もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

150215 衆参両院の「テロ非難決議」を非難する!「テロの本質」を真面目に語る政治家はいないのか!

 真面目に「テロの本質」を考えれば、その原因が、決して宗教の違いにあるのではなく、世界的に広がる富の偏在、極端な格差拡大、差別構造の継承、及びパレスチナ問題、それらによる<若者たちの絶望>にあることは、実は誰もがわかっていることだろう! それを「世界には凶悪なテロリストが大勢いて、こいつらを叩き潰せばテロが無くなる」なんて話に無理やりすり替えている。誰も、「テロの本質が、日本・世界の社会構造が抱える富の偏在・格差の拡大及びパレスチナ問題の<野放し状態>にこそある」という本質を語らないし、見させようとしない。そして、凶悪なテロリストへの恐怖ばかりを煽りたてている。これはまさにオーウェルの「一九八四年」の世界と同じだ。今回の国会の「テロ非難決議」に社民党・共産党まで加わっていたのには、あきれ果てた。「誰も本質を見ようとしない。」「武力で世界中の<絶望した若者たち>を封じ込めるべきではないし、不可能だ!」

秋原葉月さん「Afternoon Cafe」ブログから

※(1)「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ」byヘルマン・ゲーリング ※(2)いつの時代も大衆をファシズムに煽動する手口は同じ。なのに同じ手口に何度も騙されるのは過去に学んでいないから。格差を広げ、セイフティネットを破壊し、冷徹な自己責任論が横行する社会を継続させるのは簡単だ。今よりもっと格差を広げ、セイフティネットを破壊する政策をとればよい。そうすれば人々に自己責任論がもっと浸透し、草の根から勝手に右傾化してくれる。

辺見庸さんのブログから

・権力をあまりに人格的にとらえるのはどうかとおもう。口にするのもおぞましいドブの目をしたあの男を、ヒステリックに名指しでののしれば、反権力的そぶりになるとかんがえるのは、ドブの目をしたあの男とあまり変わらない、低い知性のあらわれである。権力の空間は、じつのところ、非人格的なのだ。だからてごわい。中心はドブの目をしたあの男=安倍晋三であるかにみえて、そうではない。ドブの目をしたあの男はひとつの(倒錯的な)社会心理学的な表象ではありえても、それを斃せば事態が革命的に変化するようなシロモノではない。権力には固定的な中心はなく、かくじつに「われわれ」をふくむ周縁があるだけだ。ドブの目をしたあの男は、陋劣な知性とふるまいで「われわれ」をいらだたせ、怒らせるとともに、「われわれ」をして社会心理学的に(かれを)蔑視せしめ、またそのことにより、「われわれ」が「われわれ」であることに無意識に満足もさせているのかもしれない。ところで、「われわれ」の内面には、濃淡の差こそあれ、ドブの目をしたあの男の貧寒とした影が棲んでいるのだ。戦争は、むろん、そう遠くない。そう切実にかんじられるかどうか。いざ戦争がはじまったら、反戦運動が愛国運動化する公算が大である。そう切実に予感できるかどうか。研ぎすまされた感性がいる。せむしの侏儒との「ふるいつきあい」がベンヤミンのなにかを決定した。そう直観できたアレントほどするどくはなくても、研ぎすまされた感性がいる。けふコビトがきた。ミスドにいった。(2015/11/11)

151119 一年前:4 023 岡野雄一「ペコロスの母の玉手箱」(朝日新聞出版:2014) 感想5

2015年11月20日 00時52分17秒 | 一年前
4 023 岡野雄一「ペコロスの母の玉手箱」(朝日新聞出版:2014) 感想5
11月16日(日):191ページ  所要時間 2:35    図書館著者64歳(1950生まれ)。本書は、俺にとって評価を超えた存在だ。読んでいて何度も涙ぐみ、幸せ...


151118 映画「野火 (原作 大岡昇平 1951)」(市川崑監督:1959) 感想4

2015年11月18日 23時21分27秒 | 映画・映像
11月18日(水):      

今日放送のNHK-BSの録画を観た。1:45。白黒作品。

  56年前の1959年は、まだ戦後14年である。作品としては、白黒映像が貧乏臭く、リアルさに少し欠けたが、出演者が皆ガリガリに痩せていたのは制作陣の映画に対する思いの深さを感じさせた。この映画を製作してる人々は、ほぼ全員戦争経験者である。その意味での意義深さはあるはずである。楽しい作品ではない。実感は感想3+だが、それでは申し訳ないし、感想5はつけられない。感想4は、そんな感じで付けた。

  内容は比較的原作に忠実だったが、決定的に違う部分も結構あった。それが原作に比べると映画の印象を弱めているように思った。1959年当時は、その当時の表現上の規制があったのだろう、と思う。例えば、以下の点だ。
・主人公が死んだ兵士の血を吸った山ビルの血をすすって間接的に人肉食をしてしまうシーンがなかった。
・念仏を唱える狂人の将校は、原作に登場したか…?、しなかったような気がする。
・人肉食を自分の意志でやろうとして、右手に軍刀をかざした時、左手が勝手に右手首を持って、人肉食を止めたシーンがなかった。ここは、原作では相当印象的なシーンなので、ないと物足りない。
・死の寸前に永松に助けられて、猿の肉(実は人肉)を与えられ、それを食べることで元気を回復するシーンがなかった。要するに映画の中では、主人公は人肉食をしないで終わった。
・原作では、フィリピンのゲリラにつかまり大けがをするが、捕虜となり日本に変えるが、映画では戦場で死んだ?形で終わっている。

