もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

150215 衆参両院の「テロ非難決議」を非難する!「テロの本質」を真面目に語る政治家はいないのか!

 真面目に「テロの本質」を考えれば、その原因が、決して宗教の違いにあるのではなく、世界的に広がる富の偏在、極端な格差拡大、差別構造の継承、及びパレスチナ問題、それらによる<若者たちの絶望>にあることは、実は誰もがわかっていることだろう! それを「世界には凶悪なテロリストが大勢いて、こいつらを叩き潰せばテロが無くなる」なんて話に無理やりすり替えている。誰も、「テロの本質が、日本・世界の社会構造が抱える富の偏在・格差の拡大及びパレスチナ問題の<野放し状態>にこそある」という本質を語らないし、見させようとしない。そして、凶悪なテロリストへの恐怖ばかりを煽りたてている。これはまさにオーウェルの「一九八四年」の世界と同じだ。今回の国会の「テロ非難決議」に社民党・共産党まで加わっていたのには、あきれ果てた。「誰も本質を見ようとしない。」「武力で世界中の<絶望した若者たち>を封じ込めるべきではないし、不可能だ!」

秋原葉月さん「Afternoon Cafe」ブログから

※(1)「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ」byヘルマン・ゲーリング ※(2)いつの時代も大衆をファシズムに煽動する手口は同じ。なのに同じ手口に何度も騙されるのは過去に学んでいないから。格差を広げ、セイフティネットを破壊し、冷徹な自己責任論が横行する社会を継続させるのは簡単だ。今よりもっと格差を広げ、セイフティネットを破壊する政策をとればよい。そうすれば人々に自己責任論がもっと浸透し、草の根から勝手に右傾化してくれる。

辺見庸さんのブログから

・権力をあまりに人格的にとらえるのはどうかとおもう。口にするのもおぞましいドブの目をしたあの男を、ヒステリックに名指しでののしれば、反権力的そぶりになるとかんがえるのは、ドブの目をしたあの男とあまり変わらない、低い知性のあらわれである。権力の空間は、じつのところ、非人格的なのだ。だからてごわい。中心はドブの目をしたあの男=安倍晋三であるかにみえて、そうではない。ドブの目をしたあの男はひとつの(倒錯的な)社会心理学的な表象ではありえても、それを斃せば事態が革命的に変化するようなシロモノではない。権力には固定的な中心はなく、かくじつに「われわれ」をふくむ周縁があるだけだ。ドブの目をしたあの男は、陋劣な知性とふるまいで「われわれ」をいらだたせ、怒らせるとともに、「われわれ」をして社会心理学的に(かれを)蔑視せしめ、またそのことにより、「われわれ」が「われわれ」であることに無意識に満足もさせているのかもしれない。ところで、「われわれ」の内面には、濃淡の差こそあれ、ドブの目をしたあの男の貧寒とした影が棲んでいるのだ。戦争は、むろん、そう遠くない。そう切実にかんじられるかどうか。いざ戦争がはじまったら、反戦運動が愛国運動化する公算が大である。そう切実に予感できるかどうか。研ぎすまされた感性がいる。せむしの侏儒との「ふるいつきあい」がベンヤミンのなにかを決定した。そう直観できたアレントほどするどくはなくても、研ぎすまされた感性がいる。けふコビトがきた。ミスドにいった。(2015/11/11)

151107 朝日デジタル:【インタビュー】 ポピュリズムの正体 北海道大准教授・吉田徹さん

2015年11月08日 14時37分23秒 | 考える資料
11月8日(日):  
朝日デジタル【インタビュー】ポピュリズムの正体 北海道大准教授・吉田徹さん  2014年12月6日20時06分
                           【2012年11月30日 朝日新聞朝刊】
  「ポピュリズム」って響きがちょっとかわいいですが、日本語にすると「衆愚政治」。印象が一変します。既成政党の政治家やメディアに毛嫌いされ、否定されるポピュリズム。しかし吉田徹さんは「徹底したポピュリズムこそが民主主義を救う」と言います。どういうことなのか、話を聞きました。

 ――いまさら聞くのも気が引けますが、ポピュリズムって何ですか。
  「これだけ多用されていても、みなが納得するような定義がないのが問題です。語源は英語の『ピープル』と同じで、ラテン語の『ポプルス(人々)』です。オックスフォード政治小辞典では『普通の人々の考えを支持すること』とされています。アメリカでは肯定的に、ヨーロッパでは否定的に使われ、日本では『大衆迎合』『衆愚政治』という意味で使われています。どれが正しいということはなく、いずれもポピュリズムという曖昧模糊(あいまいもこ)としたものの一側面を言い当てています」

