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元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「おくりびと」

2008-10-14 06:11:31 | 映画の感想(あ行)

 面白かった。滝田洋二郎監督の特質が大いに出ている。たとえば冒頭、遺族を前にしての厳粛な“納棺の儀”が執り行われるはずが、ホトケさんの身体に“イレギュラーな部分”があることが判明するお笑い場面で観客を一気に引き込む。そして前半“納棺の実演ビデオ”に出演した主人公の“災難”を面白おかしく描いて客席を湧かせる。さらには腐乱死体の処理をやらされるシーンはホラーなテイスト満載。これらのシークエンスの料理方法は、滝田監督がピンク映画時代に培ったものである。

 彼が一般映画を撮るようになってからかなりの年月が流れたが、これまで作った映画の中にはピンク映画時代の仕事ぶりを上回るものは(「コミック雑誌なんかいらない!」を除いて)存在しなかった。何となく器用な職人監督としての評価が確定し、このまま流されてしまうのかと危惧していたが、やっと自己の特質を活かせる素材にめぐり逢えたという感じだ。

 ただし、一般映画で実績を積んでからの“成果”も十二分に出ていると言える。ここ一番での“泣かせ”のタイミングをはじめ、決して観る者を突き放さない平易な語り口には感心させられた。小山薫堂による脚本も上手いのだが、古式納棺の儀というある種高踏的な題材をヘンに構えず、そして決して及び腰にならず、日本人の死生観に照らして適正な温度感で淡々と綴る滝田演出には何やら“名匠”の風格まで漂っている。モントリオール国際映画祭での受賞も納得だ。

 所属していた東京のオーケストラが解散になり、もとより飛び抜けた才能はなかった主人公は失意のうちに故郷に戻るが、それでも音楽の素晴らしさを忘れることが出来ず、子供の頃に使っていたチェロを時折奏でる。それが映画が進むに連れ彼の内面の成長にリンクするように深い味わいを増してゆくあたりも素晴らしい。

 主役の本木雅弘にとっては代表作になるであろうハイレベルなパフォーマンスだし、社長役の山崎努の海千山千ぶりも見上げたものだ。広末涼子、余貴美子といった女優陣も万全。久石譲の音楽は今年度のベストスコアとして評価されるだろう。舞台となる山形県の地方都市の、清涼な空気感と美しい四季の移ろいも見どころの一つだ。

 さて、この映画では小道具としてJBLのスピーカーが使われている。主人公の住居にあるオーディオ装置にも、コンサート会場のPAにも、社長宅のシステムにも、JBL製品が鎮座しているが、ハッキリ言ってJBLはクラシックには合わないのだ。もちろんこれでクラシックを聴いているリスナーもいることは承知しているが、ジャズ向けという評価が確定しているJBLの起用は、オーディオファンとしてはちょっと気になるところである(笑)。
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「ポカホンタス」

2008-10-13 06:51:04 | 映画の感想(は行)
 (原題:Pocahontas)95年作品。17世紀初頭のヴァージニア州を舞台に描くインディアンの娘ポカホンタスと、新大陸征服の野望を抱くイギリス人探検家ジョン・スミスとの人種と文化を越えたラブストーリー。ディズニー33本目の長編アニメーションで、舞台がアメリカなのもディズニーとしては珍しい。

 ハッキリ言ってこういう話は、素材を突っ込んでいくと人種間の確執とか帝国主義の独善とかいろいろシビアーなものが出てきて、ファミリー向けの番組としてはツラいものがある。だがそこはディズニー。上映時間を1時間20分に抑えて、主人公二人に話を絞り、彼らを理解しない探検隊長と部族の長老たちという対立因子を配し、「ロミオとジュリエット」式の単純明解な構図に仕立てている。つまり、ボロの出ないうちに手早く切り上げたのだ。結果、極めて手触りの良い“無難な”映画となっているし、少なくともこの前作の「ライオン・キング」よりはよほどマシである。

 映像の美しさは特筆ものだ。原色を抑え、繊細極まりない中間色を中心に、水彩画のようなシックなタッチで迫る。ヒロインが滝壷に飛び込む場面、川下から大きな白い帆船が上ってくるシーンなどは思わず目を奪われる。見事なCG処理も相まって、開拓前のアメリカの大自然の奥行きの深さを堪能した。画面が平面的になっていないのは、自然の創造物すべてに精霊が宿るという、ネイティヴ・アメリカンの視点から捉えているためだろう。