原作については「4 012 大岡昇平「野火」(新潮文庫;1951)感想 特5」を読んで下さい。

ストーリー紹介(いくらおにぎりブログ 様から):
  レイテ島を彷徨う敗残の日本兵たち。田村一等兵は、部隊から追い出され、病院にも入れてもらえないまま、一人で行動するのですが、やがて「猿」の肉で食いつないでいる兵隊たちと再会し……
  亡くなった船越英二の「代表作」と言えば、この映画。大映東京の中堅どころとして、若尾文子主演の映画などで、名バイプレイヤーぶりを発揮した船越英二ですが、この映画ではまさに鬼気迫る演技を見せていました。
  「バカやろう。帰れといわれて帰ってくるヤツがあるか」と分隊長に殴られている兵隊。どことなく焦点の合わない目つきで、無感動なこの兵隊は田村一等兵(船越英二)です。レイテ島の日本軍は軍とは名ばかり、ただ食いつなぐために、芋を掘り、その日その日の食べるものにも窮している流浪の集団なのです。
  そして田村一等兵は肺浸潤のため、芋ほり作業などの重労働ができない体。ですから、原隊からは体よく追っ払われ、また病院でも邪魔にされる立場なのです。
  もう帰ってくるな、病院に入れてもらうまで、ひたすら粘るんだ。それがダメなら、その手榴弾で……と分隊長に脅かされた田村は、無感動に「田村一等兵、これよりただちに病院に赴き、入院を許可されない場合は自決いたします」と言って、トボトボと病院への道を歩き出すのでした。
  雑嚢に入った手榴弾一個と、わずかばかりのヒョロヒョロの芋が、田村の持ち物。そんな田村は、ようやくのことで病院につくことができました。もちろん、軍医は食糧を自弁できる者、もっと言えば、自分たちにも食糧を渡すことのできる者しか入院させようとはしないので、自然と病院の前の林には、入院を許可されず、さりとて原隊にも帰れない者たちがたむろしており、田村は自然と、その仲間になったのです。
  林にいたのは、おっさんと呼ばれる安田(滝沢修)、永松(ミッキー・カーチス)、松村(佐野浅夫)など、いずれも棺おけに片脚を突っ込んだような廃兵ばかり。彼らは、あるいはタバコと食糧を交換したり、あるいは病院に忍び込んで芋を盗んだりと、どうにかこうにか、命を繋いでいるのです。
  ある日、病院が爆撃されました。まず第一に逃げ出したのは食糧事情のいい軍医や衛生兵たち。次に林の兵隊たちも散り散りばらばらに逃げ出します。もちろん入院患者たちや、残っている食料をあさろうと病院に潜り込んだ松村などは、一緒くたに病院ごと爆発して死んでいくのです。
  どこをどう逃げたのか、気づくと一人になっていた田村。湧き水を見つけると、ゴクゴクと飲み干し、水筒に水を詰めます。
  「俺は死ねと言われたんだ。自分でもそのつもりだ。そんなら何故逃げるんだ。水筒に水なんか入れる必要はないだろ」と、手榴弾を取り出し、笑い始めます。ふと横を見ると、大勢の日本兵が倒れています。「お前らの中には、まだ生きている奴もいるだろ。だけど、俺は助けに行かないぜ。俺だってすぐ死ぬんだ。おあいこだよ」
  <幾日かがあり、幾夜かがあった>
  河原で眠りからさめた田村。川に足をつけると気持ちが良さそうです。おや何でしょう、遠くの高い塔がキラキラ光っています。「村があるんだ。村の教会の十字架に違いない。俺は見つかったら殺されるのに決まっているのに、何故あそこへ行きたいんだろう」と自問自答しながらも、重い足を引きずるように歩き出す田村です。
  田村は村に着きました。しかし、村には人っ子一人いません。いるのは腹をすかせた野犬とカラスばかり。教会に着きます。「これが俺の見た十字架か」と嘆息する田村、しかし、遠くから見たときには、あれほどキラキラ輝いていた十字架も、近くで見ると薄汚れ、そして、教会の入り口には日本兵の死体がうずたかく積まれて腐っているのです。どうやら、原住民に殺されたらしい日本兵たち。しかし、相次ぐ日本兵の侵入に、村人は村を捨てて、何処へか去ったのでしょう。
  歌が聞こえてきました。女の声です。見れば、ボートに乗った男女の原住民が、海からあがって村の方へ手をつないで走ってくるではありませんか。銃を構え、さっと身を隠す田村。男女は一軒の小屋に入りました。田村がそっと覗くと、二人は床板をはがし、何かを取り出しているようです。
  銃を突きつけながら「マガンダーハポン」と言う田村。女が悲鳴を上げ始めました。ためらわずに女を撃つ田村。男はきびすを返して逃げ出します。追いかけ、銃を撃つ田村。しかし、弾丸は当たらず、男はボートに乗って逃げ去ってしまいました。
  女の元に戻る田村。女は虫の息のようです。それをじっと見つめる田村。おやっ。ふと気づくと、床下には、大量の塩が隠されていました。もう女にはすっかり興味を無くしたように、邪険に転がし、塩を雑嚢に詰め始める田村。田村は途中で、銃を川に投げ捨て、どこへともなく歩いていくのです。
  何日が経ったのでしょう。田村は、丘にうごめく人影を見つけました。「日本兵だ」と喜んで近づいていく田村。そこには班長(稲葉義男)を中心に、3人の日本兵がいたのです。斬り込み隊の生き残りという班長たちに同行を申し出る田村。「俺たちはニューギニアじゃ人間まで喰って苦労してきた兵隊だ。一緒に来るのはいいが、まごまごすると喰っちまうぞ」と迷惑そうな表情だった班長ですが、田村が塩を持っているのを知ると、態度を一変させるのでした。舐めさせろ、と塩を貰った3人。ひとりの兵などは、「うまい」と涙を流しています。
  4人が少し歩くと、焼け跡がありました、「狼煙のあとだ」と怯える田村。しかし班長は「ビックリさすない。ただの野火じゃねえか」と言うのです。これは重要な違いです。狼煙だとしたら、原住民が米軍に日本兵の存在を知らせる危険なもの。しかし野火であれば、そこでは農民たちがトウモロコシの殻を焼き、来年の収穫に備えている、いわば「平和」や「生活」を象徴しているのですから。
  日本軍の集結地であるパロンポンを目指す一行。街道を歩くと、そこかしこから幽鬼のような日本兵たちが、ひとり、またひとりと現われ、ゾロゾロと歩いていきます。たまにプロペラ音がすると、それは米軍の飛行機。日本兵たちは棒切れのように、その場に倒れ、機銃の銃撃がミシンのように街道を縫っていきます。そして飛行機が去ると、いく分か数を減じた日本兵が、再び立ち上がり、またヨロヨロと歩いていくのです。
  「いやあ田村、まだ生きていたのか」と声をかけてきたのは、病院前の林で一緒だった永松です。永松は歩けない安田に代わって、街道でタバコと食糧を物々交換して、どうにか生きているのでした。とはいえ、タバコの葉を持っているのは安田なので、ほとんど召使のようなものですが。
  「早くパロンボンに行った方が勝ちだぜ」と忠告する田村に、しかし、永松は「安田はパロンボンに行く気はねえんだ。米さんに会い次第、手をあげるつもりだ」と言い、自分も降伏する気である事を匂わすのでした。
  途中で、街道を越えようとして班長たち仲間を失ったり、白旗をあげて降伏しようとしたところ、先に降伏した兵士が、そのまま撃ち殺されるのを見たりしつつ、ただただ歩いていく田村。再び、一人になって彷徨したあげく、またも永松と出会いました。永松は親切に、水をくれ、猿の干し肉までくれるのです。「弾丸(たま)あるのかい」「ああ、大事に使っているからな」「お前、俺を猿と間違えたんじゃないのかい」「まさか」。そんな会話を交わしつつ、安田とも合流して久しぶりに3人が顔を合わせました。
  安田はなぜか熱心に猿の干し肉を田村に食べさせようとしますが、田村はすっかり歯が悪くなって、干し肉を食うことができません。しかし「本人がいいって言ってるんだ。無理に食わすことねえや」という永松に、安田は「バカ、ここに来やがったからには、食わねえとは言わさねえぞ」と、血相を変えて怒り出すのです。
  永松は、粗末な食事を終えたあと、自分のねぐらに田村を誘います。すでに、永松は安田のことを全く信用していないので、寝ている間に大事な銃を取られることを恐れているようなのです。そして、田村が後生大事に抱えてきた手榴弾も、決して安田に見せてはならないと言うのでした。
  しかし、ある日のこと、田村は、言葉巧みに言いくるめられ、安田に手榴弾を取られてしまいました。田村が「返せよ」と言うと、安田はもの凄い顔で銃剣を突きつけて来ます。諦めて「やるよ」と言うと、ニンマリ笑って、そうこなくちゃいけねえ、それにしても永松は最近生意気だ、と猿撃ちに出かけている永松を罵り始める安田です。
  と、その時、銃声が響きました。「やった」と嬉しそうな安田。田村は顔を引きつらせながら走っていきます。すると、目に飛び込んだのは、永松が必死に逃げていく日本兵を銃で狙っている姿だったのです。
  「見たか?」
 「見た」
 「猿を逃がした。今度、いつまた見つかるか分からねえ」
 「猿がお前の目の前にいる」
  しかし、永松は田村を撃ちませんでした。もちろん、最初は、田村が持っていると思った手榴弾を恐れたからですが、むしろ安田をやっつける仲間として選んだのです。
  まずは、物音を立てて、安田に手榴弾を使わせてから、やっつける、という簡単な計画を立てる永松。案の定、安田は手榴弾を投げつけてきて、武器は無くなりました。しかし、歩けないはずの安田は、そのままジャングルに逃げ込んでいったのです。
  しかし、水が無ければ人は生きられません。安田は必ず水場に戻ってくるはずです。そのまま、水場を見渡せる場所に隠れる二人。そして三日が経ちました。何も安田をやらなくても、このままパロンポンに行こうと言う田村に、「安田をやって食糧を作ってから、米さんのところに行こうじゃねえか」と答える永松です。
  と、はるかかなたに煙が一筋立ち昇りました。「狼煙か」と怯える永松に、「いや、野火だ。トウモロコシの殻を焼く煙だそうだ。俺はあそこに行こう」と答える田村。そこに、「おーい」と安田の声が聞こえてきました。仲直りをしよう、と姿を見せる安田。しかし、永松はためらわずに引き金を引いたのです。倒れた安田に駆け寄り、銃剣でバラシはじめる永松。田村は、永松の置いていった銃を手に取り、永松を撃ち殺すのです。
  銃を捨て、手をあげてフラフラと歩き出す田村。
  「あの野火の下には農夫がいる。あそこへ行くのは危険なのは分かっている。でも俺は普通の暮らしをしたい」
どこからか、田村を狙って銃弾が飛んできます。かまわずに歩き続ける田村。そして田村はガックリとレイテの大地に倒れ伏すのでした。

  まるで田村は死んでしまったような終わり方です。しかし、原作は、捕虜として敗戦を迎え、今は精神病院に入っている田村の手記という形を取っています。
  他にも原作と違うところは、原作では田村は「猿」の肉を食っていましたが、映画では、歯が悪いという理由で食っていません。
  もちろん、この映画も、原作も「人肉嗜食」を大きなテーマとしている点に変わりはありませんが、「食べたか」、「食べないか」の扱いの違いから、微妙にスタンスが違っているようです。つまり、原作では、(薄々そうと知りながら)あくまで猿の干し肉という名目であれば食べられるが、あえて殺してまで食べるのはいけないんじゃないかと、田村は感じているようです。しかし映画の方は、もっと根源的なタブーとして、そして生理的な嫌悪感として、あくまで田村は人肉を食べられないようなのです。
  ここに、実際にフィリピン戦線で捕虜になった原作者の大岡昇平と市川崑監督の違い。そして作られた時代の違いが現われているように思えます。
  つまり、大岡昇平にとって、そしてまだ戦争が生々しい時代には、人肉を口に入れてしまうことじたい、どこか「やむを得なかった」という意識があったのではないでしょうか。
  しかし、市川崑監督にとって、そして戦争が少し遠くなった時代においては、それはとても「気持ちの悪い」できごとだったのでしょう。
とは言え、南方戦線から命からがら帰ってきた兵士たちを断罪することもできない話です。だったら死ねば良かったのか、と問われて、そうだ、と答えることのできる人間は、日本のどこにもいないのですから。
  そんな躊躇せざるを得ない気分というか、遠慮が、この映画を少し歯切れの悪いものにしてしまったようです。
  そうはいっても、減量をして臨んだという船越英二の演技は、まさに賞賛に値すると思います。「読む」ことによって伝わるものと、「見る」ことによって伝わるものの違いというか、まさしく、ここレイテの大地に一人の彷徨して苦吟する日本兵がいる、というのを「姿」として見せてくれた船越英二には、本当に圧倒されました。

151118 沖縄がパレスチナに思えてきた!政府が翁長知事(=沖縄県民143万人)を提訴したのは倒錯の極致!

2015年11月18日 18時40分02秒 | 沖縄と共に生きる
11月18日(水):

 政府が辺野古埋め立て承認取り消しの撤回を拒否した翁長雄志沖縄県知事を提訴したそうだ。沖縄県の人口は143万人であり、翁長知事は沖縄県民の意志の代表者である。翁長知事を国が提訴したということは、沖縄県民との話し合いを政府が拒否して県民143万人の意志を踏みにじり、<被告>として裁判所に訴えたことを意味する。 政府は誰のためにあるのか。政府は何のためにあるのか。そも143万人の国民(沖縄県民)を侮辱し、その意志を踏みにじって護らねばならない如何なる国家の利益があるというのか!? 

