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魔法の絨毯 -美術館めぐりとスケッチ旅行-

 世界をスケッチ旅行してまわりたい絵描きの卵の備忘録と雑記

プラハ旅情

2014-04-18 | 月影と星屑
 
 
 以前、ヨーロッパで、東洋人を珍しがった女の子が、「なぜあなたたちは、こんな顔をしていないのか?」と、両手の指で両眼尻を端の端まで引っ張り上げて、自分の顔を作って見せた。彼女の仕種と、その大きな眼が倍くらいに吊り上がって細く伸びた表情とが、あまりに滑稽で、私たちはゲラゲラと笑ってしまった。
 東洋人の顔って、西洋人にはこんなふうに見えるんだな。……浮世絵に憧れて、海を渡って遥か日本にまでやって来た、T.S.シモンのスケッチを見つけて、そんなエピソードを思い出した。彼はペンとインクで、吊り上がった細い眼をした、扁平な顔の、着物を着たニッポン人たちを描きとめている。

 チェコの画家、タヴィク・フランティシェク・シモン(Tavík František Šimon)の絵は、プラハを初めとした都市の情景を描いた版画が、圧倒的に印象に残る。

 解説によれば、彼はボヘミア北東の都市イチーン近郊の生まれ。画家を志してからは広く旅をして、旅先の異国の風景や文化風俗を描いた。プラハのアカデミー時代には、奨学金を貰ってイタリア、ベルギー、イングランド、フランスへ。一人前の画家になってからは、ニューヨーク、ロンドン、オランダ、スペイン、モロッコ、セイロン、インドへ、さらには極東、日本にまで。
 彼の絵には、異邦人が実際に垣間見た異国のシーンへの驚嘆と感動のイメージが、率直に、情感豊かに現われている。

 パリ滞在中に印象派に接したらしい彼の油彩画は、フランス印象派からの確かな影響が感じられる、明るい色彩。けれども、今ひとつ締まりがなく、その陽光は眠気を誘う。
 が、印象派を通じて知ってしまったのが、浮世絵の世界。彼は版画にのめりこむ。端的な、思い切った構図。明瞭な線描と陰影。そこに、淡彩のような、黄昏めいた微妙なトーンが、ときにパートカラーを伴って強調される。画面を照らすのは、冬の陽光のように稀薄で、くっきりと緊張感がある光。これはもう眠くならない。

 浮世絵に感激して、はるかヨーロッパから日本にまで来た画家たちが、本当に何人もいたんだな。シモンは漢字で、自分の名前を「四門」なんてサインしている。

 プラハに帰国後はアカデミーで後進を育成し、チェコのグラフィックアートを牽引した。が、死後、共産主義時代のチェコスロバキアでは評価されず、近年まで忘れられていたという。

 画像は、T.F.シモン「冬の市場」。
  タヴィク・フランティシェク・シモン(Tavík František Šimon, 1886-1914, Czech)
 他、左から、
  「冬景色」
  「冬の教会」
  「静寂のフラッチャニ広場」
  「ニューヨーク、ブルックリン橋」
  「日本の富士山」
     
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チェコのキュビスト

2014-04-04 | 月影と星屑
 
 
 近年、その作品が盗難事件に遭って以来、世界的に注目度が急上昇中というエミール・フィラ(Emil Filla)。彼は国内では、キュビズムをチェコ絵画にもたらした、チェコ・モダニズムの開祖として評価されている。
 私はキュビズムが嫌いな上に、その良さも理解できないのだが、まあ教養ということで。

 パブロ・ピカソがジョルジュ・ブラックとともに創始した、絵画開闢以来の遠近法を放棄してフォルムを解体・再構成するという手法キュビズム。見た目は奇抜、その奇抜さを尤もらしい理屈で武装するこのスタイルは一世を風靡し、出るわ出るわの追随者たち。
 が、フォルムの解体・再構成という、純粋なキュビズムの時期というのは、比較的短命で、当のピカソ自身、さっさと放り出している。

 で、ピカソがキュビズムを通り抜けた後の、一見幼稚で、暴力的で化け物じみている、けれども色彩はフランス的に優雅な具象の画風。それが、フィラの描く絵のスタイルとして、私のなかで最も定着している。実際、フィラの絵はチェコ的ではなくて、フランス的だ。

 もともとはゴッホやボナールに心酔していたという、色彩の画家フィラ。プラハのアカデミーで学んだ後、若き同僚たちとともに、グループ「オスマ(Osma、8人組)」を結成する。このグループは、フランスの野獣派とドイツ表現主義「ブリュッケ」とを合わせたような様式を志向したというが、フィラ自身が最も共鳴したのはムンクだった。
 画学のため広くヨーロッパを旅行していたフィラは、パリでピカソらがキュビズムに突入した頃に、それに遭遇したのだろう。ピカソらと知己を得、早くもキュビズムの様式を取り入れる。ビジュアルアーティストの前衛グループを結成し、チェコ・キュビズムを牽引した。

