■釜山港へ帰れ / 渥美二郎 (CBSソニー)
サイケおやじが初めて海外出張を命ぜられたのは社会人になって2年目早々、行く先は韓国の釜山でした。
しかも、当然の様に単独なのに、韓国語なんか「ハセヨ」ぐらいしか知らなかったので、それは……、どんな仕事かと不安がいっぱい……。
まあ、結論としては、こちらから書類と荷物を運び、帰りも同様、荷物と書類を預かるという、それほど悩む必要も無かった、つまりはガキの使いではありましたが、その荷物というがトラック2台に満載という分量でしたから、下関から釜山まではフェリーを利用しての旅でありました。
そして不安だった言葉の問題は、出発前に教えられていたとおり、日本語がすんなりと通じていたんですねぇ~、当時は。
説明不要とは思いますが、日韓関係は昔っから決して良好とは言えないままに現在へ至っているわけですが、昭和54(1979)年頃は今ほど険悪じゃ~なくて、互いに侮蔑と憎しみはあったにしろ、双方に対立よりは協調を求める機運が感じられたのは事実であり、殊更仕事や商売に関しては、それは言わないのが「お約束」だったと思いますし、サイケおやじが命ぜられた仕事にしても、何の問題も無く、普通に終える事が出来ました。
ところが、その時代、日韓航路のフェリーは隔日運航だったんですよ。
そこで、これ幸いと空白となった貴重な1日、実際は半日だったんですが、釜山の街をブラブラしていたサイケおやじが発見したのは、港の近くに数件あった古書店で、元々が好きな世界ですから、その強烈な引力に導かれて入ってみれば、なんとっ!
日本の書籍、それも昭和40年代に発売された雑誌や新書版、そして文庫本がどっさり置いてあったんですねぇ~~~♪
当然ながら、エロ本やSM誌が雑然と売られていたのは言うまでもありません ♪♪~♪
そ~した店が、その界隈には他にもあったもんですから、たまりませんよっ!
サイケおやじは夢中になって、その宝の山を探索し、ごっそり獲物を携えて帰国したのは、本当に幸運としか言い様がありません。
で、何故に釜山に、そんな「宝物」があったのか?
正解は日本の漁船や貨物船の乗組員が昔っから釜山に入港した時に置いて行ったという、それが捨てていったのか、あるいは売っていったのか知りませんが、とにかく日本から、それなりにちゃんとした筋道があって集められたものだったんですよねぇ~~!?!
そして日本への持ち帰りには、段ボールで2箱分にもなったんですが、一緒に戻るトラックの荷物に紛れ込ませた(?)事は言うまでもありません。
ちなみに税関とかは、自然に緩かったですよ、行きも帰りもねぇ~~。
それはそれで良かったのかもしれませんが、今となっては隔世の感があるのは確かです。
さて、実はこの話には後日談があり、もう一度、あの古本屋へ行きたいと念じていたサイケおやじの夢が叶ったのは今世紀に入ってからで、もちろん勇んで、その場所へ行ってみたら、辺りはすっかり再開発されており、件の店は、そこにあった「宝物」と共に消え失せた幻に……。
あぁ……、確かにサイケおやじは、あの時……、素晴らしい「宝物」を手にした事は現実であり、決して夢幻では無かったはずが、時の流れの無慈悲さを痛感するばかりでありました。
ということで、掲載したシングル盤は、そんな気分を思い起こさせる韓国産の歌謡曲「釜山港へ帰れ」の渥美二郎バージョンです。
ご存知のとおり、楽曲自体は韓国lの流行歌として以前から知られていたらしいのですが、それが日本で広く認知されたのは韓国から来た歌手のチョー・ヨンピルが歌った昭和58(1983)年頃からでしょうか、続いて同時期には日本語の歌詞によるカバーバージョンが幾つも吹き込まれ、中でも掲載した渥美二郎のシングル盤が驚異的な大ヒットになった事は今や歴史です。
それは作詞:三佳令二&作曲:黄善雨とクレジットされており、この渥美二郎のバージョンは只野通泰のソウル歌謡っぽいアレンジによるところが、他の数多のカバー作とは決定的に異なるヒットの要因と思います。
もちろん、そこにソフトでありながら芯の強い渥美二郎の素晴らしい歌唱力がジャストミートしている事は、あらためて述べるまでもないでしょう。
そして、リアルタイムのサイケおやじは、この「釜山港へ帰れ」を聞く度に、あの釜山港の古本屋を思い出していましたし、今でも同じ気持ちになるというわけです。
あぁ、あの日の釜山港へ帰りたいっ!