 ――石原慎太郎さんはポピュリストですか。
  「彼は極右政治家です」

 ――橋下徹さんはどうですか。
  「ポピュリストでしょうね」

 ――違いがよくわかりません。
  「ポピュリストは有権者の関心に応じて立ち位置も動く。既存の政党がすくい上げてこなかった『ニッチ市場』の争点をかき集め、ひとまとめにすることで既存政治を揺さぶろうとします。維新の会の政策は場当たり的で一貫性がないと批判されていますが、それこそがポピュリズムの特徴で、思想的に極まっている人とは本来、正反対にいるものです」

 ――日本でポピュリスト的政治手法を使った政治家のさきがけは、小泉純一郎元首相でしょうか。
  「元祖は中曽根康弘元首相です。自民党の得票率が40%を切るような状況に陥り、中曽根内閣は従来の支持基盤であった農村・商工業者から新たに、個人主義的な都市住民層の『広くて浅い』支持を獲得しようとします。国鉄や労働組合といった敵をつくり、国鉄民営化を実現することで一定の成功を収めました」
  「いま日本のポピュリスト政治家は、基本的に地方自治体の首長です。首長は大統領制型の政治を行えるし、中央と地方という分かりやすい対立構図をつくることができるため、リーダーシップの可視性が高いからです。首相だった中曽根、小泉両氏が『上からのポピュリズム』だとすれば、日本で初めて『下から』が生起したと言えます」

 ――橋下さんを「ポピュリストだ!」「危険だ!」と批判することによって、橋下さんの人気はむしろ高まったように思います。
  「当然です。ポピュリズムの源泉は政治不信です。ベースとなっているのは、既存政治の無力と、政治を一方的に批判するだけのメディアや知識人といった『エリート層』への猜疑心(さいぎしん)です。そういった人たちが橋下さんを批判すればするほど、彼の『正しさ』が証明される。自分たちがポピュリズムを育てたのだという自覚を欠いたまま、橋下さんを批判している人が多すぎます
  「政治によって『代表される人々』と、社会にいる『実在の人々』との間には必ずズレが生じ、それが『自分は誰にも代表されていない』という政治不信を生みます。ポピュリズムはそのズレを修正する自己回復運動のようなもので、民主政治に不可避なものです。いくら『大衆迎合だ』『衆愚政治だ』と批判したところでなくなるものじゃない」

 ――なくならないんですか。
  「なくなりません。ただし、古今東西、ポピュリズムは基本的に一過性のものです。もともと既存の政治システムへの批判からスタートしますから、システムの側が柔軟に応答した場合は治まります。硬直したシステムの筋肉も柔らかくなって、しばらくはケガもしにくくなる。つまり問われているのは、既存システムの側の応答性です
   ■     ■
 ――効用があってしかも一過性なら、放っておけばいいですね。
  「どうでしょう。確かにポピュリズムは、権力に近づけば近づくほど現実化を余儀なくされます。これまで『あっち側』を批判することで人気を得てきたのに、自分が『あっち側』の人間になったら批判の足場を失い弱体化してしまう。よほどうまくかじ取りをしなければ人心が離れていく可能性は高い。ただし集めた期待が大きければ大きいほど、失敗した時の失望も深く、政治そのものが誰からも信用されなくなり、民主主義が本当の危機に陥ってしまうかもしれません。そうならないためにも、既存の政治システムの側がポピュリズムへの感受性を高め、自己変革のきっかけにすべきなのです」

