永遠でない女性美

 

 「クールベ美術館展」のあとは、Uターンして京都まで足を伸ばして「ルーブル美術館展」へ。例によって、青春18切符で在来線を乗り継ぐ、チンタラ旅行。
 生まれ故郷、京都に来るとき、私の心は憂鬱になる。観光客にすれば、京都は趣のある古都かも知れないが、私に言わせれば、旧弊と因習だらけの窮屈な街。街が古いということは、住んでいる人間の頭も同じくらいに古いわけ。

 この企画展は、新古典派とロマン派の絵が大半で、しかも、アングル「泉」やダヴィッド「マラーの死」、ドラローシュ「若き殉教者の娘」など、有名どころも数多いから、好きな人にはたまらないだろう。
 が、この時代の絵、私は特に好きなわけではない。歴史画というのは、とにかく堅苦しい。けれども、「泉」はやはり捨てがたい。観に行ってよかった。

 ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル(Jean-Auguste-Dominique Ingres)は、言わずと知れた新古典派の巨匠。父親はマイナーな画家かつ音楽家で、アングル自身もヴァイオリンの名手なのだとか。
 ダヴィッドの弟子で、イタリア絵画を学び、新古典派の頭目としてドラクロワらロマン派の絵画運動に対立し、フランス画壇では希望どおりの成功を博したアングルだけれど、正統派どころかかなり個性的な画家だと私は思う。
 
 絵は線でなく面で描く、というセオリーは、当時のアカデミー教育で始まったと言われる。が、アングルは初期の頃から、かなり露骨に線描に重きを置いた画家として有名。彼の線描は、ドガやピカソに影響を与えたという。
 もちろん彼の絵は、輪郭線に縁取られてなどいない。古典的なルールに則って、流麗なトーンで、エナメルのように滑らかに仕上げられている。が、彼の絵を観て感じる、あの感覚的ななまめかしさは、彼の線、殊に曲線の描写のせいであるような気がする。
 
 また、理想的な美を表現しようとした新古典派にあって、アングルの美はかなり歪んでいる。裸婦は胸がゴム毬のようだったり、背中が長すぎたりする。アングルはデッサンの名手なのだから、女体の歪みはそのまま画家の好みということになる。
 主題も偏執的なほど限定されていて、特に東洋の女奴隷のヌードは何度も繰り返し描いている。
 
 女奴隷が裸でうじゃうじゃとたむろするのを、覗き穴から覗いたような絵、「トルコ風呂」は、アングル晩年の傑作(?)と言われている。う~む。あまりに俗悪すぎて、私には理解不可能。
 考えてみればこの時代、マネが挑発的なヌードを描き、印象派の新しい絵画がどんどん出てきた。老アングルとしては、「んじゃ、ワシも描くとしようかのう」ってな感じで、腕を振るったのかも知れない。
 もともとアングルは、ゴシック的と言われようと、新古典派的とかロマン派的とかと言われようと、本人好みに絵を描いてきたように思う。だからこの絵も、ブルジョア的で卑俗にせよ、とにかくアングルの中身が詰まったものではあるに違いない。

 画像は、アングル「泉」。
  ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル
   (Jean-Auguste-Dominique Ingres, 1780-1867, French)

 他、左から、
  「ラファエロとラ・フォルナリーナ」
  「オシアンの夢」
  「ドーソンヴィル伯爵夫人の肖像」
  「グランド・オダリスク」
  「女奴隷を連れたオダリスク」

     Bear's Paw -絵画うんぬん-
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