歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

“だから荒野” ⑮ 終わってみて思うのでした!録画は消さないでいつの日にかまた・・・

2015年03月12日 | テレビの話し
最近は、一応、月水金の週三回のペースで更新してきましたが、昨日の水曜はさぼってしまいました。

早朝と夕方、おふくろの送り迎えをしたので、何となく、やはり慌ただしく、書く気持ちになれなかったのです。

それに、です。昨日は3月11日で東日本大震災の日でした。あれから4年の月日が流れたのです。記憶は薄らいできました。

新聞も、テレビも、震災の特集ばかり、私としては、新聞の特集記事は見だしだけを眼で追い、中味の記事は読みませんでした。テレビの特集も見ませんでした。

見たのは当時録画しておいた、当日のニュース映像です。私は3・11を体験していないのです。私の体験はテレビの中の映像だけです。

当日の午後2時46分、辺りは見渡す限り田圃の風景のなか、畦道を自転車で走っていました。何となく地面が波打った感覚と、風もないのにバタバタと空気の揺れる音を感じたのが、3・11体験でした。

震度6の恐怖体験も無く、ひたすら見続けたテレビの、地震と津波と火災の映像が、そして、原発の爆発シーンの映像が、3・11体験です。

「マッサン」も昨日で終戦、いや、敗戦で、そして70年。阪神大震災から20年、東日本大震災から4年。

忘れなければ、と、思うことは忘れられず、忘れてならないことは、忘れてしまう、そう云うものなのでしょう、フツウの人は・・・・・・。

そして、“これまで”の長さと、これからの長さ、の違いも、いろいろと影響することと思うのです。

それで、だからァ、荒野ですが、優太と章吾の“これからは”長く、山岡先生は“これまで”が圧倒的に長く、これからは残り僅か、そして、朋美は、これまでとこれからが、ほぼ同じ長さです。

優太と章吾はこれまでを清算して、それなりに新しい人生が開かれつつ、山岡先生はこれまでを背負つつの人生で、朋美は意識的に、向かい合って、のり越えて、それなりの人生に踏み出すのでしょう。

朋美、いや、鈴木京香さん、終盤は、とても、とても、46歳として綺麗でした。請求書なんて失礼な表現をお詫びします。

終わってみて、考えて、最後に思うのです。録画は消さないで、もう少し時間をおいて観たいとの気持ちがあるので、まあ、それなりに、ヨカッタ!と、思うのです。

15回も引っぱってしまいました。これで「だから荒野」はお終い。


それでは、また。


コメント (1)
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