 ――とはいえポピュリズムは「敵」を名指しして人々の負の感情を動員する。危険ではないですか。
  「そういうものとも限りません。例えば、アメリカの草の根保守運動のティーパーティーはポピュリズムの一種ですが、合衆国憲法の精神を足場に、そこからオバマ政権を批判しています。先進民主主義国の多くは、迷った時に立ち返るべき『原点』を持っています。アメリカは憲法、フランスだったら共和制ですね。欧米の現在のポピュリズムは、その原点における約束事の履行を求める政治運動という側面があります。そしてオバマ大統領も、常に憲法を引用して国民に語りかける。そこをスタート地点にするという共通了解があるのです」
  「しかし日本は、回帰すべき『原点』を持ちません。『万世一系』も日本国憲法も、そこまでのポテンシャルは持っていない。残念ながら理念で人々を糾合することができない歴史なんです。だからある時は抵抗勢力、ある時は官僚と、外部に敵をつくり、それを攻撃することによってしか人々を動員できません
  「少し話はそれますが、東日本大震災を受け、当時の菅直人首相が『第二の戦後復興を果たさなければならない』と発言しました。あの世界史的な大惨事に際して『戦後復興』しか持ち出すものがないというのはあまりにもつらい。あとは『絆』とか、広告会社の陳腐なキャッチコピーのようなものか。そのような国のポピュリズムはその程度のものにとどまらざるを得ません」
   ■     ■
 ――回帰すべき原点をもたない私たちがポピュリズムをうまく使いこなすことができるでしょうか。
  「逆説的ですが、語の本来の意味でのポピュリズムを徹底することだと思います。立ち返るべき原点を持たない私たちは、どんな社会に住みたいのか、どんな政治を望むのか、一人一人が突き詰めることから始めるしかありません。自分の本当の欲望が分からないから、政治に対するマインドが消費者化し、これがダメなら次、また次と、政治そのものを疲弊させている。いまの日本のポピュリズムも、その消費者化した有権者の一時的な欲望を満たして人気を得ればいいとなっています
  「しかし政治とは本来、短期的で個別的な欲望を、より高尚で普遍的な欲望につなぎ、人々を導いていくものです。民主政治を正しく機能させるには、個別的な欲望を新たな形でまとめあげる政治リーダーが必要です。そして既存の硬直し切った政治をポジティブに刷新できるのは、既存システムの外から出てくるポピュリストということになるでしょう
 ――そもそも世の中を一新してくれるリーダーを追い求める心性こそが問題ではないでしょうか。
  「真の問題は冷戦後、企業的な発想が政治に持ち込まれ、効率性を高める、英断を下すといった企業経営者モデルのリーダーシップ像で塗り固められていったことです。その延長線上に現在の首長型ポピュリズムがある。しかし政治リーダーとは本来そういうものではありません」
  「政治リーダーとは人々を導く上質な『物語』を語れる人です。利益を分配することで支持を集めてきた政治が、何も分配するものを持たなくなった時、手元に残るのはオバマ大統領の『ひとつのアメリカ』のような、国民を包摂できる物語しかない。今や政治リーダーは、国民を『代表』するというよりも、『表現』することが求められるのです」
   ■     ■
 ――だから安倍晋三さんや石原さんは『美しい国』『強い日本』といった物語を一生懸命語っているのではないですか。
  「それは信じたいものしか信じない『お得意さん』向けの物語で、縮小再生産に終わります。私が言っているのは、物語によって異なる地平にいる人々をつなぎ、新しい次元を開き、外交でも国政でも拡大再生産に持っていく、『構築の政治』を展開できるリーダーです
  「ホンダの本田宗一郎のように、真に優れた経営者は物語で人を動かしていたはずです。しかし今の橋下さん的なポピュリズムはブラック企業的で、働け、さもなくばボーナスが下がるぞと、恐怖心で人々を突き動かそうとしている風にしか見えない。そんな橋下さん的な『批判の政治』ではなく、『構築の政治』を展開できるポピュリストが現れれば、自分の意思が政治に反映されていないと感じる人々に、政治への信頼と希望を取り戻してもらえるかもしれません」(聞き手・高橋純子)
   ◇
 よしだとおる 75年生まれ。専門はヨーロッパ比較政治、フランス政治史。著書に「ポピュリズムを考える」「二大政党制批判論」など。

151107 朝日デジタル:【インタビュー】オポジション(『対抗(勢力)』)野党を研究する政治学者・吉田徹

2015年11月08日 13時46分41秒 | 考える資料
11月8日(日):

安倍自公ファシズム政権は手強い。民主党は、小さいコップの中の争いにこだわって「立憲民主」を求める国民の切なる願いと国民の生活・福祉を見殺しにするつもりなのか。この論考を民主党の政治屋どもに読ませたい!

