」もそうなのですが、またしても、“牛久市教育委員会”そして“牛久市文化財保護審議会”です。今度お会いしたら、この件も聞いてみようと思います。※残念ながらあれからまだ連絡はありません。
それで、疑問なのですが、文面の最初の二行で、一里塚とは?の説明があり、次の二行で、設置された年代の説明があるのです。
そして、またしても、次の二行で、水戸街道の整備と合わせて、設置年代に触れているのです。
先の二行では、永禄4年(1561年)には、既に存在していたと云い、次の二行では、水戸街道が整備された慶長末(1614年)から寛永初年(1624年)の頃に“築造”されたと云い、いったい!どう考えたらよいのでしょうか?
水戸街道と、云われる、呼ばれる、ずっと以前から、ここを通る街道があり、一里塚は存在していた。そのときは、木が植えられているだけで、土台が無かった?
その後、1603年に江戸に幕府が開かれ以降に、街道の整備がなされ、水戸街道の一里塚として、“土台”が築かれた。
依って、存在していた時代と、築造された時代との二つがある? それでは、とても変です。
それと、またしても、説明板をじっと見つめると、またしても、女化道標の説明板と同じく、訂正がされていたのです。
“慶長末年から寛永初年”の後にテープ?貼られ、一部文面が消されているのです。たぶんここには“西暦”が記されていたと推測します。
普通、元号の後には西暦が付きます。前文の永禄には西暦表記があり、慶長と寛永に西暦表記が無いのは不自然です。
たぶん、両方に西暦表記を着けてあった頃に、「存在と築造」の二重表記に疑問がだされ、取り敢えず、片方の西暦表記を消してしまった?
片方の西暦表記を消す事により、ボンヤリ眺めている人々には、「存在と築造の謎」が生じる確率を、かなり低下させる考えた?
たぶん、最初の表記での「存在と築造」の年代二重表記には、いろいろと複雑な理由があったと思います。そして、テープ貼りにいたる経緯についても、それなりの複雑な理由があったと思います。
もしかして、水戸街道が、我孫子から取手→藤代→若柴→牛久を通るコースと、我孫子から取手を通らず、布佐→?→?→荒川沖コースとか、この辺りは、複数の水戸街道が存在していたらしいので、そのあたりが一因なのかも?
兎に角、牛久市の説明板は、女化道標と云い、成井一里塚と云い、いろいろな推理を楽しませてくれる説明板です。
本日も、牛久宿には辿り着けませんでした。
それでは、また明日。
昨日のタイトルが「若柴宿から牛久宿へ」となっていたのですが、牛久宿へは辿り着けませんでした。
本日も、牛久宿を目指して出発します。
後ろから、私を抜き去って行った高校生の一団。男の子と、女の子が、自転車で通学しているのです。
う~ん! 青春の1ページです! “青い山脈”です!←知らないか? 彼らは、この道が、昔の水戸街道だと知っているのでしょうか?
そんなことは、関係ないか、兎に角、“青春時代の真ん中”です。いろいろあるから、いろいろ経験して下さい。
こんな感じの田舎道です。この道は何度も通っています。初めてではありません。
そろそろ、アレが見えてきます。
アレは、コレではありません。水戸道の面影はココいらには無いのです。
この先です。前を走る赤い車の右手辺りです。
右手、一段高くなった処がそうです。
コレ何です。説明板がせ無ければ、建設残土の上に雑草が生えているだけ、そんな風景にしか見えません。
“一里塚です!” “何処がァ?”
と、思われることを察して、敢えて写真を載せ、そして、それでも疑問を生じると思い、わざわざ丸く円を描き “ここがァ!”と、示しているのです。
それで、この説明板の内容なのですが、疑問を抱いてしまいました。
「女化の道標」もそうなのですが、またしても、“牛久市教育委員会”そして“牛久市文化財保護審議会”です。今度お会いしたら、この件も聞いてみようと思います。※残念ながらあれからまだ連絡はありません。
それで、疑問なのですが、文面の最初の二行で、一里塚とは?の説明があり、次の二行で、設置された年代の説明があるのです。
そして、またしても、次の二行で、水戸街道の整備と合わせて、設置年代に触れているのです。
先の二行では、永禄4年(1561年)には、既に存在していたと云い、次の二行では、水戸街道が整備された慶長末(1614年)から寛永初年(1624年)の頃に“築造”されたと云い、いったい!どう考えたらよいのでしょうか?
水戸街道と、云われる、呼ばれる、ずっと以前から、ここを通る街道があり、一里塚は存在していた。そのときは、木が植えられているだけで、土台が無かった?
その後、1603年に江戸に幕府が開かれ以降に、街道の整備がなされ、水戸街道の一里塚として、“土台”が築かれた。
依って、存在していた時代と、築造された時代との二つがある? それでは、とても変です。
それと、またしても、説明板をじっと見つめると、またしても、女化道標の説明板と同じく、訂正がされていたのです。
“慶長末年から寛永初年”の後にテープ?貼られ、一部文面が消されているのです。たぶんここには“西暦”が記されていたと推測します。
普通、元号の後には西暦が付きます。前文の永禄には西暦表記があり、慶長と寛永に西暦表記が無いのは不自然です。
たぶん、両方に西暦表記を着けてあった頃に、「存在と築造」の二重表記に疑問がだされ、取り敢えず、片方の西暦表記を消してしまった?
片方の西暦表記を消す事により、ボンヤリ眺めている人々には、「存在と築造の謎」が生じる確率を、かなり低下させる考えた?
たぶん、最初の表記での「存在と築造」の年代二重表記には、いろいろと複雑な理由があったと思います。そして、テープ貼りにいたる経緯についても、それなりの複雑な理由があったと思います。
もしかして、水戸街道が、我孫子から取手→藤代→若柴→牛久を通るコースと、我孫子から取手を通らず、布佐→?→?→荒川沖コースとか、この辺りは、複数の水戸街道が存在していたらしいので、そのあたりが一因なのかも?
兎に角、牛久市の説明板は、女化道標と云い、成井一里塚と云い、いろいろな推理を楽しませてくれる説明板です。
本日も、牛久宿には辿り着けませんでした。
それでは、また明日。