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魔法の絨毯 -美術館めぐりとスケッチ旅行-

 世界をスケッチ旅行してまわりたい絵描きの卵の備忘録と雑記

スロバキアの精神

2016-04-10 | 月影と星屑

 
 PCの調子が最悪で、特に最下段のキーが機能せず、ほったらかしのこと数ヶ月。元気でやっていますので、心配無用です。

 さて、数週間旅行しているうちには、雨が降る日もあるわけで、そんな日は、街歩きはとっとと断念して、当てずっぽうにミュージアムなんぞに入る。スロバキアにはタトラ山を目指して訪れるのだから、「ブラチスラバには寄らないよ、美術館にも行かないよ」と釘を刺されていた私は、スロバキア絵画のことはさっさと諦めて、忘れていた。
 が、マルティンにてとうとう雨。マルティンには、マルティン・ベンカ美術館があるというので入ったところ、大当たりだった。すっかりベンカが気に入ってしまった相棒、ベンカの墓参りにまで訪れる始末。

 マルティン・ベンカ(Martin Benka)はスロバキアの国民画家として知られ、スロバキア・モダニズム絵画の創始者として評価されている。
 ベンカのモダニズムは、特にキュビズムからの影響が強いという。文化的によく似た隣国チェコの都プラハで、キュビストたち同士で熱心に集い、やんやと活動すること三十年。
 が、ベンカが熱中したのは、音楽サークルのほうだったらしい。バイオリンを演奏し、カクカクとしたフォルムのキュビックなバイオリンまで自作している。

 ベンカの絵のなかでキュビズムは、セザンヌ的なキュビズムどまりで終わってくれている。物悲しく寒々しいフォルムはやがて、ロシア・アバンギャルド的な機能主義とは対照的に、独特の物語を醸し出すようになる。色彩は社会主義的に質素で暗い。土着のフォークアートからインスピレーションを得た、どこか装飾的な表現主義が、画家ベンカのスタイル。
 ベンカは、このスタイルで、スロバキアの精神を描き出す。農民の働く姿、その行き帰りや合間の姿。彼らは昔ながらの質素な衣服を着、道具を携えている。そして遠くには、タトラの山々が連なっている。

 ベンカは、こうした造形を生み出すために、スロバキアの色、スロバキアの形を探し求めて、地方を旅してまわったという。田園の風を吸い、土を嗅ながら、その土地の自然と生活を写し取った。
 自分でも郊外に別荘を建て、そこが私たちの雨宿りのベンカ美術館となった。
 
 画像は、ベンカ「畑で」。
  マルティン・ベンカ(Martin Benka, 1888-1971, Slovak)
 他、左から、
  「荷を背負う二人の農婦」
  「平野」
  「シュピシュの聖堂」
  「リプトフにて」
  「牧草地へ」
  
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ポロニアの美

2015-12-11 | 月影と星屑
 

 私の知っているアール・ヌーヴォーの画家の一人、エドヴァルト・オクニ(Edward Okuń)。私も詳しいわけじゃなく、絵をサーフィンしていて、ばったり出会って、ちょっと記憶に残っている、という画家。
 で、遠くワルシャワの地でオクニの絵の実物に邂逅し、彼がポーランドの画家だったことを初めて知った。

 ポーランド絵画において、活発なモダニズム運動となった「ムウォダ・ポルスカ(若きポーランド)」は、そのまままるごと象徴主義の流れに位置づけられる(多分)。そのなかで、オクニは特に目立つ存在ではない。美術館でも、彼の絵は二、三点しか展示されていなかった。
 が、私のなかではオクニは、ドイツのハインリヒ・フォーゲラー同様、辺境のアール・ヌーヴォー画家の代表、というイメージがある。春の憧憬を思わせる自然背景、古典的な髪と衣装と横顔のファム・ファタルな美女、画家の偏愛するメルヘンめいた中間色……

