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仙厓禅師の画賛と思われるものに「男女」と題して、
「人我我入之本體、二根交成大佛事・・・」と書いているものがあります。
仏教に立川流という流派があり、その言っているところに二根交会といったことを説いていますが、こうしたことを何のわだかまりもなく、サラリと言い得ているところに悟りというものをかいまみる気がします。
人間は生きている限りは迷いの塊のようなものでありますから、迷いをなくしようとしても迷いをなくすことはできません。
迷いが迷いだとわかるのが悟りであって迷いのほかに悟りというものがあるわけのものではないでしょう。
迷いを迷いだと思わないから迷っていることが始末に負えないわけです。
おれは今泣いているな、おれは今怒っているなと言うことをおもえば、怒っていても怒っていることにはならない。泣いていても泣いていることにはならないのであります。
-引用/古田紹欽「仙厓」より
悟りとはいかなるもの云うやらん墨絵に書きし松風の音
-伝/一休禅師
仙厓禅師の画賛と思われるものに「男女」と題して、
「人我我入之本體、二根交成大佛事・・・」と書いているものがあります。
仏教に立川流という流派があり、その言っているところに二根交会といったことを説いていますが、こうしたことを何のわだかまりもなく、サラリと言い得ているところに悟りというものをかいまみる気がします。
人間は生きている限りは迷いの塊のようなものでありますから、迷いをなくしようとしても迷いをなくすことはできません。
迷いが迷いだとわかるのが悟りであって迷いのほかに悟りというものがあるわけのものではないでしょう。
迷いを迷いだと思わないから迷っていることが始末に負えないわけです。
おれは今泣いているな、おれは今怒っているなと言うことをおもえば、怒っていても怒っていることにはならない。泣いていても泣いていることにはならないのであります。
-引用/古田紹欽「仙厓」より
悟りとはいかなるもの云うやらん墨絵に書きし松風の音
-伝/一休禅師
これも老いなんでしょうね。