 アラン・メンケンの音楽は今回も申し分なく、ヴァネッサ・ウィリアムズの歌う主題歌も素晴らしい。字幕なしでも8割方は分かるキレイな英語と、声の出演のメル・ギブソンに似せたジョン・スミスの造形もご愛敬だ。

 でも、この映画が日本では大量のファミリー層を動員できなかきったのも当然かと思う。第一、キャラクター・デザインが日本人向けではない。コメデイ・リリーフとなるアライグマやハチドリの扱いも弱い。それではちょっと大人向けのラブ・ストーリーとして売ろうとすると、単純すぎて物足りないだろう。ポカホンタスはあちらの教科書にも載っている実在の人物。公開時期が生誕400年に当たり、記念式典が行われたそうだ。
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「落下の王国」

2008-10-12 06:59:50 | 映画の感想(ら行)

 (原題:The Fall)「ザ・セル」の監督の新作なので映像だけ楽しめばいいと思っていたが、それ以外の部分も興味を引く部分がある。それは大怪我をして入院した青年(リー・ペイス)の職業がスタントマンである点だ。

 時は1915年、まだ映画が民衆にとっての一大娯楽としての地位を獲得していない頃に、数少ないスタントマンの一人である彼の仕事を通して、映画の真髄を雄弁に語らせている。それはつまり“落ちる”ことだ。

 彼は出演者の運動範囲を超えた次元を体現する。キャストが物理的に単純な横移動を含めた半径数メートルでのアクションしか披露できないことをカバーし、映画は縦移動の三次元的な行動を実現させる。スタントマンという存在がそれを可能にする。縦方向でのアクションで最も頻繁に使われ、かつまた普遍性が高い現象は“落下”である。

 彼は映画の中で馬から落ちる、崖から落ちる、そして橋から落ちて大怪我をする。映画だけが持つ“落下”の魅力により映像は縦方向に広がり、観る者に臨場感をもたらす。映画の黎明期を題材にして、他の娯楽にはないその特質を示そうという、作者の映画への愛情が感じられる一編だ。

 さて、スタントマンの青年が失恋の痛手のため自ら命を絶とうと考え、同じ病院に入院していた少女に作り話を聞かせて巧みに自殺用の薬を盗ませようというメインストーリーは大したことはない。陳腐で冗長だ。わずかに少女を演じるカティンカ・アンタルーの無垢な魅力が光る程度。

 対して創作話の映像化はさすがにターセム監督らしい圧倒的な美しさを見せつける。フィジー、インド、イタリア、南アフリカなど世界20か国以上の場所で、多くの世界遺産を含む絶好のロケーション撮影を敢行。まるで「七人の侍」みたいな登場人物達や、いくらか図式的な画面構成はよく考えると鼻白む結果にもなるのだが、映画を観ている間はそこまで気が回らないほどの映像のヴォルテージの高さだ。特に象が悠々と泳ぐ姿や、沙漠にセットされた巨大な白い布がゆっくりと鮮血に染まっていく場面には驚嘆した。石岡瑛子による衣装デザインも素晴らしい。

 それにしても、チャールズ・ダーウィンの飼っている猿の名前がウォレスで、猿に向かって“進化論は君が考えたんだよ”と言い放つ場面には笑った。ウォレスとは当然アルフレッド・ラッセル・ウォレスから取っており、ウォレスはダーウィンとは別に進化の理論を構築した学者である。
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「息子」

2008-10-11 07:17:59 | 映画の感想(ま行)
 山田洋次監督が91年に撮った彼の代表作の一つ。一年前妻に先立たれた岩手の山村に住む父(三國連太郎)と、東京でフリーアルバイターとして職場を転々とする末息子・哲夫(永瀬正敏)。互いに反発しながらも、やがて理解しあうまでを爽やかに描く。椎名誠の短編小説「倉庫作業員」を元に、3部構成で作られている。