 解説によれば、オクニは名家の出だが、早くに両親と死に別れ、母方の祖父母に育てられた。莫大な遺産を相続すると間もなく、著名な画家のもとでデッサンの勉強を始める。ワルシャワでは、ポーランドの国民画家、ヤン・マテイコの画塾にも学び、さらにミュンヘン、パリへ。ミュンヘンに画塾を持ち、夏には自身が牽引したトランシルバニア北部の芸術家村ナジバーニャ(Nagybánya)で制作した、ハンガリー画家ホローシ・シモン(Simon Hollósy)にも師事した。

 が、オクニ自身が活動の拠点として選んだのは、ルネサンスの地ローマ。彼は二十年にわたりローマに暮らし、そこからイタリアじゅうを旅してまわる。ローマに居住するポーランド画家グループと交流し、さらにフリーメイソンの支部「ポロニア(Polonia)」を設立。
 つまり、オクニの絵に漂うルネサンス調の女性美、ベックリンを思わせる異国の情景、南国チックな赤銅の暖色などは、このイタリアにおける非カトリック性に根差しているわけだ。

 やがてポーランドに帰国し、ワルシャワに落ち着く。アカデミーで教鞭を取る一方、フリーメイソン支部「コペルニクス(Copernicus)」を立ち上げる。
 彼がフリーメイソンとしてどう活動したのかは、よく分からない。オクニは第二次大戦中もワルシャワにとどまったが、ワルシャワ蜂起の後にスキェルニェヴィツェ(Skierniewice)へと移り、赤軍によるワルシャワ侵攻の同月に死去している。

 画像は、オクニ「我らと戦争」。
  エドヴァルト・オクニ(Edward Okuń, 1872-1945, Polish)
 他、左から、
  「ショパンのマズルカ」
  「レモン園」
  「ユダ」
  「キメラ」
  「ザグレブの眺望」

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ピノキオの詩情

2015-10-29 | 月影と星屑
 

 タデウシュ・マコフスキ(Tadeusz Makowski)。この画家は、ピノキオのような子供を描く。
 絵本のようにリリカルなのだが、どこかグロテスクな、演劇的な印象。実物を前にすると、ちょっと気が滅入ってくるのは、なんでだろう。

 マコフスキには、初期の頃から子供の絵が多い。子供たちは、当初は風景画の点景として登場し、やがて、紛れもない主人公として、田舎じみた家のなか、画面いっぱいに並び立つ。そしてこちらを見つめている。
 こういう子供たちって、よくいるよね。シャイで、好奇心旺盛で、固まりあって互いにクスクス笑いながら、遠巻きに様子を眺めているの。

 フランスで活動した彼なので、その絵の雰囲気は、エコール・ド・パリ的にアンニュイでメランコリック。
 一方でその雰囲気はそのままに、他方で子供たちの形象は、次第に単純化されていく。丸い顔に、筒のような胴。三角のとんがり帽子と白い襟。子供たちの姿は、おもちゃの木の人形、あるいは小人のようなカスケード(連続)となって、控えめだが根気強く、何かを訴えかけてくる。
 だがそのメッセージが何なのか、私には分からない。劇場的な虚構なのか、暗喩なのか、それとも画家の内省なのか。

 受け売りの略歴を記しておくと、マコフスキは、後にアウシュヴィッツ強制収容所が置かれたことで知られる、オシフィエンチムの生まれ。大学で言語学なんぞを学んでいたが、絵に転向。クラクフのアカデミーに入り、「若きポーランド」派のメホフェルやスタニスワフスキに師事する。その後パリへと旅立ち、以降、生涯をフランスで送った。

