歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

“跨る秋津駅”で談志と牧野周一の漫談論争に思いを馳せる

2008年07月16日 | 東京の風景

昨日の続きです。

西武線秋津駅から大泉学園に向かいます。

ところで秋津駅なのですが、地図を見ると、北側が所沢市で、西側が東村山市で、東側が清瀬市で、三つの自治体に跨っているのです。

西武線秋津駅が、武蔵野線側(西側)に100メートル移動すれば、乗り換えは便利になるのですが、そうすると、駅は、清瀬市、所沢市からは外れて、すべて東村山市に入ってしまうのです。

何となく、こんな事情も乗り換えを不便にしている原因のような気もしてきました。

三市に跨る複雑な駅です。


画面左側の下り線ホームの中央部が所沢市になります。上下線ホームの中央部から池袋方向の半分が清瀬市の領土です。

残る半分が東村山市の領土になります。


こちら、東村山側から撮った急行です。急行は秋津を通過して行きました。武蔵野線との「乗り継ぎ駅」なのに、急行停車駅ではないのです。


それで、この「女性専用車」の“ピンク案内看板”ですが、始めて眼にします。やっぱり女性はピンクなのです。

そのうち、女性から“色使い”で抗議されそうな気がします。


「女性専用車」で思い出す事があります。“ウクレレ漫談の牧伸二”の師匠、元活動写真の弁士、漫談の“牧野周一”です。

牧伸二も相当古いですが、その師匠の牧野周一となると、今では、もう、ほとんど、歴史上の人物になりました。

私が20代の頃、テレビで時々見かける事がありました。その当時でも、名前は知られていましたが、ほとんど過去の芸人でした。

それで、その周一師匠の漫談ネタに、国鉄時代の「婦人専用車」の話があるのです。それ以外のネタも、みんな相当古いのです。

漫談から“古典”は生まれてきませんでした。漫談は、常に、すべて、新作なのです。何をやっても、かまわないのです。

当時、“痛々しい”思いを抱きつつ、画面を見つめていた記憶があります。

時代から取り残された芸人の寂しさ、儚さ、空しさ・・・・・・、まったく笑えませんでした。

落語、講談、浪曲、そして漫談、この違いは何でしょうか? 漫談は世相の表面を面白可笑しく語る・・・・・・。

面白いだけ、可笑しいだけ、それだけでは、人は満足しないのかも知れません。

やはり、“喜怒哀楽”のすべてを語らなければ・・・・・・、何か、薄っぺらく思えるのでしょう。

そう云えば、あの頃、立川談志が「漫談は芸では無い」と発言して、“漫談界”に喧嘩を売った事がありました。

何故、芸ではないと云ったのか、騒ぎはどういう形で収拾されたのか、まったく覚えていません。

「女性専用車」の看板から、そんなこんなを思い出しました。

「婦人専用車」は1973年に廃止され、1975年に牧野周一は70歳で亡くなりました。

時代から消えた“婦人専用車”は、“女性専用車”として復活しました。“婦人から女性”へ何が変わったのでしょうか?

そう云えば、駅などで「婦人用」と表記したトイレの看板を、今でも、時々眼にします。駅のトイレで「婦人」は生き残っているようです。


秋津から、清瀬、東久留米、ひばりヶ丘、保谷、そして大泉学園となります。


今日は、ここられで話の切りがイイのでお終いにします。


最後が臭い話になってしまいました。


それでは、また明日。


コメント (3)
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