 沖縄の近代史を振り返れば、琉球処分、方言札の同化政策、本土の捨て石とされた沖縄戦、多くの住民の死、1952年の本土独立後の「銃剣とブルドーザー」による米軍基地のしわ寄せの加速、1972年の日本復帰後も残り続ける米軍基地問題など目を背けてはいけない歴史がある。

 これらの背景に佐藤優氏の指摘する<構造化された差別意識>が横たわる。見ようとすれば、確実に見えるはずなのに本土の人間は目を背け続けている。本来、政府は沖縄差別を人権問題として国民に広報・改善すべき立場にあるのに、今の安倍自公政権をはじめとしてこれまでの自民党や民主党右派(野田・前原・細野)は同じように知らぬふりをしてきた。

 しかし、今回の提訴ばかりは常軌を逸しているとしか言えない。見えない<構造化された差別意識>を指摘して解決を図るどころか、その沖縄に対する差別意識を利用して「沖縄県民が、身勝手な反対運動をしている」と印象付ける形で裁判所に提訴しているのだ。そこには沖縄の人々の思いや言い分を汲み取ろうというひとかけらの意志も存在しない。恥知らずにもほどがある。

 143万人の沖縄県民を「政府に従わない愚かで身勝手な輩(やから)」として提訴し、<被告>にしてしまったのだ。歴史的に見ても、現状のひどさからみても沖縄県民の意志を代弁する翁長知事の辺野古移設反対の訴えの方が条理にかなっている。それに対して、現政府が堂々と不条理・不正義を押し通そうとする姿は異常である。一体、自民党・公明党は日本をどこに連れて行こうとしてるのか。独裁国家の地獄に連れて行こうとしている、としか考えられない。

 また、143万人の無辜の国民(沖縄県民)を被告としてしまう自公政府による独裁政治の「原因が米軍基地問題である」以上、我々は「アメリカ帝国の責任」にも目を向けざるを得ない。我々の同胞たる沖縄県民を植民地の2等市民のように扱かおうとする独裁政府を放置しているアメリカに対する印象は確実に悪くなっている。

 俺には、最近沖縄県民が、パレスチナのアラブの人々のように思えてきている。日本の中にも実は<パレスチナ問題>があるのだ。イスラエルはもちろん本土の安倍晋三自民・公明政権である。安倍自公を支えるのがアメリカだというのも妙に符合する。 米軍基地問題を放置して、知らぬ顔をするアメリカを俺は許せない。アメリカは、沖縄の米軍基地問題を通して<日本人の反米意識>が強くなることを自覚して恐れるべきだろう。

朝日新聞【素粒子】11月18日夕刊
・ある時は私人のふりをして今度は居丈高の国として。政権が知事を訴える。沖縄はこの国ではないかのように。
・1億は総活躍、五輪には国民総参加。「総」の字がよほどのお気に入り。入場行進が兵隊のパレードに思えてきて。

朝日デジタル【天声人語】辺野古、「法廷闘争」へ   2015年11月18日
 後になってから、あれが一里塚だったと気づかされる出来事がある。1996年の衆院予算委員会で菅直人氏が質問した。憲法65条に「行政権は、内閣に属する」とあるが、ここに自治体の行政権は含まれるのか、と。新たな論点の提起だった▼当時の内閣法制局長官は、含まれないという趣旨の答弁をした。菅氏はこれを受け、「自治体においても独自の行政権が認められる、という考え方は大変重要だ」と念押しするように述べた▼3年後、東京都知事だった石原慎太郎氏はこの答弁を、中央集権の崩壊という「時代の流れ」をとらえて極めて妥当、と称賛した。国と自治体の関係を「上下、主従」から「対等、協力」へ切り替える。後に地方分権改革の一里塚とも評された答弁だ▼時代の流れは沖縄県にだけは及んでいないのか。米軍普天間飛行場の辺野古移設をめぐり、政権が翁長雄志(おながたけし)知事を提訴した。辺野古埋め立ての承認取り消しを、知事に代わって撤回する「代執行」の手続きを進めるためだ▼政権は既に別の方法で埋め立ての本体工事に着手している。行政不服審査制度だ。「私人」を救済するための仕組みを、国の機関が私人に「なりすます」格好で使う。制度の乱用だとの批判が出たのは当然だろう▼そんなやり方で工事を進めながら、知事の権限自体を奪うための「法廷闘争」へ。いまや自治体が「地方政府」と呼ばれることも珍しくないのに、沖縄だけを国との「主従」の関係に置き去りにしていいはずはない。

朝日デジタル【社説】政権、沖縄知事を提訴 「第三の道」を探るとき  2015年11月18日(水)付
  沖縄県の米軍普天間飛行場の辺野古移設をめぐり、安倍政権と県が法廷闘争に入った。
  政府は、辺野古埋め立ての承認取り消しを撤回するよう県に指示したが、翁長雄志知事が拒否。そこで福岡高裁那覇支部に知事を提訴したのだ。
  1年前の知事選など一連の選挙で反対派が勝利し、辺野古移設拒否の民意は明白である。そこから目をそらし、強引に移設を進めれば、沖縄県民に、日本国民に分断を生む。
  沖縄の声になぜ耳を傾けないのか。不毛な政治のありようと言うほかない。

■二者択一を超える
  改めて考える。辺野古移設は安全保障上、唯一の選択肢か。
  答えは、否である。
  政府は「辺野古が唯一の選択肢だ」と繰り返す。だが実際には、辺野古しかないという安全保障上の理由はない。むしろ、米国との再調整や、関係自治体や住民との話し合いなど、代替策の検討に入った場合に生じる政治的な軋轢(あつれき)を避けようとする色彩が濃い。
  辺野古移設か、普天間の固定化か――。その二者択一を超えて、政府と沖縄、そして米国が納得しうる「第三の道」を探るべきときだ。
  まず大事なのは、軍事技術の進展や安全保障環境の変化に応じて、日本を含む西太平洋地域全体の安保戦略を描き直すことだ。米軍と自衛隊の役割・任務・能力を再検討しながら抑止力をどう維持、強化していくか。そのなかで、沖縄の基地をどう位置づけるかを日米両政府が議論する必要がある。
  たとえば、知日派の米ハーバード大のジョセフ・ナイ教授は「中国の弾道ミサイルの発達で沖縄の米軍基地は脆弱(ぜいじゃく)になった」と指摘している。中国に近い沖縄に米軍基地を集中させる発想は、かえって危ういという意見だ。
  すでに米海兵隊は、ハワイやグアム、豪州、フィリピンへの巡回配備で対応を進めている。南シナ海での中国の海洋進出への対応を重視するなら、フィリピンなどに代替施設を造る選択肢もあり得るだろう。

■負担を分かち合う
  そうした再検討のなかで、日本全体で安全保障の負担を分かち合うことも、いっそう真剣に検討する必要がある。
  政府はこれまで、沖縄県外への機能移転を具体的に検討してきた。普天間の空中給油機部隊は岩国基地(山口県)に移ったし、新型輸送機オスプレイの佐賀空港への暫定移駐案が浮かんだこともある。
  航続距離の長いオスプレイが、いつも沖縄にいる必然性はない。現実に訓練は本土でも行われている。
  辺野古の代替施設が絶対に必要だとも言えない。横須賀基地(神奈川県)や三沢基地(青森県)の米海空軍を増強することにより、日本全体の抑止力が高まり、在沖縄海兵隊の削減につながるという指摘もある。
  2011年には米上院のマケイン議員らが、沖縄・嘉手納基地の空軍の戦闘機部隊を三沢基地などに分散したうえで、普天間の海兵隊を嘉手納に移す案を示したことがある。
  その後、仲井真弘多(ひろかず)前知事が辺野古の埋め立てを承認したため立ち消えになったが、日本全体や周辺を見渡せば、対案の組み合わせはほかにも考え得るだろう。当面は普天間の平時の運用停止を急ぎ、その代わり有事の際の使用は認める案もある。

■日本が決める問題
  国土の0・6%の沖縄に、全国の73・8%もの米軍専用施設を押しつける異常事態を正すためにも、この際、日本政府として辺野古移設を白紙に戻す決断を求めたい。
  そのことこそ、より説得力をもって「日本全体での負担の分担」を自治体や住民に働きかける力になるはずだ。
  いまは「辺野古移設を支持する」と繰り返す米国の政策も、不変とは限らない。
  来年11月に選ばれる米国の次期大統領が、違う選択肢を探る可能性もある。
  実際、米国の駐日大使経験者からは柔軟な見方が相次ぐ。
  19年前、橋本龍太郎首相と普天間返還を発表したモンデール氏は最近、沖縄の基地について「これは日本で決めるべき、日本の問題だ」と語った。前任のアマコスト氏も辺野古移設について「コストと便益を考えると見合わない。海兵隊基地の戦略的価値はどれほどあるのか」と疑問を投げかけている。
  日本政府が辺野古に固執し続ければ、沖縄の民意はますます硬化し、結局、普天間の固定化による危険が続く可能性が大きい。周辺住民に支持されない基地に安定的な運用は望めず、長期的に見れば、日本の安保環境を損ねかねない。
  まさに悪循環である。
  辺野古をめぐる法廷闘争は、むしろ基地問題の解決を遠ざける。日米の政治の構想力と実行力が問われている。

151116 一年前:141116「戦略的互恵関係」って言葉を使うな!/片山さつきの自民党にだけは絶対投票しない

2015年11月17日 01時38分42秒 | 一年前
11月16日(月):
◎今、俺が政治に望んでいること本当は、軽重を付けられないのだが、あえてすれば、
(1)第一課題 (2)第二課題
141116 「戦略的互恵関係」って言葉を使うな!/総選挙で「片山さつきの自民党にだけは絶対投票しない!」
11月16日(日):つれづれに思うこと。  この言葉は、明らかに間違っている。片山さつきのいる自民党は絶対信用できない。  憲法第25条) すべての国民は、健康で文化的な最低...