朝日デジタル【インタビュー】 オポジション 野党を研究する政治学者・吉田徹さん  2015年11月6日05時00分

写真・図版
「勝者と敗者を常に入れ替えなければうまく機能しない。それが二大政党制です」=札幌市、恵原弘太郎撮影

  「野党はだらしない」。正直、もう言い飽きた。この決まり文句の先へ行かなければ「1強多弱」が続き、政治のダイナミズムは損なわれる。しかし、さて、どうすれば。もんもんとしていたらドアをたたく人あり。政治学者の吉田徹さん。英語で言い換えると見方が変わるかも、と言う。「野党」じゃなくて「オポジション」と。

 ――自民党「1強」という政治状況の中、野党のだらしなさばかりが目につきます。
  「野党がだらしないという決まり文句は、『野党』という言葉のせいもあるかもしれません」

 ――どういうことですか。
  「そもそも『野党』という言葉は、明治期に一般的になった『在野党』から派生したもので、権力にあずかっているか否かという『引き算』によって定義されている。日本では最初からマイナスイメージがついて回ります」
  「英語で野党は『オポジション』、原義は『対抗(勢力)』。能動的で、むしろ積極的な意味を持っています。英国の野党は『陛下の野党』と呼ばれ、有形無形の支援制度が優先的に割り当てられています。野党にげたを履かせて、与党との健全な競争を促さなければならない、なぜなら野党は、民主政治の維持と発展のために不可欠だからという思想が、広く社会に受け入れられているためです。翻って日本は、英国流の二大政党制を『輸入』しましたが、その制度を支える思想は根付かないまま。結果的にげたを履いているのは、長く政権を担ってきた『自然な与党』たる自民党です」

 ――ただ、野党がいくら反対しても法案は通る。対案も出さず、野党は国会で騒ぐだけという冷ややかな見方も広がっています。
  「野党の使命は、何よりも与党権力をチェックすることです。対案はその手段のひとつに過ぎず、絶対視すべきではありません
  「野党を通じて、多様な民意が政治の場にきちんと表現されることで、少数者の権利が守られたり、不満が『ガス抜き』されたりして、社会は安定する。逆に、与党が反対勢力からも幅広い合意を取り付けようと努めなければ、社会は不安定になります。与党は政策を遂行する権利を持ち、野党は耳を傾けてもらえる権利をもつ。民主政治がそのようなバランスの上に成り立っていることを、まずは理解する必要があります」

 ――野党を過大評価している印象を受けますが。
  「いえ、民主政治にはオポジションが重要だと言っているのであって、それが野党である必然性は必ずしもない。例えば、主要政党すべてが閣僚を出しているスイスでは、国民投票がオポジションとして機能するし、米国では司法がそうです。日本でもかつては自民党の派閥や、衆参の『ねじれ』などがオポジションの役割を果たしてきた。ところが今の安倍政権下では、そうした『オポジション力』が非常に弱まっています」
  「集団的自衛権の行使容認のために内閣法制局長官をかえる。『中立・公正』の名のもとにメディアを威圧する。権力にとって最強のオポジションであるはずの憲法をも軽視する。政治がある意味『ブラック企業』化しています
  「議論をしている暇などないから『右向け右』で全員が右を向く。それが最も合理的なのだ、と。政治や企業のトップだけでなく、大学を含めて、社会全体がそういう雰囲気になっている。今の政治もその表れです」
     ■     ■
 ――「決められない政治」が批判されたのはつい数年前。オポジションを排した政治は、民意の要求であるとも言えませんか。
  「短期的にはオポジションを排した方が『生産性』は上がるようにみえる。だけど長期的にみれば、持続可能性は減ります。ブラック企業がそうでしょう。民主主義は手間がかかりますが、だからこそ続いてきたのです」
  「組織や政策が行き詰まった時、全員が右を向いていたら方向転換できません。右を向かない人間を抱えて多様性を確保し、違う道を進めるようにしておくほうが集団は生き残れる。野党は、既存制度がダウンした時のバックアップシステムのようなものです」

 ――だからこそ野党は、与党との対立軸を描きだし、政策を競わねばならないということですね。
  「二大政党制を、与党と野党どちらがダンスがうまいかを競っているかのようなイメージで捉えるのは、間違いです。グローバル化と社会のフラット化が進んだこの時代にあっては、明確な対立軸を描き、世界観を競うような政党政治はもはや成り立ちません」  *この部分を民主党の「現実的」前阿原詐欺師の読ませたい!(もみ)
  「与党と野党はペアダンスを踊っているようなもの。相手がこうステップを踏んだらこっちはこう、相手が賛成なら反対、反対なら賛成と。2009年と12年の政権交代はいずれも、政権与党が信任されなかったから。有権者が民主党や自民党に政権を取らせたいと積極的に選択した結果ではありません。身もふたもない言い方をすれば、小選挙区制のもとでの政権交代は、与党の失墜があって起こるものなのです