 故国の師匠たちの教えに沿って、無難に忠実に精進していたマコフスキだったが、パリで出会ったキュビズムから、衝撃を受ける。モンパルナスのキュビスト画家たちと交流し、かのピカソとも友達に。
 円や三角、四角で表現されたキュビックな幼い人体は、アンリ・ルソーのナイーヴなリアリズムや、ポーランドのフォークアートを経由して、画家独特の形式や慣習を獲得する。画面は、初期フランドル絵画の取り上げた田舎の謝肉祭の暗く儚げな賑わいのなか、陰喩的な叙情を醸し出すようになる。
 
  世界は眼に見えたままに存在する。肉眼が知覚し把握する内容どおりに。こうした「素朴実在論」が、マコフスキの絵にはある。

 画像は、マコフスキ「アトリエにて」。
  タデウシュ・マコフスキ(Tadeusz Makowski, 1882-1932, Polish)
 他、左から、
  「白い帽子の少女」
  「下校」
  「トランペットを吹く子供たち」
  「ベッドの上の少年」
  「守銭奴」

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バーレスクの詩情

2015-08-24 | 月影と星屑
 

 ヴィトルト・ヴォイトキェヴィチ(Witold Wojtkiewicz)は、私がポーランドに行く前から知っていた画家。現地の美術館に行きゃ、実物に会えるだろう、と高をくくっていたけど、本当に会えた。

 ヴォイトキェヴィチは「若きポーランド」運動において、特異な画家として紹介されている。彼は、サーカスやピエロ、操り人形、饗宴、耕作、子供たちを連れたキリスト、などの一風変わったテーマを、繰り返し執拗に描き続けた。童話のように夢幻的で叙情的、はかなく、わびしく、だが同時にシュールでグロテスクで、薄気味悪く、不快ですらある。皮肉で戯画的で、バーレスクのように滑稽で茶番めいた世界。
 何かメッセージがあるに違いない。さほど難解ではない、画家の内省的なメッセージが。だが私には分からない。
 そんなこんなで、とにかく独創的で、ポーランドにおいて他に類を見ない画家。

 ヴォイトキェヴィチはたった29歳で死んでいる。 心臓に先天的な欠陥があり、治らないことは分かっていた。だから彼の絵は、晩年になるにつれて、苦痛に苛まれ、歪んでいく。
 彼が、その内面の放射とも言える画風にも関わらず、象徴主義の画家、ただし来たるべきポーランド表現主義を予期させる、なんて解説されているのは、彼が表現主義時代を待たずに死んでしまったから。

 子沢山の牧師の家庭に生まれ、倅にも聖職をと望んだ父親を尻目に、さっさと画家の道へと進んでしまう。短い生涯、やりたくもない仕事なんかできますかってんだ。
 クラクフのアカデミーでレオン ・ヴィチュウコフスキに師事したが、彼が影響を受けたのは、よりモダニストなマルチェフスキやヴィスピャンスキたち。サンクトペテルブルクにも留学するが、8日で祖国に逃げ帰ったという。
 ロマンチックな詩や文学を好み、ペンネームで風刺文も書いた。

 パトロンを得て、同傾向の画家たちと「グルパ・ピエンチ(Grupa Pięciu、五人組の意)」を結成して、展覧会を組織。作品が大いに注目を引きはじめ、かのユマニスト、アンドレ・ジイドにも大絶賛された矢先に、死去した。
 もっと生きたかっただろうな、ヴォイトキェヴィチ。

 画像は、ヴォイトキェヴィチ「行進」。
  ヴィトルト・ヴォイトキェヴィチ(Witold Wojtkiewicz, 1879-1909, Polish)
 他、左から、
  「子供たちの十字軍」
  「操り人形」
  「サーカス」
  「キリストと子供たち」
  「冬のおとぎ話(勝ち抜き戦)」

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色彩は印象を超えて

2015-08-19 | 月影と星屑
 

 クラクフの国立美術館にて、「チマルさん、この絵、撮っといて」(館内は写真撮影可)と相棒が指差した一枚が、ナターシャ・ダヴィドワ似のメーテル顔の少女。相棒ちゃんてば、こういうアイスクリームの溶けかかったみたいな顔が、好みなんだよね。
 描いたのはパンキェヴィチ。あっちにもパンキェヴィチ、こっちにもパンキェヴィチが展示してあって、彼が重要な画家だってことは分かるんだけど、どれもこれも画風が異なる。画風を模索し続けて、変転して終わった画家なのかな……よく分からん。