151116 リテラ:佐藤優も警告! 安倍政権と安保法制が国内にイスラム過激派テロを呼び寄せる

2015年11月17日 01時30分01秒 | 考える資料
11月16日(月):     

リテラパリのテロは日本も標的だった? 佐藤優も警告! 安倍政権と安保法制が国内にイスラム過激派テロを呼び寄せる  2015.11.15. 
  パリで発生した同時多発テロはやはりISの犯行だったようだ。日本時間14日夜、ISが犯行声明を発表、AFP通信は、劇場を襲撃した容疑者の一人が「オランド大統領のせいだ。シリアに手を出すべきではなかった」と叫んでいたという目撃者の証言を報じた。
  フランス軍は2014年からイラクでISへの空爆を行っており、今年9月27日には、はじめてシリア領内でISに空爆を実施していた。ようするに、今回のテロはこうしたシリア内戦へのISの報復だということだろう。
  しかもここにきて、今回の同時多発テロの標的に、日本も入っていた可能性が浮上している。昨日、本サイトではいち早く報道したが、日本食料理店が銃撃を受けていたことが明らかになったのだ。この件はフランスのフィガロやイギリスのデイリーテレグラフなどでも報じられ、かなり確度の高い情報と思われる。
  昨日は日本食料理店への銃撃情報自体を「デマだ」と攻撃していたネットの安倍親衛隊たちは、こうした報道に今度は「なんでもかんでも安倍さんのせいにするな」「たまたま一帯の食い物屋が狙われただけ」と、躍起になってテロと安倍政権の関係を否定している。だが、本当に日本は今回のテロと無関係なのだろうか。
  ISは今年1月、後藤健二さん、湯川遥菜さんの日本人2名を殺害した際、ビデオで安倍晋三首相を名指しし「勝ち目のない戦争に参加するというお前の無謀な決断のために、このナイフは後藤を殺すだけでなくお前の国民がどこにいようとも虐殺をもたらすだろう。日本の悪夢を今始めよう」と恫喝した。続けて、ISの機関誌「ダービク」電子版も2月13日に「安倍による思慮のない支援表明後は、すべての日本人と日本の施設が標的になった」とし、日本をもテロ攻撃の標的とすることを宣言している。今回の日本食料理店銃撃がこうした宣言を行動に移した結果である可能性は否定しきれないだろう。
  しかも、今回のテロがどうであれ、パリ同時多発テロはけっして安倍親衛隊が言うような日本と無関係なできごとではない。
  安保法制が強行採決されて自衛隊の中東派兵が現実味を帯びてきたことで、日本もこれから、ISなどイスラム過激派のテロの標的になるのは確実だからだ。それも海外の邦人にとどまらず、これからは日本国内で起きる可能性がある。
  実際、あの元外務省分析官の佐藤優も池上彰との対談本『新・戦争論 僕らのインテリジェンスの磨き方』(文春新書)のなかで、イスラム過激派に関する国内テロについて、以下のように指摘している。
  〈佐藤 (前略)日本で極端な思想をもつ人たちの受け皿が、かつてのような左翼過激派ではなく、イスラム主義になる可能性は十分にある。集団的自衛権で日本が中東に出て行った場合、向こうからすれば、イスラム世界への侵略だということになるわけだから、それに対する防衛ジハードとして、日本国内でテロが始まり得る。〉
  この言葉を受けて池上は、「イスラム国の兵士の約4割が外国人、国籍は70か国以上」という問題を取り上げ、〈こうなると、二〇二〇年の東京オリンピック開催時の治安対策も、これまで以上に難しくなるかもしれません〉と答えているが、2020年というのは甘いかもしれない。
  『イスラム聖戦テロの脅威 日本はジハード主義と闘えるのか』(松本光弘/講談社+α新書)によれば、〈テロリストは行動を通じて、世界と交信しようとしている。望むのは、「反応」を誘い出すことだ〉という。そのうえで著者は、〈(政府は)テロに対して強力、迅速に反応せざるを得ない。その反応がテロリストの味方コミュニティには、テロ・グループの存在と力の証明と映る〉と解説する。
  事実、2005年にイギリス・ロンドンで起こった同時爆破テロにしても、発生日がG8サミット開催の当日であり、前日には2012年オリンピック招致が決まっていた。そのことを考えると、国際的な注目度が高く、厳戒態勢を敷くなかでテロを起こすことは“力の証明”になり得る。
  そう考えると、やはり、安保法制によってISの敵国・アメリカとの同盟関係をさらに顕示した日本が、次なるテロのターゲットとなる可能性は極めて高い。2020年の東京オリンピックはもちろん、来年の伊勢志摩サミットなどもまた、テロリストにとって好ましい「反応」を引き出す、格好の舞台となるだろう。
  多くの専門家もまた、ISによる邦人人質殺害事件以降、高まる国内テロの可能性について語っている。たとえば「SAPIO」(小学館)15年3月号の記事「アメリカのイラク戦争が生んだモンスター「イスラム国」は東京の駅・空港を狙う」では、危機管理論が専門の大泉光一・青森中央学院大学教授が、国内テロについてこう警告する。
  「重火器の調達が難しいのでテロは起こしづらいという見方もあるが、日本で一般に入手できる薬物や黒色火薬で化学兵器・爆発物などを製造するのは十分可能。さらに、テロリストに国籍は関係ない。日本人や白人の若者がイスラム国に同調・加担する可能性を見るべき。そうした人物は日本国内にもいるし、海外から入国するのも容易い」(「SAPIO」3月号より)
  同様に、「週刊ポスト」(小学館)3月6日号の記事「在日米軍と考案が警戒する「東京テロ」の“本命ターゲット”」では、軍事ジャーナリストの黒井文太郎氏が現代テロリズムの手法についてこのように語っている。
  「現在、テロの主流となりつつあるのが『ローンウルフ(一匹狼)・テロ』です。テロ組織を支持・信奉する個人や小人数の仲間内だけで計画。“本体”の組織とは接触せず、独自の判断でテロを実行する。また海外の過激思想に共鳴した国内出身者が起こすテロを『ホーム・グロウン・テロ』と呼びますが、最近はこの2つの特徴を併せ持ったケースが急増している」
  「ローンウルフ型のテロリストはどこの国にもいます。通り魔犯的な犯罪者予備軍などがイスラム過激思想に感化され、テロリストに転じるケースも増える可能性がある」
  ようするに、テロを行う側の技術的・人材的ハードルは、一般的に思われているよりもはるかに低いのだ。こうした現代テロ事情を踏まえても、やはり、次は日本でテロ事件が発生するのは時間の問題のように思える。しかも、状況によってはあの福島原発事故レベルの被害を、人為的に起こすことすら可能なのである。また、今年6月、東海道新幹線で男が車内に灯油を撒き焼身自殺し、女性1人が死亡した事件が示したように、爆破物による新幹線テロも十分に現実的なシナリオだろう。
  いずれにしても、こうした危険性を飛躍的に増大させたのが、安倍政権の集団的自衛権と安保法制であることは間違いない。これは陰謀論でもなんでもなく、プラグマティックな外交戦術としても、安倍外交は明らかに時代遅れなのだ。
  中東を専門とする国際政治学者で、イスラム国人質事件の際の的確な分析・論評が注目を集めた内藤正典・同志社大学大学院教授も『イスラム戦争 中東崩壊と欧米の敗北』(集英社新書)で、まず、軍事力の行使や誇示は、対テロ戦争には役にも立たないどころか、さらなる危険を引き寄せるだけだと指摘している。
  〈日本にとっても、イスラム戦争は他人事でも、遠くの出来事でもありません。国内では安倍政権が集団的自衛権を容認し、その行使を主張しています。中東・イスラム世界で想定されるのは、アメリカが自国に対するテロの脅威があるという理由で集団的自衛権の行使を同盟国に呼びかけ、日本もそれに呼応して派兵するケースでしょう。東アジアでアメリカに守ってもらうのだから、中東で恩返しをしなくては──もしそのような発想があるならば、日本にとってだけでなく世界にとって途方もない危険をもたらすことになるのです〉
  〈日本で集団的自衛権の行使が議論され、海外への派兵の条件を緩和しようとしているさなか、世界の方が変わってしまったことに注意を向けなければなりません。日本が憲法にしばられて、自衛隊の海外派兵を躊躇している間に、軍事力の行使ではおよそ問題が解決しない方向に変わっていたのです。
  特に、イスラム世界で起きている現在の混乱において、軍事力の行使は、紛争解決に貢献しません〉
  〈非対称の戦争では、いったい、誰に向かって宣戦布告をし、誰が降伏文書に調印するというのでしょう。アルカイダを相手にしているときは、象徴的にビン・ラディンが宣戦布告の相手だったように見えます。しかしいまや、何人もの相手がいます。アルカイダのアイマン・ザワヒリも、タリバンのムッラー・オマルも、イスラム国のバグダーディもそうです。一人を殺害しても、また次が出てきます。しかも世界中から〉
  では、いったい日本はどういう道をとるべきなのか。内藤氏が挙げるのは〈フィリピン政府と南部ミンダナオ島などを拠点とするムスリムの武装組織であるモロ・イスラム解放戦線とが和平への包括的合意に達した〉例だ。
  2011年、両者の仲介を行ったのは日本政府で、JICA(国際協力機構)の緒方貞子氏やNGOが協力。〈少なくとも、武力とは無縁の国際協力が平和構築に有効であることを示しました〉という。
  〈アフガニスタンのタリバンでさえ、日本が軍を派遣しなかったことを理由に挙げて、和解のための会議に来ました。同じなのです。武力で強そうに見せることで、日米同盟の絆の強さをアピールすることと、武力は使わないと宣言して、対立している勢力の間に立って信頼醸成につとめ、平和構築に向かわせることと、どちらが現実的でしょう。日本人をグローバル化したいのであれば、世界の状況に謙虚に向き合うべきです〉
  だが、安倍政権は全く逆の方向を向いている。世界に向かって武力を誇示し、さらにテロを誘発するような外交戦略に次々打って出ているのだ。もしかすると、安倍政権はむしろ「テロ」を積極的に招き入れ、それを奇貨に、「緊急事態条項」を軸にした改憲世論を盛り上げるというシナリオを持っているのではないか。そんな陰謀論めいた不安さえ頭をもたげてくる。
  前出の内藤氏は同書の中で〈戦争が犠牲者を生み出し、怒りと悲しみを増幅させることは、これまでに起きた世界大戦も、今のこの戦争も同じです〉と語っている。卑劣なテロ、戦争の広がりを食い止めるためにも、安倍政権の自己陶酔的外交を食い止めなければならない。                            (宮島みつや)

151117 是枝裕和「「放送」と「公権力」の関係について」 ※金平茂紀氏が11月15日講演で推奨していた資料。

2015年11月17日 00時47分59秒 | 考える資料
11月17日(月):

腐り果てたかつての自民党ホープだった谷垣貞一幹事長が、頓珍漢に噛みついて自ら恥をさらしていたBPO意見書に関する資料です。

「放送」と「公権力」の関係について
~NHK総合「クローズアップ現代」“出家詐欺”報道に関するBPO(放送倫理検証委員会)の意見書公表を受けての私見~
   2015年11月7日

