連休に次ぐ連休。
休んだ日数は3+3=6日もあったのに、書いたレポートはゼロ・・・大学院だけでなく、放送大学も3本残っているのだが、まあ、書けないうちは書けないんだよな。仕方がない。
書くときには書くから、勘弁して欲しい。
レポートだけじゃなく、特定課題研究演習(=修士論文相当)も、書かなければならない課題があるのだが、本当に書けない。気合が入らない。こんな状況では、成果物も、大したものは書けんのだ。だから、許してほしいい。
「勘弁して欲しい」とか、「許して欲しい」と書き綴ってしまったが、私は、一体、誰に対して許しを請うているのだろう。わからない。自分自身の学習にもかかわらず、書けないことについて、後ろめたい気持ちでいっぱいなのである。不思議である。
すべてにおいて、生涯学習は自己責任である。私が学習した成果は、すべて私に帰属する。だから、私が学習するのは、あなたのためでもなければ、第三者のためでもない。にもかかわらず、学べない状況を、申し訳なく思ってしまう自分が存在する。
強いて言えば、現在に英知を伝えてくれた先達に対して、申し訳なく思っているのかもしれない。自身の人生を費やして、発明や発見をしてくれた先達。これらの方々の英知を、現代人はフリーライダーのごとく、無神経に使っている。それに対する対価は、若干のコスト面を負っているのかもしれないが、ほとんど、無料で消費している。
そもそも、現代人は、長い人類の歴史の中では、わずか、1ページを担うに過ぎない。しかし、これから続く小説をうまく続けるべく、過去人から未来人への橋渡しを担う役割を背負わされているのである。これは過去から伝わっている文化・文明・英知を使わせていただいている現代人の義務であり、責任でもある。
私が、未知の学習に身を投じているのも、その、役割の一環なのかもしれない。無論、世の中の人々の努力のほとんどが、無意味であり、未来に伝わらないのである。しかし、世の中の人々が全員、努力を放棄したなら、未来には何も伝わらないのも事実なのだ。現代の学びのひとしずくが、過去の知識の集積にプラスされて、未来に伝わっていくのだから。
そういう意味では、他の動物と違って、過去の英知を伝承することができる人間は、やはり、学習するしかないのであろう。だからこそ、書けない書けないとうなっていても、いずれ私は書くに違いないのだ。それが、人としてのあがきであり、人としての宿業と思っているから。
そう、何かしら便益を受けている以上、等価交換故に、何かしら応分の負担を強いられるものなのである。そう考えると、学び続けることも、宿命かもしれぬ・・・
休んだ日数は3+3=6日もあったのに、書いたレポートはゼロ・・・大学院だけでなく、放送大学も3本残っているのだが、まあ、書けないうちは書けないんだよな。仕方がない。
書くときには書くから、勘弁して欲しい。
レポートだけじゃなく、特定課題研究演習(=修士論文相当)も、書かなければならない課題があるのだが、本当に書けない。気合が入らない。こんな状況では、成果物も、大したものは書けんのだ。だから、許してほしいい。
「勘弁して欲しい」とか、「許して欲しい」と書き綴ってしまったが、私は、一体、誰に対して許しを請うているのだろう。わからない。自分自身の学習にもかかわらず、書けないことについて、後ろめたい気持ちでいっぱいなのである。不思議である。
すべてにおいて、生涯学習は自己責任である。私が学習した成果は、すべて私に帰属する。だから、私が学習するのは、あなたのためでもなければ、第三者のためでもない。にもかかわらず、学べない状況を、申し訳なく思ってしまう自分が存在する。
強いて言えば、現在に英知を伝えてくれた先達に対して、申し訳なく思っているのかもしれない。自身の人生を費やして、発明や発見をしてくれた先達。これらの方々の英知を、現代人はフリーライダーのごとく、無神経に使っている。それに対する対価は、若干のコスト面を負っているのかもしれないが、ほとんど、無料で消費している。
そもそも、現代人は、長い人類の歴史の中では、わずか、1ページを担うに過ぎない。しかし、これから続く小説をうまく続けるべく、過去人から未来人への橋渡しを担う役割を背負わされているのである。これは過去から伝わっている文化・文明・英知を使わせていただいている現代人の義務であり、責任でもある。
私が、未知の学習に身を投じているのも、その、役割の一環なのかもしれない。無論、世の中の人々の努力のほとんどが、無意味であり、未来に伝わらないのである。しかし、世の中の人々が全員、努力を放棄したなら、未来には何も伝わらないのも事実なのだ。現代の学びのひとしずくが、過去の知識の集積にプラスされて、未来に伝わっていくのだから。
そういう意味では、他の動物と違って、過去の英知を伝承することができる人間は、やはり、学習するしかないのであろう。だからこそ、書けない書けないとうなっていても、いずれ私は書くに違いないのだ。それが、人としてのあがきであり、人としての宿業と思っているから。
そう、何かしら便益を受けている以上、等価交換故に、何かしら応分の負担を強いられるものなのである。そう考えると、学び続けることも、宿命かもしれぬ・・・