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アジアと小松

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小松基地問題研究会

20250823講演「戦後文学の描いた戦争の傷跡―室生犀星の周辺を軸に」について

2025年08月25日 | 雑感
講演「戦後文学の描いた戦争の傷跡―室生犀星の周辺を軸に」について

 8月23日、犀星記念館で開催された飯島洋さんの講演を聞いてきた。演題は「戦後文学の描いた戦争の傷跡―室生犀星の周辺を軸に」であり、犀星の戦後作品のなかの戦争記述についても話すだろうと期待して参加したが、飯島さんは「犀星については門外漢」と言い、スルーしていた。なぜ犀星記念館が、敗戦80年の節目に、「犀星と戦争」という企画をたてながら、「門外漢」である飯島さんを招いたのだろうか、不可思議な企画であった。

 結局飯島さんは犀星の戦争詩にも戦後に全集から排除したことにも触れなかった。「犀星の周辺」と銘打つなら、少なくとも犀星自身が『犀星全集』を組むにあたって、戦中に書いた戦争詩を排除した理由と背景について深掘りした上で、他の作家の戦争記述について話してほしかった。

 講演では、飯島さんは、主として戦後の作家の戦争に関する記述の解説に終始していた。その多くは広島原爆や大阪空襲などによる被害者としての思惟の作品である。最後に、レイプや人肉食などの加害性についても触れていたが、さらりと終えてしまった。

 講演後、聴講者から、戦後の作家たちが戦争体験を作品のなかで表現することに逡巡していたことについて、話しがあったが。その話しを聞きながら、私は、作家個人の問題ではなかろう、むしろ作家をとりまく日本社会が、作家から、戦争について書く環境を奪ってきたのではないだろうかという思いが湧いてきた。

 読者(私)として、作家本人の個人的問題としてすませるのではなく、作家に逡巡させたのは何か、誰が逡巡させたのか、そしてなぜそこを突破できなかったのか、という社会的な問題として対象化しなければならないのではないだろうか。作家業の故か、犀星もそうであったが、体制に抗うことは、生活(生きる)の否定であり、戦後の作家も例外ではなかったのだろう。多喜二や鶴彬のように、生活(自己)を捨てることなしには、戦争批判の文学は生まれないのではないだろうか。
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