少々長いサブタイトルになったことをまずご了承ください。
以下、本文もちょっと長いですが、出来るだけわかりやすくまとめますので、我慢して最後まで読んでいただけると嬉しいです。これは主には放送に携わる皆さんへ向けての文章になります。

はじめに
11月6日にBPOの委員長及び委員による記者会見が開かれ意見書が公表されました。僕の予想が正しければおそらく当事者であるNHKはともかく、他局のニュースの多くは意見書の中で述べられた「重大な放送倫理違反があった」という委員会の判断について大半の時間を割いているのではないでしょうか。(といっても2、3分のことだとは思いますが)
ここぞとばかりにNHKを叩き、「クロ現」はつぶしてしまえと声高に叫ぶ人たちの顔も何人かは浮かびます。もちろん意見書はそのような主張を支持するものではありませんが。

もうひとつの指摘
番組の「倫理違反」の指摘も大変大切ではありますが、実はもうひとつ今回の意見書では重要な指摘を行っています。
それは「おわりに」の中で述べられた公権力による放送への介入についての部分です。(ご興味とお時間のある方はBPOのホームページをご覧下さい。全文がアップされているはずです)僕の危惧が杞憂に終わっていれば良いのですが、この2つ目の指摘がいろいろな思惑からメディア自身によってスルーされるのではないかという不安からペンをとることにした次第です。
意見書の中でも触れていますが、今回問題を指摘された2014年5月14日放送の「クローズアップ現代」に対しては総務大臣の厳重注意や自民党の情報通信戦略調査会なるものから放送局に対して事情聴取が行われました。
それらの要求を拒否するのか、のこのこ出向くのかは主には放送局自身の判断によるべきものだとは思います。にもかかわらず放送局にとっては部外者でしかない僕があえてこの一連の公権力と放送局の関係を巡る事案に対して個人的に声をあげようと思ったのは、別の(根は同じなのですが)ある発言がきっかけになっています。

「放送法」「お手盛り」「独立機関」
それはこの「戦略調査会」の会長である川崎二郎議員が「報道ステーション」での古賀茂明さんの「菅官房長官による番組への圧力」発言と、今回の「クローズアップ現代」について言及したものでした。

発言は今年の4月17日付です。新聞やネットに発表された発言の要点を簡潔に紹介します。

「ふたつの番組は、放送法の(禁じる)真実ではない放送がされていたのではないか。真実を曲げた放送がされるならば、それは法律に基づいて対応させてもらう。独占的に電波を与えられて放送を流すテレビ局に対して、例えば停波の権限まであるのが放送法だ。(報道ステーションの中で)名誉を傷つけられた菅義偉官房長官がBPOに訴えることになれば、それは正規の方法だ。BPOが「お手盛り」と言われるなら少し変えなければならないという思いはある。テレビ局がお金を出し合っている機関ではチェックができないならば独立した機関の方がいい」

発言が僕も所属するBPOに直接言及されているので、これはさすがにスルーすることは出来ない。機会があればBPOを通してか、もしくは個人的にきちんと反論をしておくべきだと考えていました。少し遅くなりましたがBPOの公式の意見書発表を待ったほうが良いだろうと判断したためなのでお許しください。

さて、ここで川崎会長の使った「放送法」「お手盛り」「独立した機関」という言葉についてちょっと自分なりに考えてみたいと思います。

「不偏不党」は誰の義務なのか?
まず放送法です。そもそもこの法律そのものが「憲法違反」の疑いが色濃い部分も多々あって(特に21条〈自由の表現〉)運用面ではかなり注意が必要なのですが、ひとまず今回はその点については触れません。
別の機会に譲ります。 今回注目したいのは意見書の「おわりに」でも触れた第1条です。第1条ですから、もちろん一番大切なことがここには記されています。
どんなことが書かれているか?
第1条二号にはこうあります。
「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによって、放送による表現の自由を確保する」
ややわかりにくい表現かも知れませんがここで述べられている「不偏不党」を「保障」する主体は明らかに公権力です。放送事業者に「不偏不党」を義務付けているのではありません。
それは憲法21条や23条(学問の自由)等の保障の主体が公権力であるのと同じです。そして、電波三法の成立にまでさかのぼって調べてみればその主張の根拠がよりはっきりします。

1950年1月24日に開かれた第7回国会「衆院電気通信委員会 電波三法提案理由説明」の中で政府委員の綱島毅電波監理庁長官が行った提案理由説明にはこうあります。

「放送番組につきましては、第1条に、放送による表現の自由を根本原則として掲げまして、政府は放送番組に対する検閲、監督等は一切行わないのでございます。放送番組の編集は、放送事業者の自律にまかされてはありますが、全然放任しているのではございません。この法律のうちで放送の準則ともいうべきものが規律されておりまして、この法律で番組を編成することになっております。」
(日高六郎編『戦後資料 マスコミ』日本評論社. 118頁)

保障するのは誰なのか?
つまりどういうことかと言うと、第1条は放送従事者に向けられているのではなく政府(公権力)の自戒の言葉であることを、政府自らが明らかにしているんですね。
なぜそんな自戒の規定が必要だったかと言えば、それは放送という媒体がその成り立ちや電波という物理的性格からいって公権力の干渉を招きやすいメディアであるからなのです。敗戦の5年後にこの議論が行われていることに注目しなくてはいけません。つまりは「公権力」と「放送」が結託したことによってもたらされた不幸な過去への反省からこの「放送法」はスタートしているわけです。
放送法のこの条文を前後も含めてもう少しわかりやすく現代語訳するとこうなります。

「我々(公権力)の意向を忖度したりするとまたこの間みたいな失敗を繰り返しちゃうから、そんなことは気にせずに真実を追求してよ。その為のあなた方の自由は憲法で保障されてるのと同様に私たちが保障するからご心配なく。だけど電波は限られてるから、そこんとこは自分たちで考えて慎重にね。」

このあたりの考え方にどの程度アメリカの思惑が反映しているのかは研究の必要があるかとは思いますが、これはこれで民主主義の成熟の為に「権力」が「公共」に対して示すべき大人の対応だと思います。

誰が放送法に違反しているのか?
「私見」と見出しには書きましたが、このあたりの解釈、考え方は僕個人のものではありません。
95年に出版された“放送倫理ブックレットNo.1『公正・公平』のなかの「憲法と放送法 - 放送の自由と責任」”という清水英夫(青山学院大学名誉教授〈当時〉)さんの文章からの受け売りです。この小冊子は1993年に、テレビ朝日のいわゆる「椿発言」を巡って当時の放送局の報道局長に対して国会で証人喚問が行なわれる事態に至った「放送と公権力」の緊急事態を踏まえた上で執筆、出版されたものです。
清水さんはこうも言っています。
「論者の中には、この放送法一条二号の規定は、公権力のみならず放送事業者の義務をも定めたものだ、という見解がないわけではない。しかし、放送法一条二号をそのように解釈すべきでないことは、憲法的見地のみならず、放送法の立法過程からも、きわめて明らかである」と。

今回のBPOの意見書で述べられている公権力と放送の関係についてのスタンスも、大旨この清水さんの見解に添ったものになっていると思います。
繰り返しますが「不偏不党」は放送局が求められているのではなく、「公権力」が放送局に保障しているのです。安易な介入はむしろ公権力自身が放送法に違反していると考えられます。にもかかわらず、そのこと自体を公権力も多くの放送従事者もそして視聴者も逆に受けとってしまっていることから、一連の介入が許し許されている。公権力はあたかも当然の権利であるかのように「圧力」として、放送局は真実を追求することを放棄した「言い訳」として、「両論併記」だ「中立」だなどという言葉を口にする事態を招いているのです。
作り手にとって「不偏不党」とは何よりもまず、自分の頭で考えるということです。考え続けるということです。安易な「両論併記」で声の大きい人たちから叩かれないようにしようなどという姑息な態度は単なる作り手の「思考停止」であり、視聴者の思考が成熟していくことをむしろ妨げているのだということを肝に銘じてください。放送を巡る不幸の原因がそこにあるのだということを、まず作り手が理解することです。
少なくとも「放送法」をその成り立ちまで逆のぼって読み理解しようとすれば、政治家が安易に「停波」などというおどしの言葉を口にすることはないはずです。そもそもこの川崎委員長が口にした停波の権限は確かに電波法の第76条に記されたものですが、これが放送番組の内容の是非を巡って「行政罰」と結びつけて解釈されることはない、というのが議論を重ねてきた学界の通説です。

例えば、元総務省事務次官の金澤薫さんは『電波法の76条に基づく処分は、放送法3条に「放送番組編集の自由」が規定されこれを踏まえて「自主規制を原則とする」ことが法の趣旨になっている以上、形式的には可能だが現実的には適用できない』(要約)と述べています。放送への介入の権限を監督省庁である自らに認める立場をとってきた総務省でさえ、これがぎりぎりの認識です。
(放送法と表現の自由~BPO放送法研究会報告書~ P.85より)

だから、総務大臣でもない川崎(二郎)さんが、いったいどのような権限に基づいて局員を呼びつけたり「停波」を口にしているのか僕にはその根拠が皆目わかりませんが、もしかすると、この人はそのような歴史の積み重ねを知らないふりをしているか、そもそも無知なのかどちらかでしょう。
ここでもう一度強調しておきたいことは、放送従事者は「不偏不党」という言葉によって自らの手や足をしばり耳や口をふさぐ必要はないということです。逆です。これは「憲法」と「公権力」と「私たち」の関係と同様に捉えるべきものなのです。そのことを是非理解した上で番組制作にあたって欲しいと思います。