 まず何がいいかというと、すべての登場人物が、完全に足が地についた等身大のキャラクターとして描かれていること。製作当時はバブルの余韻もあって景気はそれほど落ち込んでいなかったが、それでも主人公のやってる仕事は居酒屋の店員や倉庫の資材出納係などで、見た目はちっともカッコよくない。大手商社でバリバリ仕事をしている一見ヤング・エグゼクティブの長男(田中隆三)も老父を引き取らねばならない長男の宿命があり、一流企業の社員でも首都圏に一戸建ての家も持てず、仕方なく通勤に2時間かかる千葉の郊外にマンションを30年ローンで購入するものの、老父の扱いのことで家族とうまくいっていない、悩める普通のサラリーマンとして描かれる。

 さらに、父親の住む農村、末息子が働く小さな伸鉄問屋の倉庫、などの描写が誰にでも納得できるように実に適切である。私事で恐縮だが、主人公がやっているような仕事を私もやっていたことがある(フォークリフトの免許も持っている ^^;)。だからあの職場の雰囲気がよく出ていることに素直に感心してしまった。田中邦衛やいかりや長介など、いかにも下町の中小企業の従業員然としたキャスティングと演技がいい。

 末息子に好きな女性ができる。得意先の倉庫で働く征子(和久井映見、本作での演技でその年の助演女優賞を総なめにした)だ。彼女の美しさに一目惚れしてしまったものの、いくら話しかけても口をきいてくれない彼女にイライラする哲夫。しかし、実は彼女は聾唖者だった。彼が父親に恋人を紹介した夜、出来の悪い息子が、ちゃんとした職に就き、口がきけないとはいえ、素敵な嫁さんを貰おうとしていることに嬉しくなり、酒を飲んで歌を歌い出す。息子は父の歌を初めて聞いた。

 市井の人々のありふれた哀歓を感動的にうつしだす山田監督の力量はたいしたものだ。日常生活の描写にまったく“ウソ”がない。都市問題、老人問題、福祉問題etc.など多くのテーマを盛り込んでいるにもかかわらず、ドラマの中で手際よくさばかれていることに感心した。それと撮影の見事さ。奇をてらったカメラ・アングルなどは皆無だが、自然で平易な描き方は撮影の教科書といっていいほど的確だ。
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「蛇にピアス」

2008-10-10 06:37:08 | 映画の感想(は行)

 予想通りの凡作だった。蜷川幸雄は演劇界では大物らしいが、少なくとも映画では満足できる仕事をしていない。そもそも彼が初めて映画を撮ってから20数年が経過しているのにまったく進歩の後が見られないのは、最初から映画監督の才能がなかったと断言してもよかろう。それにしても不思議なのは原作者の金原ひとみが蜷川に映像化を依頼したことだ。金原はよっぽど映画に対して疎いのか、あるいは二人の間に特別なコネが存在したのか知らないが、いずれにしても誉められたことではない。

 この映画のダメなところは、ワイセツ度が限りなく希薄なことだ。SMだの全身ピアスだのといった異様な嗜好を持つ男二人と、興味本位でその不気味な世界に飛び込む若い女という設定ならば、いくらでも扇情的な映像が撮れるはずだが、本作には見事なほど何もない。ただのっぺりとした微温的な画面が延々と続くだけだ。

 もちろん、センセーショナルな題材をわざと“引いた”ように描く方法もあるとは承知しているが、これはそんな能動的な演出意図など微塵も感じさせない。ただ監督がヘタだから退屈な場面の羅列に終わったということでしかないだろう。原作の持つインモラルな禍々しさなど全くなく、切迫した状況の中でヒロインの純情が匂い立つという玄妙な構図も望むべくもない。

 舞台設定も最低で、渋谷ってこんなに魅力のない扁平な街だったのかと思うほどロケーションに奥行きがない。ハッキリ言って、テレビドラマ以下だ。それをカバーするかのような冒頭の“無音でのカメラ移動”など、恥の上塗りである。

 さて、あらかじめ低調だと分かっていたこの映画をどうして観る気になったのかというと、吉高由里子が主演していることだ。「きみの友だち」で見せた激ヤバな雰囲気で本作をどう乗り切っているのかと期待していた。しかし残念ながらこれも不発だ。人材豊富ないわゆる“U-23”の若手女優の中でも珍しい“身体を張れるタイプ”なのだが、健闘してはいるもののグッとくるようなエロさは希薄。昔のロマンポルノの女優陣の艶技と比べればだいぶん後れを取る。

