気まぐれ徒然かすみ草

近藤かすみ 

京都に生きて 短歌と遊ぶ

箸先にひとつぶひとつぶ摘みたる煮豆それぞれ照る光もつ

今日の朝日歌壇

2010-12-06 19:38:27 | 朝日歌壇
リハビリの病棟飾るちぎり絵のうさぎのどこか母も貼りけむ
(山形市 渋間悦子)

夜勤あけの靄の県道帰るとき電信柱の数だけ淋しい
(静岡市 堀田孝)

コーヒーの焙煎を待つ十五分ロシア語講座で旅をしている
(逗子市 久家雅子)

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一首目。病院では患者さんのレクリエーションとして、ちぎり絵の制作などを行うことがある。私の義母は、人付き合いを好まない性分でこういうレクリエーションは苦手だったが、看護師さんに勧められて参加していた。作者のお母さまはその後快癒されたのかどうかはわからないが、ちぎり絵のうさぎにお母さまの手仕事が残っていることに、特別の感慨を覚えて歌にされた。結句の貼りけむの「けむ」が過去の事実を推量する助動詞なので、いまのことはわからない。「ちぎり絵のうさぎ」の具体が出ているのがよいと思う。
二首目。短歌を作るとき、「淋しい」「嬉しい」などの感情を表す言葉は使うなとよく言われるが、この歌はそれを思い切って使って成功した例。「電信柱の数だけ」の四句目がよかったからだろう。
三首目。いまは「待つ」ことが少なくなった。「コーヒーの焙煎を待つ十五分」なら待つのに長くもなく短くもなく適当な時間。それはロシア語講座の時間とも合致した。結句の「旅をしている」に、遠くを見る目、ロシアへのあこがれのような雰囲気が出ている。
いまさらながら、待つことや退屈の大切さを思う。

声霜  菊池孝彦

2010-12-06 00:46:29 | つれづれ
空のどこかで空に渇けば鳥たちはうたふ その明るさのただなか

ポストひらくはをみなひらくに似て春夜おぼろなるしろき封筒はあり

世界にたつた一人をいふもこの街の破片のごとく歩みゆきたり

橋わたり来し白昼やわたくしを怪訝におもふそれも「わたくし」

人生のなかばは過ぎてとろとろと煮てゐる白粥のほのあかり

なんとまあさびしき身体(からだ)大小のほくろをつけて湯を上がりたる

わたくしをごしごし消せる消しゴムがあればなあ ふゆの陸橋わたる

背をまるめ煙草くゆらすわが背後夜が大きな呼吸(いき)を吐きたり

レシートの溜まりすぎたる財布のごと膨らみながらこはれて自我は

けふの街ときのふの街の入れかはる零時 きのふの街はたと消ゆ

「ちよつと本屋に行つてくるよ」と言ひ置いてかへらず われの中なるひとり

「われおもふゆゑにきみあり」ゆふぞらにセスナとグライダー繋がつて

とほくから来てしばらくはここにゐて その先はもういいから、空よ

(菊池孝彦 声霜 六花書林)

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短歌人同人の菊池孝彦の第一歌集を読む。
菊池さんは、短歌人12月号にも「第○芸術論序説(上)」という評論を発表されていて、哲学に精通されている論客。
歌は、自分を俯瞰した視点があちこちにあり、一筋縄では行かない。
しかし、難しいことを言っているようで、例えば二首目の「春夜おぼろ」や、五首目の「白粥のほのあかり」のような「ほのぼの」した歌もある。
凡庸な読み手には凡庸に読め、慧眼を持つ人には深く読めると言う、読み手の資質を問うような面を持った歌集かと思う。
さて、私はどこまで読めているのだろうか。