誰が誰から独立するべきなのか?
次にBPOが「お手盛り」でチェックが甘くなるのなら「独立した機関」にしたら、という趣旨の発言について考えてみましょう。この「独立」とはどういうことか。恐らく放送を教育同様、公(パブリック)から独立(離脱)させ国(ナショナル)の元に取り戻すという、現政権が、あらゆる分野で行なっている取り組みと同趣旨のものでしょう。これが具体化されるとBPOには政府関係者(元総務省官僚等)の天下りが政府と一体化した委員として送り込まれることになるはずです。もし、そんなことを受け入れたらそれこそ公権力に対する「チェック」が「お手盛り」になるという民主主義の根幹を揺るがす事態が今以上に進行してしまうことはNHKの会長人事を見れば火を見るより明らかでしょう。放送が「国営」ではなく「公共」であることの意味を真摯に考えるならば独立させなければいけないのは放送局とBPOの関係ではなく明らかに権力と放送局の方でしょう。実質的に「予算の執行権」を握られているような(NHKのケース)力関係ではチェックが「お手盛り」になる危険性を排除できませんから。しかし、もし公権力だけにとどまらず、視聴者も、つまりは国民の総意として「公共」放送を目先の「国益」を最優先に考えるような価値観に染め上げられた「国営」放送=大本営発表にすることを望むのであれば、話しは違ってきます。僕は望みません。現行の放送法も少なくともそのような「放送」を支持していない。なぜならそれは放送局が自主と自律を自ら放棄することを意味するからです。一制作者としてもBPOの委員としても不満はいろいろありますが、今までの放送法を巡る議論の歴史的な経緯を踏まえ、その趣旨を理解した上でお互いに慎重に運用していくべきだと、ひとまず思います。

BPO=政治倫理審査会?
BPOが「お手盛り」ではないことの証明は、ここで僕が口で否定するよりはやはり今回のような「意見書」を公表して、放送局の自主自律をきちんと支え、ある時は監視し、ある時は応援するということを続けていくことで示すしかないでしょう。
その為の努力はしているつもりでいます。今回の意見書は力作です。是非、読んでみて下さい。
少なくとも私たち検証委員の中には放送局の局員や関係者はひとりもいません。番組制作会社出身の僕が最も局とは利害関係が強いかも知れませんけれども。例えば政治家の倫理を審査する為に国会に設置された「政治倫理審査会」と比べてみるとわかりやすいのではないでしょうか。
この審査会で政治家が“行為規範”等の規定に著しく違反し、道義的責任があると認められた場合、委員の3分の2以上の賛成で一定期間の登院自粛や国会役職辞任などを勧告できるとされています。
しかし、1985年の設置以来30年間!ただの一度もこうした勧告は行われておりません。ただの一度もですよ。なぜでしょう。勧告が行われない理由は3つ考えられます。日本の政治家がとても倫理的であるか?規範がユルユルなのか?審査が「お手盛り」なのか?果たしてどれでしょうか。
政倫審のメンバーは同業者(政治家)です。よっぽど倫理的な議員ならともかく、多くの方々は「明日はわが身」と考えたらそりゃあ処分どころか勧告すら出せないでしょう。今こうやって書いていて驚いてしまいましたが、これを「お手盛り」と言わずして何をお手盛りと呼ぶのでしょうか。
お互いにチェックが甘くなるのであればやはり同業者をメンバーから排除した「独立した機関」にするべきなのではないかと逆に提案させていただきますが、いかがでしょう。せめてBPO程度には。

おわりに ~駆け込み寺ではなく防波堤として~
少なくともBPOは番組倫理検証委員会だけでも今年3つの意見、見解を公表しています。放送局はその提言を受けて3ヶ月以内に改善策を提出する義務を負いますし、その番組に関わった局員に対しては停職や減棒を含む処分も下されます。これが僕が所属していたような番組制作会社だったら、もっと厳しいですよ。会社がつぶれることだってありますし、業界から事実上追放されるスタッフもいます。ある意味、このような厳しい自浄作用、淘汰はそれこそ限られた電波というある種の権力を手にする以上は仕方ないことだと僕は考えています。視聴者の目が厳しくなるのも当然でしょう。そのあらゆる方面からの批判に耐えられるだけのタフさと、ある種の鈍感力が、今の放送人には必要とされるのかも知れません。

最後は何だか皮肉っぽくなってしまいました。直接執筆したわけではないのですが、公表された「意見書」の中で「放送」と「公権力」に関する重要な見解を表明できたことを、同じ委員会に所属するメンバーとしてちょっぴり誇りに思っています。
BPOは総務省の代りに番組に対して細々とダメ出しをすることを目的とする組織だと思っている人は放送局の中にも多いとは思います。しかし、それは誤りです。もちろんダメ出しはします。ただ、それはあんまりいい加減なことをしていると放送の自主自律がおびやかされるからなのであって、本来の意味は公権力が放送に介入することへの「防波堤」だと僕自身はずっと認識してきました。
近年BPOには政治家や政党から、番組内で自身や自身の主張が一方的に批判されたり不当に扱われており放送法に定められた「政治的公平」に反しているといった異議申し立てが相次いでいます。自分たちを批判するコメンテーターを差し替えろなどといった番組内容に直接言及するような要求までなされています。
BPOは政治家たちの駆け込み寺ではありません。ここまで僕の文章を読んでいただいた方はもうおわかりだと思いますが、保障するべき立場の政治家たちが 「政治的公平」を声高に訴える行為そのものが、放送(局)の不偏不党を、つまりは放送法を自ら踏みにじることなのだという自覚の欠如を端的に示しています。
「批判を受けた」放送人が考えなくてはいけないのは、批判の理由が果して本当に公平感を欠いたものだったのか?それとも政治家にとって不都合な真実が暴かれたからなのか?その一点につきるでしょう。後者であるならば、まさに放送法に記されている通り、誰にも邪魔されずにその「真実」を追究する自由は保障されていますし、BPOもそんなあなたの取り組みを全面的に支持するでしょう。
今回の意見書には、そんなBPO本来の姿がいつにも増して表明されていると思います。憲法ほどではないにせよ放送や「放送法」にも積み重ねてきた議論の歴史というものがあります。それをしっかりと理解することで、番組制作者はより自由を手にすることが出来る。それは公権力の介入に抗する自由です。もちろん、その自由を獲得するためには放送人ひとりひとりに不断の努力が求められることは明らかです。それこそが「自主、自律」なのですから。

以上です。
僕はこれを、同業者である放送人へのエールとして書きました。
最後まで読んでいただいたみなさま、ありがとうございました。

                                   是枝裕和

5 030 大和和紀「あさきゆめみし 8」(講談社コミックス・ミミ:1989)感想4+

2015年11月16日 01時00分09秒 | 一日一冊読書開始
11月15日(日):  

206ページ    所要時間 2:50(おふろで(*´ω`) )     蔵書

著者41歳(1948生まれ)。

2度目。9巻を先に読んでしまったので今回8巻を読んだ。前に読んだときには、女三の宮を人形のようで温かみと誠実さに欠ける感情の鈍い嫌な姫君だと思っていたが、今回読み直してみると、これは自閉症スペクトラムの症状ではないかと思った。平安時代にも、例えば実在の陽成天皇や冷泉天皇、花山天皇など奇行で有名な人が大勢いる。物の怪の憑き物も今の目で見れば、何らかの精神疾患を抱えていたと思われる。近代に始まったことではないのだ。紫式部は、そういうのもよく見て作品世界の奥行き作りに生かしていたのだ。

8巻あたりまで来ると、主人公は紫の上(や明石の君)など素晴らしい女性たちではないかと思えてくる。源氏はのちに三の宮が生む柏木の子(のちの薫の大将)を抱いて、父である桐壺帝に冷泉帝を抱かせた罪を思い知るが、この8巻を読んでると、一番大切な女性であるはずの紫の上に、母である桐壺の更衣と同じ苦しみ(それ以上?)を与えているのではないかと思えてくる。何かしら紫式部の源氏に対する「やれやれ、しゃーおまへんなあ…」という声が聞こえてくるようでもあった。

閑話休題:

朱雀院の願いで、保護者代わりも含めて三の宮と結婚した源氏は、北の方として寝殿に迎え入れる。しかし、三日の通いで、三の宮のあまりの幼さに驚かされた源氏はあらためて紫の上が如何に素晴らしい連れ合いであるかを知る。一方、なんの後ろ見もなく、ただ源氏の愛のみを頼りに生きざるを得ない紫の上は新たな大きな苦しみの種を抱え込むことになる。

紫の上の苦しみをよそに、朱雀院の出家により宿下がりした朧月夜を源氏は訪ね、無理に結ばれる。かつて源氏が須磨の裏に流される原因となったのが、朧月夜との後先顧みない恋愛だった。

春宮に嫁した明石の女御(源氏の娘)が、一の宮を身籠り、里戻りすると、実母が明石の君であり、明石の入道、明石の尼の存在が明かされる。育ての親である紫の上の立場は全く揺るがない。受領の身から娘を天下人の六条院源氏に嫁し、孫娘は春宮女御(のち皇后)、ひ孫は帝(みかど)となる夢を果たした明石の入道は、草深い山奥に隠れるように身を引く。

三の宮との結婚を朱雀院に身分違いを理由に断られた太政大臣(頭の中将)の息子柏木は、六条院での蹴鞠の際に三の宮を垣間見て、三の宮への思いを断ちがたくなり、思い焦がれる。

三の宮を六条院に迎えたことは、紫の上を決定的に苦しめることになり、37歳でかつて藤壺女御が亡くなった年齢を迎えた紫の上は源氏に一度ならず出家を申し出るが、そのたびに源氏は「わたしをお見捨てになるのですか」と駄々をこねるように認めようとしない。三の宮を北の方に迎えてからの源氏の紫の上に対する「この女性(ひと)ほどの方は他にいない」という思いが一層深まっている。

音曲の宴で見事な琴を披露した後、突然、紫の上は体調を崩し、重い病に陥る。慌てた源氏は紫の上を懐かしい二条院へ移して看病する。

六条院に三の宮を残して源氏が二条院に泊まり込む日々が続く中で、柏木が三の宮のもとに現れる。無防備に柏木を入れてしまった三の宮はそのまま無理やりに柏木に襲われ関係を結び、その後関係を断てずに流される。

源氏のもとに紫の上が息を引き取った知らせが届く。かけつけた源氏は我を忘れて取り乱し、祈祷僧らに「絶対に死なせるな!」と再度号令をかける。突然、女の童に物の怪がとりついて話し始める。同時に、紫の上が息を吹き返す。物の怪の正体は六条の御息所の死霊であった。源氏が紫の上に若い時の恋愛の思い出を語った際に、六条の御息所の悪口を言ったことが悔しくて出てきたが源氏は神仏の守護が強すぎるので代わりに紫の上の命を奪おうとしたのだという。

紫の上の蘇生に救われた思いの源氏が三の宮の懐妊を知り、いぶかしく思いながらも喜んでいたところ、ふと、しとねの下からはみ出た柏木の手蹟の文を見つける。若い二人の不義を知り、源氏の顔色が変わる。

151115 一年前:141114今回の総選挙は、この記事に尽きる。極右ビリケン(非立憲)自民党にだけは投票しない

2015年11月15日 16時44分04秒 | 一年前
11月15日(日):
 共産党は、従来の姿勢を改めて乾坤一擲の歴史的決断を有権者の前に見せてくれた。変わらないで国民を裏切り続けているのは、安倍晋三のコピー(前原詐欺師)に引きずられている民主党だけだ。
141114 今回の総選挙は、この記事に尽きる。合言葉は「極右ビリケン(非立憲)自民党にだけは投票しない!」
11月14日(金): 何か、落ち着かない日々である。安倍極右政権の解散、総選挙に対する基本的な考え方を整理したいと思うが、ゆっくりまとめる気にもならない。<「ジャーナリスト同盟...