 もっともそれは彼女自身の問題ではなくて、監督の演技指導が不十分なせいであろう。しかも、あのフニャフニャ声でモノローグまで披露しているのは大減点。そういうのは全部カットして映像で見せないと何のための映画化か分からないではないか。

 高良健吾、ARATA、あびる優といった脇のキャストも凡庸。作劇に重みをつけるために、もっと極悪な面子を持ってくるべきではなかったか。原作は面白いのでいずれ別のスタッフ・キャストでリメイクしてもらいたい。その際はぜひ原作者も顔を出して欲しい。
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「ショッカー」

2008-10-09 06:30:55 | 映画の感想(さ行)
 (原題:Shocker )89年作品。「エルム街の悪夢」でお馴染みのウェス・クレイヴン監督作。テレビの修理屋ホレス・ピンカー(ミッチ・プレッギ)はテレビの次に殺人が好き。7つの家族を襲って30人を殺したが、ついに主人公ジョナサン(ピーター・バーグ)の“予知夢”によって逮捕され、電気椅子送りとなる。普通だったらここで終わりなのだが、まだまだ続きがある。ピンカーは黒魔術の信奉者で処刑の寸前に自分の邪悪な欲望を肉体から切り放すことに成功する。そして処刑に立ち会った女医を手始めに、次々と周囲の人間に乗り移りジョナサンを襲う。激闘の末、彼はピンカーを追いつめ、ピンカーの悪霊を追い出す。  

 これでもう終わりだと思うだろうが、映画はまだ続く。今度は電波となったピンカーは「全国ネットの殺人鬼」と化し、テレビから各家庭に自由に出入りしては殺人を繰り返すようになる。ついにはジョナサンもテレビの中に引っ張りこまれ、ブラウン管の中での最終決戦が始まる・・・・・、というのがこの映画の内容。

 考えられるだけのアイデアをかたっぱしから詰め込んだ映画。どのエピソードひとつ取ってもそれだけで長編が一本できあがりそうだ。無理矢理に観客を引っ張っていく力はたいしたものだと思いつつ、映画自体としてはイマイチの出来だなあと感じた。

 映画は生前(?)のピンカーを描く部分と、死んでから他人に乗り移って凶行を重ねるところと、さらに電波になってしまう部分と3つのパートに分かれているが、これはどれか一つに絞って描いた方がよかった。もちろん3番目のパートを中心にしてほしかったのは言うまでもない。そしてピンカーの弱点である恋人の持つペンダントととの因果関係もまったくわからないし、だいたい殺された人間の亡霊がゾロゾロ出て来る必然性が希薄である。それからジョナサンの出生にまつわる秘密も明かされたり、父親が実は心臓病だったり、というエピソードもあるが、ハッキリ言って詰め込みすぎ。映画全体が散漫な印象を持ってしまったことは確かである。

 ただ、クライマックスのピンカーとジョナサンのテレビの中での追いかけっこは最高に面白い。全然関係のないニュース・フィルムやボクシングの試合に突然二人があらわれて殴り合いながらバタバタと画面を走り回る場面はかなり笑える(どこかウディ・アレンの「カメレオンマン」を思わせる)。「エルム街の悪夢」では夢と現実の境目をとっぱらったクレイヴン監督だが、ここでは現実とテレビという虚構の世界をうまくミックスさせている。

 残念ながら「エルム街の悪夢」みたいにシリーズ化されることはなかったが、やけに説明的な部分が多かったのは、製作当時は続編を作る気マンマンだったことを思わせる(笑)。
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「トウキョウソナタ」

2008-10-08 06:42:09 | 映画の感想(た行)

 黒沢清監督の新境地が開示された映画かもしれない。彼の作品のテーマは“世界の終わり”である。ホラーを撮ってもファンタジーを手掛けても、それぞれの破滅的なラストはみんなこのモチーフに収斂されている。しかし本作は“世界の終わり”とは具体的なこの世のカタストロフではなく、各人のパーソナルな問題として存在しており、それは十分に映画として描くに値する題材である・・・・という、一歩踏み込んだスタンスに移行しているのは見逃せない。

