アジアと小松

アジアの人々との友好関係を築くために、日本の戦争責任と小松基地の問題について発信します。
小松基地問題研究会

20210119『 軍都小松からアジアの友へ』

2021年01月19日 | 小松基地関係資料
20210119『小松の空から朝鮮侵略の戦闘機を飛ばすな ― 軍都小松からアジアの友へ』

 第5,6次小松基地爆音訴訟は2020年3月に結審し、名古屋高裁金沢支部での控訴審が間近に迫ってきた。一念発起し、表題の小冊子の執筆に取りかかった。目次は以下の通りだが、そのなかから、「小松基地による生活破壊」を投稿する。近々小冊子ができるので、そのときはご注文を。

目次
【一】小松基地の歴史と実態
  はじめに/第1 戦時期/第2 戦後反基地闘争/第3 攻撃訓練の強化/第4 基地機能の強化/第5 小松基地による生活破壊/後序
【二】基地周辺住民たちの熱意
【三】第5,6次訴訟傍聴報告
資料目次【①小松基地日誌(戦前~21世紀)/②小松海軍基地建設/③10・4協定/④小松基地の戦力/⑤スクランブルリスト/⑥日米共同演習リスト/⑦緊急着陸リスト/⑧事故リスト(墜落、物品落下など)/⑨滑走路二本化動向/⑩小松基地周辺の住環境/⑪石川県内の軍事施設/⑫「北朝鮮空爆を極秘研究」/⑬小松基地司令=田母神俊雄の場合/⑭領土ナショナリズムと大和堆問題】

第五 小松基地による生活破壊
(1)騒音被害
 小松基地を発着する戦闘機による爆音は基地周辺住民にさまざまな苦痛を与えてきた。

(A)「10・4協定」について
 第5、6次小松基地爆音訴訟で、国・防衛省は「10・4協定」を「精神条項」「紳士協定」「法的義務はない」などと主張している(「第4準備書面」)。
 「1975・10・4協定」締結当時の経過を振り返ると、1971年防衛庁はF4ファントム配備を隠して滑走路かさ上げを発表し、1972年4月にファントム配備を発表し、同年8月に竹内伊知さんが「ファントム配備反対」を掲げて市長選で当選した。ここから防衛庁との交渉が始まった。
 竹内市長は三原則(1975年7月5日)を掲げて防衛庁と折衝した。三原則とは、「第一に国が騒音公害の原因者であることを確認すること、第二に公害対策基本法の精神に基づき、原因者負担の原則を確立すること、第三に環境庁の示した空港周辺環境保全基準を確実に順守すること」というものだった。
 1975年10月に「10・4協定」として決着を見るのであるが、それまでにさまざまな曲折があった。とくに、協定締結の1年前(1974年10月19日)に名古屋防衛施設局は、「小松基地において自主的騒音規制について」(室石保管資料)という文書を小松市に手交している。

 

 摘記すると、「就寝時間帯は飛ばない」「昼食時は飛ばない」「議会中は飛ばない」「入試時は飛ばない」「お旅祭時は飛ばない」「人家を避け北側に離脱する」「東方向へは編隊離陸をしない」「着陸時には市街地に入らない」「サイレンサー、防音提、防音壁を作る」「基地騒音対策機構を特別編成する」などと自ら申し出ているのである。
 市民に約束したことを「紳士協定」「精神条項」というなら、国の約束の総てが「紳士協定」と化し、「遵守義務はない」ことになってしまう。防衛庁の腹のなかは「10・4協定=紳士協定」であり、私たちは「10・4協定=毒まんじゅう」と批判した。「10・4協定」を協定たらしめるか、「紳士協定」に甘んじるかは、政治的力関係にかかっている。

(B)爆音訴訟の歴史
 まさに、「10・4協定」締結の前夜、1975年9月16日、基地周辺住民12人がF4ファントムの飛行差し止めを求めて、金沢地裁に提訴した(第1次訴訟)。「訴訟の準備万端は竹内伊知さんがやっていた」という話を聞いたことがある。住民の力と行政の力を一本の矢にして、弓につがえ、ぐいっと引き絞り、国・防衛庁に放ち、竹内さんが死してなお、今も国・防衛省をがんじがらめにしているのである。
 3年後の1978年に318人が追加提訴(第2次訴訟)し、第1次訴訟と併合して審理された。1991年3月地裁判決、1994年12月名古屋高裁金沢支部判決で、ともに過去の損害賠償は認められたが、飛行差し止めは「不適法」として却下された。
 1995年12月、第3次訴訟(1620人)、翌1996年5月第4次訴訟(146人)を提訴し、2002年3月の地裁判決は過去の損害賠償を認めたが、将来の損害賠償は認めなかった。判決では、服部医学調査による騒音の身体的影響については、「有意の差がある」と認めながら、「身体的障害」「発症の危険性」を認めなかった。控訴審判決は2007年4月におこなわれ、1審判決を踏襲した。
 2008年12月、第5次訴訟(2121人)、2009年4月、第6次訴訟(106人)を提訴し、2020年3月、金沢地裁判決が出され、控訴審に突入した。

(C)騒音による健康被害
 最初の提訴から5回の判決があり、すべての判決で騒音被害を認定し、損害賠償を認めているにもかかわらず、国は真摯に判決を受けとめず、騒音(音源)対策をネグレクトしつづけ、否、むしろ騒音を増大させつづけ、異常な状態がつづいている。
 とくに、騒音による身体的影響の医学的調査報告がおこなわれ、長年月の騒音曝露によって生活上も健康上も大きな被害を蒙ってきたことが立証されてきた。
 しかし、これまでの判決は騒音と健康被害の関係を認めようとせず、第5、6次控訴審の最大の焦点は健康被害を認めさせるかどうかにある。