5 029 池上彰・佐藤優「新・戦争論 僕らのインテリジェンスの磨き方」(文春新書:2014)感想特5

2015年11月15日 02時45分14秒 | 一日一冊読書開始
11月14日(土):  

255ページ     所要時間 6:35     ブックオフ260円

池上彰64歳(1950生まれ)。
佐藤優54歳(1960生まれ)。

池上彰にハズレ無しの池上さんと、立花隆の後を継ぐ知の巨人佐藤優、俺が今一番読みたい著者二人による対談本である。結論を先に言えば、無茶苦茶面白かった!、の一語に尽きる。一度読み終わってから、もう一度50分かけて眺め直した。高校レベルの歴史・地理・宗教・政治経済の知識が身についてない読者には多少難しく感じられるかもしれないが、それ以上のプラスαを求める読者には通常の読書では手に入らないハイレベルな知識・情報・視点が提示され、心が沸き立つような知的興奮を覚えさせてくれる本である。

読みながら何度も自分の知識の奥行きと間口がぐぐぐっと押し広げられるのを感じた。本当にハイレベルな内容をよく理解できてるからこそのわかりやすい分析・解説、そして今後の世界の見通し。現在の世界情勢を理解する上で大切な知識・情報・視点を存分に与えてくれるすごい本です。読み終わった時、確実に世界の見え方が大きく変わったのを覚えた。

読みながら、今日あったISによるフランス・パリでの同時テロのことを考えてしまい、「(本戦場から本国撹乱戦になるとは)こりゃ世界的な<応仁の乱>の始まりだな!」と連想してしまった。

ちなみに本書でも、佐藤優の歴史・地理・宗教・外交での知識量は半端でなく圧倒的な力量を見せつけてくれた。正直「この人はどれほどの知識を持ってるのか」と空恐ろしい気分にもなった。俺の印象では、佐藤6.5に池上3.5ぐらいの話量である。ただ、池上彰は、佐藤の放つ話題に食い下がり、粘り腰で受け止め、攻められるところでは十分に語り聞かせることでこの人もただ者でないことを感じさせてくれた。その意味では、他の対談本で佐藤優が一方的に対談相手を圧倒するのを読んできたのとは違う印象だった。池上さん、さすがである。

佐藤自身、池上に語ることで相当な満足を覚えたのではないかと思う。対談はやはりバランスが大事だ。

本書を読んでいて、俺はただの一カ所も違和感や不愉快を感じる部分がなかったことを言明しておきたい。二人の話には歴史修正主義やいじましい独善的ナショナリズムなどが一切無く、終始落ち着いたコモンセンス(常識)が貫かれていた。非常に上質な知的テキストである。

【目次】 はじめに  池上彰
序章 日本は世界とズレている :外からは奇妙に見える日本/有名無実の「集団的自衛権」/安倍総理の「心」を見よ/自民党も朝日新聞も信者/慰安婦問題の本質とは?
第1章 地球は危険に満ちている :クラウゼヴィッツ「戦争論」は古くない/イスラエルの無人機は“暗殺者”/「イスラム国」は四割が外国人兵士/殺しが下手なアメリカ―攻撃・暗殺・テロの有効性/民間会社が行なう新しい戦争/エボラ出血熱の背後に人口爆発あり
第2章 まず民族と宗教を勉強しよう :毛沢東の予言/「中華民族」は存在するのか/ダライ・ラマと五回会った/「宗教は毒だ」と毛沢東はダライ・ラマに囁いた/中国政府VSヴァチカン/クリスチャンだった金日成/フランスは完全世俗国家/今、世界は拝金教/「イスラム国」の正体は?/破綻国家とビル・ゲイツ/慰安婦問題はアメリカが深刻/「遠隔地ナショナリズム」が世界を覆う
第3章 歴史で読み解く欧州の闇 :エネルギーが世界を動かす/ウクライナの内部断絶/肉屋に人肉が吊るされていた/ナチスに協力したガリツィア/避暑地とソ連のセックス事情/ウクライナの意味は「田舎」/底辺労働力としてのウクライナ人/スコットランド独立騒動の真相/イギリスは「民族」にもとづかない国家/EUの首都ベルギーが危ない/ヨーロッパが再び火薬庫に
第4章 「イスラム国」で中東大混乱 :アラブの春の後の無惨/シリアのキーポイントは、アラウィ派/ムスリム同胞団を皆殺しにしたアサド父/オバマ大統領の失敗/「イスラム国」の横取り戦略/アメリカとイランの接近の理由は?/湾岸の黒幕、サウジアラビア/一夫多妻と「時間結婚」/スンニ派で一番過激な派は?/白人は皆、若くて強い!?/十二イマーム派とハルマゲドン/嘘つきシーア派/アサド政権を支持するイスラエル/モサド長官の交渉力
第5章 日本人が気づかない朝鮮問題 :アメリカは日朝交渉をつぶしたい/期待値上げオペレーション/北朝鮮のミサイルは、日本への求愛行動/金正日と金正恩の違い/張成沢はなぜ処刑されたか?/中国人に怒る平壌の人々/日本のカネが頼りの北朝鮮/「日本人問題の最終解決」の怖さ/「日本人大量帰還」は北朝鮮のカード/日本VS朝鮮、一対一の戦争はなかった/中・朝「歴史戦争」が始まる
第6章 中国から尖閣を守る方法 :中国の思惑通りに進む尖閣問題/中国の空母は怖くない/毛沢東化する習近平/ネットと世論は同じか?/トルコと回族がつながるウイグル問題/民族主義か、イスラム主義か?/中国にとって尖閣よりウイグルこそ重要
第7章 弱いオバマと分裂するアメリカ :教養が邪魔するオバマ/「白人」だけの民主主義/アメリカの宗教事情/大統領候補はヒラリー?
第8章 池上・佐藤流情報術5カ条 :息が詰まる日本のネット空間/軽軍備ならインテリジェンスを/公開情報だけで世界はわかる/情報は「信頼できる人」から/重要記事は即、破る/情報は母国語でとれ/スケジュールからメモまで「一冊の大学ノート」で
終章 なぜ戦争論が必要か :新帝国主義と過去の栄光/嫌な時代
おわりに  佐藤優

151114 民主党前原詐欺師の妄言がひどい。こいつは間違いなく安倍晋三のコピー、自民党別動隊だ!

2015年11月15日 00時03分05秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
11月14日(土):

 民主党前原詐欺師は、学歴の高い安倍晋三だ。頭が良いのかと思いきや、中身は全く同じ。安倍晋三のコピー・分身である。立憲主義を否定する憲法軽視の好戦的反知性主義者である。まず何よりも周りが見えていないし、見る気も無い。国民の願いや声を聞こうとせず、耳を閉ざして、自分の信念(思い込み?)とやらと調整しようという意志がない。野田汚物の国会前デモに対する「大きな音だね」の妄言を思い出した。政治家としてのバランス感覚が皆無だ。安倍晋三と同じ<冷酷な壁>だ。
 
 しかも、民主党を私物だと勘違いしている。野党低迷の原因となるシロアリは共産党ではなく、民主党内の前原詐欺師ら<第二自民党>、<自民党別動隊>であることすら自覚できていない。自分の考え方と合わないのであれば、さっさと民主党を出て行け!。前原詐欺師の言動によって、どれほど民主党に対する国民の信用・支持が失われているか、理解できていない。こいつらが出ていけば、共産党との共闘による民主党の政権奪取への努力次第で支持率がかなりの数値まで上がるのは確実だ。

 「外交安保は政権交代があってもそれほど大きく変わらない(形にすべきだ)。」というのであれば、それこそ民主党を出て、自民党に拾ってもらい、自民党の中で新自由主義と対峙するコップの中の小さい争い・努力をすればよいのだ。今求められているのは、戦後70年の日本の行方をめぐる大きな闘争であって、こいつが言うような姑息な闘いではないのだ。そんなに小さな闘いのために、あの日本共産党が他党との選挙協力という歴史的転換をするわけがないのだ。その意味すら前原詐欺師には理解できていない。やはり、安倍晋三と同じだ。

朝日デジタル共産と選挙協力「シロアリみたいなもの」 民主・前原氏 菊地直己 2015年11月14日19時04分
  民主党の前原誠司・元代表は14日、読売テレビの報道番組で、来夏の参院選に向けた民主党と共産党の選挙協力について「シロアリみたいなもので、協力したら(民主党の)土台が崩れてくる」と批判した。
  参院選では野党の「共倒れ」を防ぐため、民主執行部は野党候補の一本化を模索。共産は安全保障関連法廃止に向けて「国民連合政府」を呼びかけている。
  これに対し、前原氏は「いまの野党の低迷の一つは、共産党が統一政権を呼びかけ、民主がそれに揺さぶられているということだ」と指摘。そのうえで「外交安保は政権交代があってもそれほど大きく変わらない。内政は、自民党の小さな政府、新自由主義と対峙(たいじ)するため、民主党が中心となっていくのが大事だ」と訴え、党執行部を牽制(けんせい)した。
  また、前原氏が主張する民主党の年内解党と新党結成については「党を分裂させることが目的ではなく、(野党結集の)大きな固まりをつくっていくための問題提起だ」と説明した。(菊地直己)
■前原誠司・民主党元代表の発言
  野党低迷の一つ(の理由)は、共産党が統一政権を呼びかけ、それに揺さぶられているということだと思う。私は(地元が)京都だから非常に共産党の強いところで戦ってきた。共産党の本質はよく分かっているつもりで、シロアリみたいなもの。ここと協力したら土台が崩れてくる。例えば外交安保は政権交代があってもそれほど大きく変わらない(形にすべきだ)。ただ、内政はいまの小さな政府、新自由主義と対峙していく。そういう中で野党の家を共産党が主導するのではなく、もういちど民主党が中心となってつくっていくのが大事だ(読売テレビの番組で)

151113 53万PV超:IWJ 「SEALDs KANSAIはなこさんスピーチ」=冷酷な橋下・松井維新の教育破壊に断固NO!