 それを実体化しているのが、冒頭主人公(香川照之)が会社をリストラされることだ。中堅企業の管理職として手腕を振るい、それなりの実績もあげてきたはずなのに、会社の経営方針の変更であっさりと戦力外通知を受ける。するとそれまで彼が当たり前のものとして認識してきた家庭生活をはじめとする人間関係がもろくも崩れ去ってしまう。

 これは黒沢が今まで取り上げてきた“世界の終わり”は、自然災害にせよ戦争にせよ異世界からの侵略にせよ、すべてがマクロ的なものであった。それらはいくら事態が深刻でも皆が平等に直面する危機である限り、映画では明確に描かれないにせよ、当事者たちの連帯意識の発露が想像できる。

 しかし、この映画の“世界の終わり”は主人公だけに降りかかってきた災禍である。つまり彼自身にとっての“終わり”でしかない。かつての同級生である“リストラ仲間”(津田寛治)も登場するが、主人公は彼に対して何もしてやれない。つまらぬ見栄のために手助けするハメにもなるが、それが逆に破局を早めてしまう。それぞれが同じ危機感を覚えているのに、それを共有できないディレンマ。“世界の終わり”はグローバルな大波としてはやって来ない。我々一人一人にピンポイントで襲いかかる。そして主人公の妻(小泉今日子)のように“誰かここから引っ張って!”と呟くしかないのだ。

 しかし、本作のプロデューサーである木谷靖と木藤幸江は健闘した。黒沢の破滅願望を役所広司扮するコソ泥だけに収斂させ、一方で強引に家族の再生ドラマに持って行くという荒技を披露している。それは決して取って付けたような作劇ではなく、終末感漂う中盤までの暗さが存分に活きている。個人が直面する“世界の終わり”は他者(この場合は家族)と分かち合うことにより回避できる可能性がある・・・・と作者は殊勝にも思ったのかもしれないが、映画としてはこの終盤の展開によってまとまりを見せ、普遍的な感銘を観る者に与える結果になった。

 芦澤明子のカメラがとらえた透明感のある街の風景が魅力だ。香川をはじめとするキャストも好演。音楽の使い方が秀逸で、劇中に小出しにしてラストでじっくりと聴かせる作戦が功を奏しており、余韻は深い。観て損のない映画だ。
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「ザ・インターネット」

2008-10-07 06:38:33 | 映画の感想(さ行)
 (原題:The Net )95年作品。コンピュータ・アナリストのアンジェラ(サンドラ・ブロック)が偶然に同僚からもらったFDに重大機密が隠されていた。彼女はコンピュータ犯罪組織のワナにはまって身分を剥奪され、警察のシステムに前科者として登録され、命まで狙われる。監督はアーウィン・ウィンクラー。

 観終わって“なるほど、パソコンマニアの考えそうな話だ”と思った。大きな陰謀に関わるプログラムの争奪戦、瞬時にデータを破壊するウィルス、国家システムへのハッキングetc.それにスリルとサスペンスを振りかけて、見た目だけは新しそうな娯楽作品のいっちょあがり、てな具合だ。コンセプトとしては80年代の「ウォーゲーム」をはじめ「スニーカーズ」「ディスクロージャー」とほとんど同じ。使う機種がマッキントッシュに変わっただけ。

 パソコン関係のディテールにこだわって、ではストーリーはと聞かれると、相も変わらぬハッカー同士の張り合いだ。考えるに、フェチシズムに走るマニアは無視し、最初にネットワークありきではなく、どうしてその素材を選んだかの明確な意思、映画作りのプロとしてのコンセプトが欲しかった。森田芳光監督の傑作「(ハル)」との大きな差はそこにある。

 もっとも、この映画にも上手く突っ込めば「(ハル)」に通じる面白さが出てくる要素はある。ヒロインは在宅勤務で同僚の顔をほとんど知らない。唯一の肉親である母親はアルツハイマー症で施設に入れられている。近所付き合いもない。アイデンティティは端末の中だけにあり、システムを破壊されれば自己証明すらできない。徹底的にオンラインに生きる彼女をオフラインに引っ張り出すプロセスを、大仰なサスペンス劇はほどほどにして人間ドラマとして打ち出せば、けっこうな成果が上がったのではないか?

