南無煩悩大菩薩

今日是好日也

雑多紛々の人生

2020-05-13 | 意匠芸術美術音楽
(Art/Mark Tobey, Title:Untitled,1972)

種族が異っても、国が異っても、文化が異っても、やはり人間だから、考えることが似たり寄ったりである。それを思うと、今更ながら最初にかえることが必要だという気がする。経文あっての仏法ではない。また哲学あっての思索ではない。もっと先の先にその縁り起って来る原始的本体があるのである。それに注目せよ。

いろいろと面白いことがあるが、先づ打たれるのは、雑多紛々の人生である。その雑多紛々の人生の記録である。つまり盲目なる人生の河である。

客観が現れて来て、始めて人間はその人間の大きさを、単なる物ではないことを、宇宙のリズムに合致していることを、自分は自分ばかりではないということを、人間であると同時に宇宙の存在であるということを知るようになる。つまり自己を始めて空間に置いて見るということになる。そこに行って、始めて自己がわかり、他がわかり、他の存在がわかる。即ち自己を他の中に発見し、また他を自己の中に発見するという心の境である。そうなればもはや盲目の人生の河に泳いでいるものではなくなる。

饒舌するものよ。少しく静かであれ。争うものよ。暫くその叫びを止めよ。争いは単に争うがためにあるものではない。闘うものは単に闘うためにあるものではない。底に流れているもののいかに静かで且つ厳かであるかを見よ。

自己がわかり他の存在がわかるということの上にのみ本当の自由があり、本当の独立があり、本当の人生がある。

言うだけのことを言って聞くだけのことを聞く。その先はどうにもならない。人間がどうにもならないやうにどうにもならない。そこを深くつかむことが肝心である。そこを本当につかんでいさえすれば、敵の重囲の中にいてもびくともするものではない。

怒るのも、悲しむのも、笑うのも、また不快に思うのも、多くはその外面の理由だけで解釈されるべきものではない。皆その縁って来るところがあるものである。それはその時は激情に捉えられていてわからなくとも、ある期間時を置けば、必ずはっきりとして来るものである。あぁあの時はああいうことがあった、こういうことがあった、そのためああいう風に怒ったり悲しんだりしたのだというようにわかって来るものである。

百尺竿頭一歩を進めよという言葉がある。唯一歩である。普通に考えてる境から唯一歩を進めれば好いのである。反射して来た対象物に唯一歩深く入って行けば好いのである。そうすれば、いろいろな世界が開けて行って、人の心が具象的に不思議な絵になって見えて来る。言はない言葉がはっきりと耳について聞こえて来る。あらわれるべくしてしかもまだあらわれないものがはっきりとそこに出て来る。

完結すべきものではあるまい。何故というのに、この人生は決して完結していないからである。一つから一つへと絶えず心が縁り起って、無窮に活動を続けて行っているからである。菩提のあとに煩悩が来り、煩悩のあとに菩提が来り、更にまた菩提のあとに煩悩が来るという風であるからである。刹那と永劫とが全く違った言い表し方であつて、そして同時に同じものであるからである。

二つのものがあって、それが全く異っていて、しかもそれを追求するといつか同じになっている、

こんなことなども不思議と言えば不思議だ。

-切抜/田山録弥(花袋)「くつは虫」より

Behind the Curtain

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