生涯学習の部屋

資格取得数238。6つの修士と18の学士と2つの短期大学士。MBAサラリーマンの生きがい発見生涯学習奮闘記。

「生涯学習と自己実現」のレポート完成~♪

2011年05月29日 23時40分18秒 | 放送大学
これで放送大学のレポートはすべて提出ということとなりました。

予定通りといえば予定通りなのですが、相変わらずの締め切りギリギリでのレポート完成に、自分のふがいなさを感じております。

さて、次のハードルは6月10日に研究計画書の修正案をゼミの先生に送信することです。この際、章立てを送る必要があります。イメージ的には3000字ほどの修正案を作るのですが、来週の土日でいいかな。
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「科学的探究の方法」のレポート完成~♪

2011年05月29日 20時25分24秒 | 放送大学
本日2本目のレポートが完成した!

合計すると、わずか500文字程度なのだが設問は7つもあった。とはいえ、うち3問は記号を選択するものなので、実質、4問ということか。

実際、この科目は研究を志す者が履修した方がいい科目かもしれない。コンサルティングワークショップ、修士論文とそれぞれ、10万字前後の成果物を残しているものの、我流であり、自信を持って見せれるものになっていない。

研究の基本を学ぶ上で、この科目はいいな~と思っております。
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「現代の国際政治」のレポート完成~♪

2011年05月29日 10時11分11秒 | 放送大学
帳尻あわせのようなレポート作成は慎みたいのだが・・・

6月7日必着の放送大学のレポートが3通残っている。そのうちの1つで、文字数が500~540文字のレポートが完成した。537文字だった。

537文字なんて、ブログで1,000文字超の記事を軽々と書いているのだから、「楽勝」と思えるかもしれないが、レポートは別である。今まで、何もしたくなかったのだが、とうとう、やらざるを得ないところまで追い込まれたといえる・・・

そう、根っからのぐうたら。自律心が低いレベルなので、何かしら、強制的なハードルがなければ、いつまで経っても超えようとしない。

でも、人間って、ぐうたらでなくても、「仕事が忙しい」やら「プライベートが忙しい」やら、「今日は体調が悪い」とか「久々の友人と飯を食いに行く」とか、何かしら理由をつけて目先のイヤなことから逃げている動物だと思っている。

新しいことをスタートさせるのは、正直、辛いのである。定まったルーチンの世界で、定まったルーチンの作業をやっている方が楽なのである。そう、変化を怖がるのだ。変化にはリスクが伴う。そのリスクが未知数だから、基本的には避けたいのだ。

心の奥底では「新しい自分に変わらなきゃ!」と思っているにもかかわらず、体がついていかない。だから、いつでも「こんなはずじゃなかった・・・」とか「やる気をだせばできるのに・・・」って、自分に言い訳ばかりしている。

あなたがやろうが、やるまいが、周囲の人には影響はない。自己責任ってやつだ。だから、出来ない言い訳を聞いてくれるのは自分ぐらいなのに、思い出したように、時々、後悔している。というか、独学や、自律心だけで、何かを成し遂げることが、困難だらけだってことぐらい、年齢25歳ぐらいを過ぎたら、はっきり分かっているはずだ。日記も三日坊主、ラジオの英会話も4月号や10月号で終了・・・続ける仕組みを考えなければ、成果を求めることは、まずムリなのだ。

だから、常々、後悔はしつつも、レポートの締め切りがある通信制大学は、私の学習スケジュール管理のよきパートナーである。時々、レポートが重なって瀕死の状態に涙するが、その努力があったからこそ、ささやかながらも、専門分野(らしきもの)を切り拓くことができたと思っている。

あれ・・・これで文字数1000字である。書いたレポートの倍の文字数をブログの記事で書いているようじゃ、いつまで経っても、課題が終了しないな。。。
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友情論

2011年05月29日 06時45分51秒 | ちょっと立ち止まって・・・
いただいたコメントに返事をするのは当然の礼儀である。

とはいえ、ブログをスタートしたころは、そんなネチケットを知らず、貴重なコメントを「放置」することが、ままあった。最近は、まとめて返事を出すことが習慣となっている。都度都度返事を書いていると、時に、返事漏れが発生する危険性があるし、隙間時間でやっつけで返事するのは性に合わないからである。

そのため、コメント後、かなりの日数が経過してからの返事となることについてはご容赦願いたい。

そもそも、この急速に展開していく世の中は、あまり好きではない。みんなが携帯を持ち、即座に返事を出さないと、愛情や友情を疑うという奇妙な世の中。携帯がないと仲間はずれの世の中(とはいえ、長男も次男も、未だ携帯を欲しがらないのだが)。

リアルタイムでつながりを感じていないと不安になる・・・これって、一種の「病気」あるいは「症候群」ではないのかい?携帯の文字やネットのやりとりで、本当に、愛情や友情は計れるのかい?

携帯の登録に多数の「友人モドキ」の名前があっても意味がないだろう。それって、たくさんの名刺を集めて「俺って、こんなに人脈があるんだぜ!」って粋がっている新入社員と変わらない。

「じゃあ、フラ夫さんは真の友人がたくさんいるのかい!」って聞かれても、私には良く分からない。先の「友人モドキ」の話のように、自分が「友人」と思っていても相手は「顔見知り」ぐらいにしか思っていないかもしれないから。一緒に酒を飲んだり、あるいは食事をしたとしても、それが友人の証にはならない。その程度で友人とか親友と思っていいのなら、アル中患者が友達ナンバーワンになってしまう。

ひょっとしたら、友人なんか1人もいないのかもしれない。なんせ、プロのカウンセラー(のつもり)だが、相手の心の奥底を確かめようとは思わないから。疑った時点で、その人は友人のはずはないのだ。

私を友人と思ってくれる人はいないかもしれないが・・・しかし、私には、何かあったとき、友人としてサポートしてあげたい、あるいは、友人と協力してあげたいと思える人はたくさんいる。その中には、顔もまだ見たこともない、ネットだけの付き合いの人もいるのだが。

名前も知らない、顔も知らない、電話番号も知らない・・・そんな方でも、過去いただいたコメントや、メールの中身を見れば、友人として付き合うべき人なのか、あるいは、そうではない人なのかぐらいすぐにわかる。

私の一人よがりかもしれないが・・・友人というものは見返りを求めず、また、相手を信じるものだと思っている。携帯メールの「友人モドキ」は、リアルタイムで返事をするという見返りを求めている上、返事がないことで「裏切った」と思い込み、全く相手を信じていないのが、私には受け入れられないのだ。

自分に自信がないから、友人がいないことに怯え、恐怖する。しかし、友情を構成するのは自分だけではなく、相手の思いも尊重しなければならない。だから、自分ではどうしようもないのだ。あるがままの自分で平然としているだけである。


※本当は、全く違うことを書くつもりだったのだが、途中から「友情」について書いていることに気がつき、急遽、友情論とさせていただきました。前後のつながりのおかしいところはご容赦ください。
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