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アジアと小松

アジアの人々との友好関係を築くために、日本の戦争責任と小松基地の問題について発信します。
小松基地問題研究会

20150128 尹奉吉義士の暗葬を考える

2015年01月28日 | 尹奉吉義士
尹奉吉義士の暗葬を考える

 都合の良い「記憶」だけを政治的に利用し、都合の悪い「記憶」は抹消するという、「記憶の操作」が横行している。日本軍「慰安婦」や朝鮮人・中国人の強制連行・強制労働そのものを人々の記憶から抹殺しようという、安倍や極右、歴史修正主義者のやりくちである。

ハンナ・アーレント
 ドイツ出身でアメリカの哲学者・思想家ハンナ・アーレントは「殺害者は…人々の記憶に残る痕跡や犠牲者を愛した人々の悲しみを消しはしない。彼は一個の生命を消滅させるが、一人の人間が生きていたという事実を消滅させるのではない」「ナチは…あたかもその人間がかつて存在しなかったかのように人間を扱うこと、文字どおり人間を消えさせること」「望ましからぬ者や生きる資格のない者は、あたかもそんなものはかつて存在しなかったかのように地表から抹殺してしまうのである」「(虐殺された)彼らが後に残す唯一の形見は、彼らを知り、彼らを愛し、彼らと同じ世界に生きていた人々の記憶だけだ。だから、死者と同時にその形見をも消し去ることが全体主義の警察の最も重要な、最も困難な任務の一つなのである。」(『全体主義の起源』)と書いている。(田中利幸さんの「『忘却の穴』と安倍晋三」から孫引き)

なぜ暗葬を選択したのか
 田中利幸さんの引用を読んで、強制連行犠牲者追悼碑の撤去や碑文改訂のことや尹奉吉義士暗葬之跡碑のことが頭をよぎった。

 当時の日本軍は尹奉吉義士を処刑して、遺体を火葬に付したと記者発表して、野田山墓地の一角で暗葬にした。遺骨が独立運動の象徴になるならば、遺族に遺骨を渡さなければよいだけのことである。なぜそのようなまわりくどい暗葬という処理を必要としたのかが、長い間の疑問である。ハンナ・アーレントの一文を読んで、軍部の意志の一端に触れることができたような気がする。

 つまり、暗葬という行為にこめられている軍部の意志は尹奉吉義士を処刑したという事実は隠さないが、尹奉吉義士の遺体(遺骨)とともによみがえってくる「上海爆弾事件」の記憶を抹殺したいという欲求が見えてくる。

 尹奉吉義士を処刑したことを、報復的に発表したが、その後、メディア上には一行も書かせず、尹奉吉義士の存在と上海爆弾事件は中国侵略戦争に向かう日本人の記憶のひだから完全に追放され、朝鮮人の記憶の中にさえ、微かに残り香が漂う程度にしか存在しなくなっていた。

  
   
   写真は1990年7月3日撮影(金沢市開示文書より)

記憶によみがえる尹奉吉義士
 尹奉吉義士が人々の記憶から抹殺されてから12年が過ぎ、1945年の解放を迎えて、翌1946年の3・1独立運動記念日を祝った東京から、微かな記憶をたどって、朝鮮人が金沢野田山に結集した。3月4日から捜索が始まり、3日目の6日に遺体が発見された。だが、メディアは遺体発掘を誰にも知らせず、朴仁祚さんの奮闘を待つまでは尹奉吉義士の実存が否定され、遺体が埋められていた跡はゴミ捨て場になったり、焼却炉が置かれたり、通路として人々に踏まれ続けたのである。

 尹奉吉義士が私たちの前に現れたのは1992年殉国記念碑と暗葬之跡碑の建立によってであった。以来、20数年間、尹奉吉義士は金沢の地で日帝の朝鮮植民地支配と中国・アジア侵略戦争の非を告発し続けている。

忘却の穴」を掘らせてはならない
 そして、大日本帝国の亡霊に取り憑かれた「記憶の殺人者」たちは、今ふたたび「忘却の穴」を掘り、「竹島は日本固有の領土」という木札を立てて、殉国碑を揶揄したり、憎しみをこめて説明板に傷をつけて、尹奉吉義士をなきものにし、私たちの記憶から抹消しようと試みている。

 今、みたび私たちの歴史に対面する姿勢が問われている。
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