 しかし、いかにも友達が大勢いそうなS・ブロックのキャラクターでは無理っぽいし、第一地味な話はハリウッドのプロデューサーは金を出さないかも。「(ハル)」だって長い間配給が決まらなかったしねぇ・・・・。

ま、普通のサスペンスものとして見れば、可もなく不可もなしといったところか。退屈はしない程度には仕上げている。それにしても、ジェレミー・ノーザム扮する敵役の間抜けさにはがっくりだ(簡単に拳銃を取られるんじゃないよ。まったく ^^;)。
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「アキレスと亀」

2008-10-06 06:34:09 | 映画の感想(あ行)

 本作を観て愉快になれないのは、一つに登場人物が次々と死んでいくことにある。主人公・真知寿(ビートたけし)の父親は事業に失敗して芸者と心中。義理の母親も自殺。子供時代の真知寿と仲良くなるちょっと変わった男も事故死。芸術学校の仲間はバタバタとこの世を去り、果ては一人娘さえもいなくなる。

 別に彼らが退場すること自体がイケナイというのではない。必然性があれば描いてしかるべきだ。しかしこの映画においては、何も作劇上の合理性がない。要するに、キャラクターをスクリーン上に出してはみたものの、扱いきれなくなって無理矢理に消し去ったというのが実情だろう。そんなスタンスで作っている映画が面白いわけがなく、全編これアクビの連続である。2時間がとてつもなく長く感じられた。

 真知寿は絵を描くこと以外は何もできない男だが、困ったことに才能のカケラもない。アーティストとしての矜持さえなく、胡散臭い画商のいい加減なアドバイスを真に受けて題材をコロコロ変える始末。また、それについて何の疑問も持たない。つまりは“破綻している人間”なのだが、作者はその“破綻したままの状態”を追うだけで、何ら映画的興趣を醸し出そうと腐心している様子はない。

 本来は芸術家の生き方なんて、一般人にとってどうでもいい。それを“どうでもよくなくさせる”ような方法論を提示しないで、こんな映画を撮る意味はない。せいぜいが夫婦漫才のような共同制作の場面や、突如として電撃ネットワークのパフォーマンスが展開される場面で笑いを呼ぶぐらいだ。樋口可南子、柳憂怜、麻生久美子、中尾彬といった共演陣も頑張ってはいるがどこが手持ち無沙汰の感がある。

 それにしても、こういう駄作がよくヴェネツィア国際映画祭に出品されたものである。北野武のネームバリューというしかないが、オリジナルな映画作家としての彼の才能は「HANA-BI」で終わっていると言って良い。もちろん本作には彼独自の映像感覚や間の取り方などの個性が感じられる。ただ、もはやそんな技巧だけでは映画にならないのだ。

 彼に必要なのは“外から持ち込まれる企画”だと思う。既存のよくできた脚本をたけし映画ならではのカラーで料理する。「座頭市」が成功したのは、それに徹したからだ。大事なのは彼と付き合うプロデューサーの存在であろう。自分勝手なネタを独善的に作ろうとする彼の首根っこを押さえつけ、ちゃんとした商業用劇映画の仕事をさせる製作者が必要だ。それが出来ない限り、今後は彼に映画を撮らせるべきではないと思う。
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スティーヴン・キング「ニードフル・シングス」

2008-10-05 19:30:23 | 読書感想文
 私はキングの小説の熱心な読み手ではないが、それでも本書は私が読んだキング作品の中では一番楽しめた。

 メイン州西部に位置する架空の田舎町キャッスルロックを舞台に、欲しい品が必ず手に入る謎の骨董屋と、その「代価」として客が支払う「行為」により、町全体が破局へと向かう様子を克明に描く。とにかく、容赦ない筆致でえぐり出される人間の深層心理に隠された悪意や疑心暗鬼が、中盤以降の残虐シーンの釣瓶打ちに繋がるプロセスはキングの独壇場で、読んでいてワクワクさせられる。

 町民の身も蓋もない物欲が生み出す狂態に比べれば、骨董屋が「正体」をあらわす終盤のハリウッド製ホラー映画みたいな場面は、ハッキリ言ってどうでもいい(笑)。一部に「クトゥルー神話」を暗示したような箇所があるのも、マニアにとっては嬉しかろう。

 なお、90年代にフレイザー・クラーク・ヘストン監督により映画化されているが、私は未見である。
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