 以降、総合キュビズムを発展させ……というか、実際にはそれから解放され、第二次大戦前夜には、ファシズム抵抗運動のなかで、スキタイ美術に着想を得た、人間と動物が、あるいは動物同士が戦う「動物文様(Animal Style)」を取り入れて、独自のスタイルを達成する。
 第二次大戦勃発直後に、ヨセフ・チャペックら、他の画家たちとともにゲシュタポに逮捕され、ダッハウ、続いてブーヘンヴァルトの強制収容所に収監される。チャペックは力尽きたが、フィラは生き残り、戦後、プラハに戻ってアカデミーで後進を育成した。

 画像は、フィラ「彫刻家とモデル」。
  エミール・フィラ(Emil Filla, 1882-1953, Czech)
 他、左から、
  「ドストエフスキーを読む人」
  「躍るサロメ」
  「鏡の前の女」
  「コップとブドウのある静物」
  「高架橋のあるフルボチェピ風景」

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夢見るカリカチュア

2014-04-02 | 月影と星屑
 

 ヴラスタ・ヴォストジェバロヴァー・フィスヘロヴァー(Vlasta Vostřebalová Fischerová)。チェコ語の解説しかないので、よく分からないのだが、とにかく独創的すぎて、重要視されずにきたチェコの女流画家。
 プラハのアカデミーで学ぶが、やがてアカデミーのスタイルをその権威とともに放棄する。その後、無類のユニークなスタイルに到達。彼女の活動時期は、わずかに1920~30年代の両大戦期間にすぎないが、この短いあいだに、同時期のチェコ絵画に「新しいリアリズム」をもたらすことに寄与した、と今日では評価されているという。

 この手の「新しいリアリズム」というのは、私の苦手分野なのだが、第一次大戦後の社会不安のなか、画家の内面を主観的に表現するそれまでの表現主義に反撥する形で現われた流れで、卑近な対象を冷徹に、即物的客観的に表現する「新即物主義(Neue Sachlichkeit)」、またそうした表現を通じて、さらに事物の非現実性をも表現する「魔術的リアリズム(Magic Realism)」などがある。
 絵画が、単なる描き手の表現にとどまらず、受け手への発信として、一種の社会への働きかけを意図している場合がしばしばある。
 ……だが私にはこういう絵は、あまりにシュールで戯画的なんだ。

 で、フィスヘロヴァーの絵もやはり、シュールで戯画的。だが、彼女のセンスのせいなんだろうか、絵本のようにメルヘンチックで、素朴派のようにユーモラスで滑稽。風刺が先走ってくどく感じたり、うるさく感じたりするということがなく、一貫して静的。
 けれども、そのカリカチュア性・メッセージ性は、何のカリカチュア・メッセージかはよく分からないのだが、切々と訴えてくる。身を切るほどに痛切と言ってもいいくらい。あまりに身近で、自叙伝的で、心理的。

 フィスヘロヴァーは何度か個展も開いたが、第二次大戦で画業を中断。戦後は復帰しなかったんだろうか、社会主義チェコスロバキアでは、画家もいろいろあったのかも知れない。そのまま忘れられた。

 画像は、フィスヘロヴァー「スパの女たち」。
  ヴラスタ・ヴォストジェバロヴァー・フィスヘロヴァー
   (Vlasta Vostřebalová Fischerová, 1898-1963, Czech)

 他、左から、
  「男やもめ」
  「レトナの年」
  「子供の世界」
  「溺死」
  「夢見る少女ヘルチャ」
     
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ボヘミアの森景

2014-03-21 | 月影と星屑
 
 
 チェコ近代絵画を先駆けする時代、新しい世代の画家たちに影響を与えた先達として最も頻繁に名前を眼にする画家に、ユリウス・マジャーク(Julius Mařák)がいる。

 なんでこんなにマジャークの名を見かけるのかと言えば、彼がプラハのアカデミーで教鞭を取っていたかららしい。19世紀後半、民族主義の高揚する時代、プラハの国民劇場や美術館の装飾を手がけて文化復興運動に加担する一方、祖国にどっかりと根を下ろした風景画を黙々と描いていれば、そりゃあ、アカデミーの画学生たちにも影響力を持とうというもの。