 ――敵失なくば交代なし。確かに身もふたもないですね。しかし、安保法制で世論の反発を招いた安倍内閣の支持率はさほど下がっていません。なぜでしょう。
  「有権者の関心は、景気と社会保障に集中しています。そこでミスをおかさなければ、『致命傷』にはなりにくい。安倍内閣はそれをよくわかっています
  「タイムマネジメントと言葉づかいも、とても巧みです。安保法制のほとぼりをさますため、秋の臨時国会を開かない。取り得る最善の策です。そして『アベノミクス』『積極的平和主義』『一億総活躍社会』。言葉の意味はあいまいだけれども、とにかくポジティブ。無党派層からすると、それを批判する野党は、揚げ足取りをしているようにしか見えません。ノリの悪いやつだと、ね

 ――景気よく行こうぜ、と。
  「だからこそ、言わせっぱなしにしないために、国会審議が野党にとっては重要です。具体的な事例で相手を問いただし、答弁の矛盾をつき、言葉づかいの巧みさで押し切られがちな点をひとつずつピンで留めていく。誰が『正しい』かを決めるのが選挙で、何が『正しい』かを決めるのは国会です。決定と熟議。この両輪がきっちり回ってこその民主主義です」
     ■     ■
 ――今は討議の車輪の回りが非常に悪い。そのことへの不満が、人々をデモへと押し出したと。
  「デモというオポジションが当たり前になったのは歓迎すべきことです。ただ、野党がしっかり民意を転換できていれば、本来、主権者が時間と労力をかけてデモをやる必要はないはずです」
  「代表民主制はいわば民意の『風景画』を描くようなもの。画家が色を加えたり遠近感を演出したりして風景を再現するがごとく、民意を政治の場で表現するための翻訳力、意訳力こそが政党の底力です。民主党は、それを十分に理解していない。民意をそのまま代表するのでも、自分たちが正しいと思う政策を追求するだけでもいけない。選挙に勝った我々こそが民意とばかりに振る舞う自民党に対抗する意味でも、民主党は民意とコミュニケーションし、意訳する力をこそ磨くべきです

 ――デモでは「野党は共闘!」の声もあがっています。
  「国会の外から吹く『追い風』に、野党が帆をどう張れるのかが問われています。非自民ブロックが分裂している限り政権交代はないというのは過去2回の選挙の教訓です。『国民連合政府』の構想はその学習の結果のひとつでしょう。政治学者の阿部斉(1933~2004)が言ったように、政治とは『ありあわせの材料』で『まにあわせの解決』をすることです。どのような方策でも不満は残るでしょう。しかし、野党各党がそれぞれ生き残るための合理的選択をした結果、票を食い合うという不合理を生んでいる。この『合成の誤謬(ごびゅう)』を何とか乗り越えないと、自民党という『自然な与党』が君臨し続けます
     ■     ■
 ――「政権交代可能な二大政党制」を目指した政治制度改革の弊害は、予想以上に大きかった。見直すべきではないですか。
  「選択肢としてはあり得ますが、こっちの方が便利だとか新しいとか、百円ショップで買い物をするように制度をとっかえひっかえしていても、この国の民主主義はいつまでも成熟しません。政治とは結婚生活のようなもの。関わり、育て、折り合いをつける。その忍耐力がなければ使える制度も使えなくなります

 ――だらしない野党も、忍耐強く育ててしっかりさせろと。
  「野党は民意の尖兵(せんぺい)隊のようなもの。野党がだらしなく見えるのは、もしかしたら私たちが、自身の民意のありようを了解していないからかもしれません。どんな社会に生きたいか。どんな意思を政治に反映させたいか。それを考え、実現させるために、与党も野党もツールとして使いこなすのが主権者の使命です。ないものねだりも、観客でいることも許されない。それが民主主義ですから」   (聞き手 論説委員・高橋純子)
     *
 よしだとおる 75年生まれ。北海道大学教授。専門は欧州比較政治。著書に「感情の政治学」「ポピュリズムを考える」、編著に「野党とは何か」など。