(D)昼休みと夜間
 1975年「10・4協定」では、「(騒音源対策第2項)早朝、夜間及び昼休み時間には、緊急発進その他特にやむを得ない場合を除き、離着陸および試運転を中止する」としていたが、1989年7月に小松市と小松基地の間で交わされた文書によれば、「従来は10・4協定における『夜間』を20時以降とすることが、基地と市の了解事項であった」と確認され、夜間飛行訓練は年間を通じて20時までに終了していたにもかかわらず、当時の竹田市長は9~3月は従来通り20時まで、4月は21時まで、5~8月は21時30分までと後退させた。小松基地は大手を振って、週2日の夜間訓練をおこなっている。

 

 さらに、2002年に西村市長は昼休み時間の訓練を受け入れ、2012年8月4日(土)には早朝訓練を強行し、「10・4協定」の「騒音源対策第2項」の約束も、すでに形骸化している。「10・4協定」の「騒音源対策第3項」にある「高校入試、お旅祭り、その他市の主催行事で、市が要請する場合は出来るかぎり飛行を制限し、または中止する」と約束しながら、2019年3月6、7日におこなわれた公立高校の入試当日に、戦闘機を飛行させた。
 こうして、今、日々の労働や農作業で疲れた身体に、土日も、昼休みもなく、夜遅くまで騒音が襲っているのである。

(2)人口の停滞
▼人口動態(1970年→1993年)
 1994年に当会は「騒音と人口の関係」を調査した。1970年と1993年の人口を比較すると、全市(D)の人口は9万5681人→10万7922人(13%増)、世帯は2万3290→3万405世帯(31%増)。
 騒音地域(A)では人口が13%減、世帯が4%増だったが、国道8号線周辺の非騒音地域(B)では人口が31%増、世帯が48%増を記録している。山間部(C)は非騒音地域だが、騒音以外の原因で人口9%減、世帯増減0%だった。
 小松基地の騒音が騒音地域の人口を減少させているという事実が歴然としている。この調査結果は小松基地爆音訴訟の書証として提出された。
▼人口動態(2004年→2015年)
 2004年から2015年にかけての世帯数と人口の増減を調べてみた。
 小松市全域(D)の世帯数は17%強増加し、人口は1・3%減少した。他方、騒音地域(A)の世帯数は非騒音地域(B)とほぼ同数の17・8%増加したが、人口は3・2%減少した。
 騒音地域(A)は市中心部と重なり合い、居住条件は良好であるにもかかわらず、人口は相変わらず減少しつづけている。



(3)居住地を奪う基地

   
【A=鶴ヶ島→A′鶴ヶ島/B=浮柳/C=浜佐美→C′浜佐美新/D=安宅新→D′安宅新/E=佐美/F=丸の内/G=城南/H=鹿小屋→H′鹿町/I=浮城町/J=桜木/K=下牧→K′下牧】

 小松基地拡大の歴史は、同時に周辺住民排除の歴史でもあった。1988年に廃村とされた地域を調査し、『小松基地闘争強化のために』のなかで、論考「強制移転を許さず、基地を叩き出そう」にまとめた。
 小松基地周辺では、1961年基地開設、1964年基地拡張・F104J導入以来、1988年までに337戸が移転させられていた。当時の集団移転状況を略記すると、
▼事例1 浜佐美
 浜佐美町(C点)は1879年(明治10年)にはすでに86戸の集落をなし、漁業と製塩業で生計を立てていたが、明治末期には塩の専売制によって、漁業(地引あみ)だけになり、その後漁業も不振に陥り、1957年開墾によって若干の農地を確保し、同時に織物、撚糸を家内工業的におこなっていた。
 1964年、2700m滑走路建設によって、飛行直下になり、F104Jの激甚な騒音に耐えられず、1965〜77年にかけて108戸全部が浜佐美本町(C′点)への移転を余儀なくされた。
▼事例2 鶴ヶ島
 鶴ヶ島町は悌川沿岸の古くからの農村であった(A点)。基地拡張→2700m滑走路によって、騒音直下となり、一番早く移転を始めた(1985年までに50戸)。旧町の北寄りで、滑走路直下を少し避けた前川西岸(A′点)に集団移転し、鶴ヶ島町を名乗った。A′点は決して静かな所ではないが、従来どうり農業を続けながら、墜落事故の危険から逃れることが先決であった。
▼事例3 鹿小屋
 鹿小屋町は小松城の一角(H点)にあり、比較的新しく形成された集落である。滑走路延長線上の真下にあり、もっとも激甚な騒音を受けている。1976年より移転しはじめ、1985年までに26戸が吉竹町地内に鹿町(H′点)を作り、ほとんどの住民が移り住んだ。
▼命からがら
 基地強化による騒音激化と事故多発によって、住民が否応なく居住地から逃れざるをえず、小松基地が強化されていく限り、ひきつづき周辺住民が犠牲にされることを示している。
 その後も集団移転は続き、安宅新町(D点)の住民は早朝からのエンジン調整音に耐えかねて、わずか数十メートル西側で、県道と高速道路の間に新たな安宅新町(D′点)を造成し、1984年から移転を開始し、2019年までに195軒が移転した。下牧町も機種の変更にしたがって、騒音が激しくなり、2000年代から移転が始まり、2019年までに88戸が梯川の対岸へ移転を強いられたのである。
 2019年の『基地と小松』(小松市)を見ると、騒音地域にある11の地域(A~K)から、人々はより静かで、安心の出来る地域への流出が今も続いている。まさに、軍事基地が「発展」するところは、人間が住めなくなるのである。

 

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