 マジャークは、ただ風景画だけに生涯を捧げた。作風はロマン派、写実派、印象派のあいだを、マイナーチェンジしつつ行ったり来たりするが、大枠においては一貫している。ロマン主義的にドリーミーなムードを醸す、静寂のボヘミア森景こそが、マジャークの真骨頂だった。
 何気に画面が音楽的なのは、マジャーク自身音楽的だったからかも知れない。子沢山の下級官僚の家庭にも関わらず、マジャークは幼い頃から、絵と音楽とを学んで育った。一族にはオペラ歌手やらバイオリニストやらの音楽家が数多くいる。ちなみに生まれ故郷は、かのチェコ国民音楽の父スメタナと同じく、ボヘミアとモラビアが交差する街リトミシュル。

 マジャークの風景画の主要なテーマは、森の木々だった。ロシア移動派に、樹木ばかりを描いたシシキンという画家がいたが、マジャークもまた、シシキン顔負けに樹木ばかり描く。彼のような人は木の一本一本に、人間と同様の個性を見ていたに違いない。
 描写は地勢記録的な、痛ましいほどの写実なのだが、画家の好みなのか、幽玄な、物語めいた演出が必ず加わっている。その演出が、森の奥へと分け入って、木漏れ陽の射す池沼や小道、渓流などの人知れないスポットにひょっこり出くわした驚きと喜びの感情を呼び起こす。
 大地と樹木の茶と、樹葉の緑の、狭いパレットにも関わらず、あまり太くはない木々が繰り返す縦の線と、それらが作り出す光と影のせいで、画面にリズムが存在する。

 ……こういう何でもない、地味な風景を、描ききることのできる画家というのは、凄い。

 画像は、マジャーク「森へ通ずる小道」。
  ユリウス・マジャーク(Julius Mařák, 1832-1899, Czech)
 他、左から、
  「返事」
  「チロルの主題」
  「五月の森外れ」
  「森の小池」
  「森のなか」

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ボヘミアのバルビゾン派

2014-03-19 | 月影と星屑
 

 
 ユリウス・マジャークとアントニーン・ ヒトゥッシは、チェコ風景画の二大巨匠であるらしい。1890年代の新しいチェコ絵画を担った画家たちよりもひとまわり古い世代に当たる。
 このうち、アントニーン・ ヒトゥッシ(Antonín Chittussi)のほうは、現地チェコにて、俄然、相棒のお気に入りとなった画家なので、私も印象に残っている。

 ヒトゥッシの絵は素直で分かりやすい。ボヘミア・モラビア高地に惹かれ、その風景を描いた彼の絵には、チェコというよりもフランスの雰囲気が漂っている。それは、印象派前夜、パリを訪れた彼が、バルビゾン派の絵に感動して以降、その信条にのっとって戸外の大気のなかで描くようになったからではある。
 だが、それだけではない。ヒトゥッシは多分、フランスを好き、フランスと性が合っていたのだと思う。彼は生涯、気管支炎を患い、ともすれば欝状態に陥っていた。が、プラハ、ウィーン、ミュンヘンと、北方のメランコリックな気候では出会えなかった陽光の色彩と、平易で闊達な筆捌きとを、パリにて見出したとき、ヒトゥッシは己を得た気持ちになったのだと思う。

 パリこそ我が芸術生涯最良の都! 彼はパリにアトリエを構え、美術館やら展覧会やらを熱心に訪れて絵を学ぶ一方で、そこに自作の絵を売り込んで成功を収める。パリの街路を飛び出し、インスピレーションを求めて、バルビゾン、フォンテーヌブロー、さらにはブルターニュやノルマンディーへ。燦々と陽の降り注ぐフランスの田園を描くのが、彼は本当に好きだったに違いない。

 他方、生まれ故郷のボヘミアの風景も、心から愛していたのだろう。フランスから帰国後は、陽光いっぱいに輝く大気のなかのボヘミアの田園を描き出した。で、ヒトゥッシは今日、新しい手法をチェコ風景画の伝統に取り入れた、チェコ印象派の先駆者として評価されている。

 が、彼は、故郷ボヘミアでは、フランスほどには画家として評価を受けなかった。フランスでそうしたように、インスピレーションを求めて、ボヘミアの田舎の村々へと頻繁に取材旅行に出かけた結果、却って健康状態までも悪化する。
 何もかもが、フランスでのようにはうまくいかない……欝が進行し、外的な接触を絶って孤独に、誰からの理解も拒絶して生活する。最後に、人生の送別会を自ら開いて、その数週間後に死去した。享年44歳。

 画像は、ヒトゥッシ「ヴルタヴァ川の渓谷」。
  アントニーン・ ヒトゥッシ(Antonín Chittussi, 1847-1891, Czech)
 他、左から、
  「セーヌ川の舟」
  「風車のある風景」
  「ボヘミア・モラビア高地」
  「日没の風景」
  「冬景色」

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