150329 タガ外せば歯止め失う 長谷部恭男・早稲田大学教授/「未来志向」は現実逃避 杉田敦・法政大学教授

 杉田 先日ドイツのメルケル首相が来日しました。戦後ドイツも様々な問題を抱えていますが、過去への反省と謝罪という「建前」を大切にし続けることで、国際的に発言力を強めてきた経緯がある。「建前」がソフトパワーにつながることを安倍さんたちは理解しているのでしょうか。  / /長谷部 そもそも談話が扱っているのは、学問的な歴史の問題ではなく、人々の情念が絡まる記憶の問題です。記念碑や記念館、映画に結実するもので、証拠の有無や正確性をいくら詰めても、決着はつかない。厳密な歴史のレベルで、仮に日本側が中国や韓国の主張に反証できたとしても、問題はむしろこじれる。相手を論破して済む話ではないから、お互いがなんとか折り合いのつく範囲内に収めようと政治的な判断をした。それが河野談話です。  / /杉田 談話の方向性や近隣との外交について「未来志向」という言い方がよくされますが、意図はどうあれ、それが過去の軽視という「見かけ」をもってしまえば、負の効果は計り知れない。安倍さんたちは、未来を向いて過去を振り払えば、政治的な自由度が高まると思っているのかもしれません。しかし政治の存在意義は様々な制約を踏まえつつ、何とか解を見いだしていくところにあります。政治的な閉塞(へいそく)感が強まる中で、自らに課せられているタガを外そうという動きが出てくる。しかし、それで万事うまくいくというのは、一種の現実逃避では。  / /長谷部 合理的な自己拘束という概念が吹っ飛んでしまっている印象です。縛られることによってより力を発揮できることがある。俳句は5・7・5と型が決まっているからこそ発想力が鍛えられる。しかし安倍さんたちは選挙に勝った自分たちは何にも縛られない、「建前」も法律も憲法解釈もすべて操作できると考えているようです。  / /杉田 俳句は好きな字数でよめばいいのだと。  / /長谷部 あらゆるタガをはずせば、短期的には楽になるかもしれません。しかし、次に政権が交代したとき、自分たちが時の政府を踏みとどまらせる歯止めもなくなる。外国の要求を、憲法の拘束があるからと断ることもできない。最後の最後、ここぞという時のよりどころが失われてしまう。その怖さを、安倍さんたちは自覚すべきです。 =敬称略(構成・高橋純子)朝日新聞『考論』

0015 オルテガ「大衆の反逆 (桑名一博訳;久野収解説)」(白水社イデー選書;1930)評価5

以下は、オルテガ所論の久野収による抜粋の抜粋である:///  オルテガによれば、政治のなかで「共存」への意志を最強力に表明し、実行していく政治スタイルこそ、自由主義的デモクラシーである。共存は、強い多数者が弱い少数者に喜んで提供する自己主張、他者説得の権利である。敵、それも最も弱い敵とさえ、積極的に共存するという、ゆるがない決意である。/その意味で、人類の自然的傾向に逆行する深いパラドックス(逆説)であるから、共存を決意した人類が、困難に面してこの決意を投げ出すほうへ後退したとしても、それは大きな悲劇ではあっても、大きな不思議とするには当たらない。/「敵と共存し、反対者と共に政治をおこなう」という意志と制度に背を向ける国家と国民が、ますます多くなっていく1930年代、オルテガは、「均質」化された「大衆」人間の直接行動こそが、あらゆる支配権力をして、反対派を圧迫させ、消滅させていく動力になるのだという。なぜなら、「大衆」人間は、自分たちと異類の非大衆人間との共存を全然望んでいないからである。略。///  「大衆」人間は、自分たちの生存の容易さ、豊かさ,無限界さを疑わない実感をもち、自己肯定と自己満足の結果として、他人に耳を貸さず、自分の意見を疑わず、自閉的となって、他人の存在そのものを考慮しなくなってしまう。そして彼と彼の同類しかいないかのように振舞ってしまう。/彼らは、配慮も、内省も、手続きも、遠慮もなしに、「直接行動」の方式に従って、自分たちの低俗な画一的意見をだれかれの区別なく、押しつけて、しかも押しつけの自覚さえもっていない。/彼らは、未開人―未開人は宗教、タブー、伝統、習慣といった社会的法廷の従順な信者である―ではなく、まさに文明の洗礼を受けた野蛮人である。文明の生み出した余裕、すなわち、贅沢、快適、安全、便益の側面だけの継承者であり、正常な生存の様式から見れば、奇形としかいいようのないライフスタイルを営んでいる新人類である。略。///  「自分がしたいことをするためにこの世に生まれあわせて来た」とする傾向、だから「したいことは何でもできる」とする信仰は、自由主義の自由の裏面、義務と責任を免除してもらう自由にほかならない。/われわれは自由主義の生みだした、この「大衆」人間的自由、自己中心的自由に対し、他者と共存する義務と責任をもった自由を保全しなければならないが、一筋縄でいかないのは、この仕事である。(160626:イギリスEU離脱について思うところ=もみ=)