金沢の街を歩いて

 
 京都に行くとなったとき、相棒が言った。「そのまま、金沢まで行ってみようか」
 わお、マジ?! 金沢には是非一度行ってみたくて、青春切符の季節になると、金沢~、金沢~とねだっては、却下されていた。今回、降って湧いたような、駆け足の金沢旅行!

 学部生のとき、私は院生のチャトラ氏と親しくしていた。軽快でセンシティブな彼を、私は兄のように慕っていた。
 彼に何か尋ねられると、私は決まって同じ問いを彼にも向けた。すると彼はいつも、照れたように笑ってこう言うのだった。
「質問に質問で答えるのはズルいぞ」
 彼はあまり自分のことを話してはくれなかったけれど、ときおり彼が洩らす、犬の可愛がり方や、ドラムの叩き方、天ぷらの揚げ方などを聞いたときには、胸が躍った。開け広げに他人に近づかない彼が、少しずつ私に近づいてくれるのが嬉しかった。
 
 冬、他の学生たちから離れて、二人してストーブを囲み、背を丸めて手をかざしながら笑った彼の顔を、今でもよく憶えている。
「寒がりで猫舌で、チマルってまるでネコだね」

 チャトラ氏はハーゲン氏の同期、そして友人で、ともに某大学教授ピエーロ氏の主催する研究会に所属していた。
 ピエーロ氏の研究会は、ピエーロ氏自身が意図したように、彼を権威と仰ぐ研究者集団という性格を持っていた。なかでもハーゲン氏は、率先した太鼓持ちだった。
 私がチャトラ氏と親しくしていたのは、折しも、その研究会のなかで、ピエーロ氏のファミリーという、そうした性格の否定面を厳しく指摘する声が上がった時期、そして、ピエーロ氏が自分の研究会からそれら批判者を追い出すために、研究会をいったん解散し、再び再結成した時期に符合していた。
 
 私はその研究会に参加したことはなかった。私自身は、研究者が自己の研究とは別の目的を持ってそうした集団に身を置くことを疑問に思っていたが、いろいろな事情で、当時私は、ピエーロ氏が自分の陣営に引き入れるべく対象とされ、彼のさまざまな画策に巻き込まれていたのだった。
 ピエーロ氏一派が私の周囲に、ピエーロ氏を礼讃するブロック、そしてピエーロ氏の批判者を誹謗するブロックを作ったとき、多分、チャトラ氏は悩んだと思う。彼は、自分の属する研究会と、私とのあいだで板挟みになって、私を抑圧する動きに加担せず、その当事者とならないよう努めるのに、精一杯だったのだと思う。
 彼は決して、ピエーロ氏一派のように、私に無理強いする態度も、それが失敗したのちに私を無視する態度も、取らなかった。けれど、もうそれっきり、それ以上私に近づいてはくれなかった。

 チャトラ氏の故郷は金沢だった。
「いいところだよ、寒いけど。ネコにはムリかな」
 それ以来、私は金沢に行ってみたかったのだった。

 To be continued...

 画像は、金沢城内の散歩道、白鳥路。

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