 ユゼフ・パンキェヴィチ(Józef Pankiewicz)。私のメモには、印象派的、後期印象派的、セザンヌ的、ボナール的、象徴派あるいはホイッスラー的唯美派、などなどと書き込んである。
 パンキェヴィチについては、私はまとまったイメージが持てなかったので、以下は受け売り。

 ルブリン生まれで、分割下ポーランドにおける「若きポーランド」派の高名な画家の一人。ワルシャワのアカデミーにて絵を学び、奨学金を得て、ヴワディスワフ・ポトコヴィンスキとともに、サンクトペテルブルクへ、さらにパリへと旅立つ。

 彼はもともと、朧な光でパリの情景を描いたアレクサンダー・ギエリムスキ(Aleksander Gierymski)のリアリズムに心酔していた。が、パリ滞在を契機に一気に印象派の虜になる。ワルシャワに戻ると、彼は早速、印象派の技法を故国のモチーフにて試みる。
 やがて象徴派に心奪われ、今度は暗い、ほとんど単色の色調で、ロマンチックな夜景を描く。彼をその気にさせたのは、影とムードを強調するトーナリズム(色調主義)の画家ホイッスラー(思ったとおり!)。
 が、再び色彩を取り戻し、それに伴いフォルムもまた、はっきりくっきりと描くようになる。
 こうした画風の変転期、彼はオランダ、ベルギー、イタリア、フランスなどなど、広く西ヨーロッパを旅してまわっている。もしポーランドにとどまっていたら、彼の画風はこんなにコロコロと変わらなかったかも知れない。

 帰国し、クラクフ美術アカデミーの教授となるが、再びフランスに赴き、色彩の魔術師ボナールから衝撃を受け、彼と親交を結ぶ(やっぱりだ!)。だがこの時期、ボナール以上にパンキェヴィチが夢中になったのは、モチーフを幾何学的に構成して絵画の平面性を強調する、近代絵画の父セザンヌ(分かっちゃいたけどね!)。
 第一次大戦期にはスペインで過ごし、抽象画の先駆者の一人、色彩と躍動感のキュビスト、ロベール・ドローネーと交流。またもやパンキェヴィチの画風は、フォーヴ的な色彩かつ幾何学的キュビズムの様相を帯びてくる(想定外だ!)。
 その後、激しい純色を捨て去り、装飾的だが現実を反映した、平静な絵を描いた。
 ……パンキェヴィチ、ついてけん。

 クラクフに戻り、再びアカデミー教授に就任。死ぬまでをフランスで暮らし、アカデミーのパリ支局にて指導した。
 さて、パンキェヴィチ最大の功績が、ここでようやく登場する。フランスのポスト印象派をポーランドに取り入れたパンキェヴィチだったが、彼はその哲学を、若き画学生たちに伝授する。彼らは、ポーランド語で「色彩主義者(Colorist)」を意味する「カピシツィ(Kapiści)」と呼ばれるグループとして、従来のポーランド絵画のロマンチックな伝統を斥け、あの暗く怖ろしい30年代と、それに続く戦後、ポーランド画壇を支配する一つの流れとなって、20世紀ポーランド絵画に寄与したという。

 画像は、パンキェヴィチ「マリアとクリスティナ・マニゴヴスカの肖像」。
  ユゼフ・パンキェヴィチ(Józef Pankiewicz, 1866-1940, Polish)
 他、左から、
  「赤いドレスを着た少女」
  「ノクターン、夜のワルシャワ、サスキ庭園の白鳥」
  「日本の女」
  「果物とナイフのある静物」
  「芍薬」

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