2015年11月14日 13時53分27秒 | 閲覧数 記録
11月13日(金): 

記録ですm(_ _)m。ブログの開設から1497日。

アクセス:閲覧 692PV/訪問者 180IP

トータル:閲覧 530,628PV/訪問者 158,705IP

ランキング:6,398位 / 2,314,495ブログ中 週別 6,264位

「 151101 【拡散希望】SEALDs KANSAI:大阪W選挙は「大阪維新の会」から大阪の政治を住民の手に取り戻す闘い 」を見て下さい。
IWJ Independent Web Journal7年前、橋下徹氏と対談した女子高生が街宣車の上で「大阪府民なめんな!」――弱者を切り捨てる「自己責任」の押しつけにNO! 〜SEALDs KANSAIはなこさんがスピーチ   2015.11.13 
  「有権者ではない子供たちを守るのは、私たち大人の責務です。この間、私は『民主主義ってなんだ?』と国会前で叫びました。『憲法違反の総理をやめろ』と叫びました。しかし、自分の住む町、大阪を見るとどうでしょうか? これまでの大阪維新の会も同じことをずっとやってきたのです」
  大阪市長選及び、大阪府知事選挙、いわゆる「大阪ダブル選挙」の投開票が2015年11月22日に行われる。府知事選、市長選ともに「維新」vs「その他政党」の構図で選挙戦が争われており、2008年に橋下徹氏が大阪府知事に就任してからの維新政治をどう評価するのか、府民の民意が問われることになる。
  選挙戦の直前に結成された「おおさか維新の会」からは松井一郎現知事が2期目をかけて出馬。同じく、吉村洋文氏が橋下市長の座を引き継ごうとしている。両候補は今年5月の住民投票で否決された「大阪都構想」をふたたび掲げ、「おおさか維新の会」には政治家を引退すると表明していた橋下徹氏が、代表に就任することが決まっている。

■SEALDs KANSAI「維新政治にNO!」
  2015年夏、関西方面の旗ふり役として、安保法制に反対する学生運動をリードしてきたSEALDs KANSAI。このダブル選挙でも積極的に声をあげ、これまでの維新政治の改革が大阪府民にどんな影響を与えてきたのか、有権者の生の声を集めるプロジェクト「REAL」を立ち上げた。
  SEALDs KANSAIの一人、はなこさんは、橋下徹元大阪府知事が実施した私学助成金削減で生活苦に陥った。女子高校生だった当時、友人たちと「大阪の高校生の笑顔をくださいの会」を立ち上げ、2008年、橋下氏に面会を求め、対談が実現した。
  はなこさんは、2015年11月4日、SEALDs KANSAIが主催した「自由と民主主義のための大阪緊急街宣アピール」の中で、当時の橋下氏の発言を振り返った。
  「橋下知事との会談で、許せない発言がありました。『この国の原則は自己責任です。それが嫌なら、あなたが政治家になって変えるか、この国を出ていけばいいのです』と、不登校の子に対して、貧困家庭に生まれたことに対して、自己責任だと言われたのです」
  はなこさんは、今もなお、その時の橋下氏の発言が許せないと語り、「もうこれ以上、弱者を切り捨てる維新政治を許してはいけません」と力強くスピーチした。
  以下、はなこさんのスピーチの動画と、全文書き起こしを掲載する  (取材:IWJ京都・萩崎茂、文:ぎぎまき)

151104 【はなこさんスピーチ】SEALDs KANSAI 自由と民主主義のための大阪緊急街宣アピール
■SEALDs KANSAIはなこさんスピーチ全文文字起こし
  はなこさん「みなさん、こんばんは。はなこと申します。
  今日は、維新政治への怒りの気持ちと思いをスピーチしに来ました。正直言って、こんな人前には立ちたくないし、当時、沢山の人から誹謗中傷を浴びたので、ここに立つのがすごく怖いです。でも、本当に、今回のダブル選挙で維新政治を終わらせたくて、今日ここに立っています。
  『子供が笑う大阪に』をスローガンに、橋下さんは知事に当選しました。その時、私は高校一年生で、政治に対してなんの関心もありませんでした。当時、橋下知事が真っ先に行ったのが、私学助成金の削減です
  突然、父が会社を辞めることになり、私学に行ったことで、父に無理をさせているのではないかと自分を責めていました。同じように、私の学校には経済的にしんどい家庭の子が多く、今の政治がとてもひとごとのようには思えませんでした。
  私は、選挙権もなければ、橋下知事を選んでなんかいません。でも、声をあげて、この思いを伝えなきゃ何も変わらないと気づいたのです。授業で習った『国民主権』て言葉の意味なんて、分からなかったけど、有権者じゃなくても、主権者として立ち上がることはできると知ったのです。
  そこで同じ思いの仲間と作ったのが、『大阪の高校生に笑顔をください』の会です。その当時、橋下知事との会談で、許せない発言がありました。不登校で私学に行かざるを得なかった子に対して、『なんで転校しなかったんですか? 転校すればよかったじゃないですか? この国の原則は自己責任です。それが嫌なら、あなたが政治家になって変えるか、この国を出ていけばいいのです』と、不登校の子に対して、貧困家庭に生まれたことに対して、自己責任だと言われたのです。 当時、お金がなくて学校に行けない高校生がこの大阪に沢山いました。不登校の子がこの大阪には今なお沢山増え続けています。私はこの発言を、今なお、許すことはできません。
  この時、この国は黙っていたら、弱者が一番初めに切られていく社会なのだということに気づきました。現在を生きる私たちの社会は、自己責任と強い者しか生きれないという強烈なメッセージを、子供、若者に対して集中的に浴びさせ続ける状況があり、その重圧が子供や若者をどれだけ苦しめていることか。こんな考え方の政治家に大阪を任せていられるでしょうか?
  橋下さん率いる『大阪維新の会』は、この後、次々に子供や、子供たちを支える教師を苦しめる、さまざまな教育改革を推し進めていきました。過度な競争教育が、子供たちを苦しめていると、国連こどもの権利委員会から、再三勧告を受けているにも関わらず、競争を激化するような高校の学区撤廃や、『十五の春を泣かせない』と、大阪に沢山の高校が作られたにもかかわらず、公立高校の統廃合など、数をあげれば、きりがないです。
  また、子供たちを支える教師も疲弊しています。教育基本条例で、教師を調査の対象とし、大阪では働きたくないと、教員採用受験者の数も減っています教育は政治の道具ではありません。教育は、私たちが人間らしく生きていくために必要なもので、私にとって希望です。
  自己責任だと言われても、私が『違う』とはっきり言えたのも、自己責任だと思っていた問題が、個人の問題ではなく、自分たちが人間としての尊厳と自由が剥奪されている社会がある、ということを可視化できる学びがあったからです。
  『もう、苦しまなくていいんだよ』と学校の先生が教えてくれました。学校は、現に居場所のなかった私にとって、居場所を与えてくれました。人類は立ち上がり、声を挙げることで、様々な権利を獲得し、進歩していったという歴史を学校で学びました。
  こんな私でも生きていいんだと思えるようになったのは、たゆまない努力をしてきた教師集団と、そして学校教育のおかげです。子供たちが自己責任という言葉に、自分を責め、競争に勝ち抜くために必死にいい子を演じ、孤独を感じてしまう。もうそんな教育をこれ以上作り出してほしくはありません。もう、これ以上、教育をつぶさせたくはありません。
  有権者ではない子供たちを守るのは、私たち大人の責務です。この間、私は民主主義ってなんだ?と、国会前で叫びました。憲法違反の総理をやめろと叫びました。しかし、自分の住む町、大阪を見るとどうでしょうか?
これまでの『大阪維新の会』も同じことをずっとやってきたのです。
  いったい何人の人たちが切り捨てられたことでしょうか。議会無視の強行採決で、民主主義のプロセスを踏みにじり、思想調査や君が代の強制は、完全に憲法違反です。住民投票で『NO』の審判を下されたにも関わらず、また、『都構想』を掲げる。『大阪府民をなめるな』と言いたいです。
  今度はここ、大阪で声をあげる番です。民主主義は面倒くさいです。日常の忙しさに、娯楽に逃げ、当事者だということを忘れてしまいます。でも、もうこれ以上、弱者を切り捨てる維新政治を許してはいけません。
  だから、私は絶対に、これまでの維新の会の政治をやめさせます。そして、ここ大阪でも、民主主義を始めるのです。新しい大阪府政を一緒に作りましょう。
  2015年11月4日、私はこれまでの『大阪維新の会』による政治を見直し、人々の声に寄り添い、子供や若者の現状にしっかりと向き合える人が代表になることを求めます




 参院選「落選運動」第1位<片山さつき>絶対に落とす!社会保障制度の敵!生きている悪魔!





151112 琉球新報:普天間移設先「沖縄と言っていない」 モンデール元駐日大使、日本が決定と強調

2015年11月13日 02時02分31秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
11月12日(木):    
琉球新報普天間移設先「沖縄と言っていない」 モンデール元駐日大使、日本が決定と強調  2015年11月9日 05:05
 【ワシントン=問山栄恵本紙特派員】1995年の米海兵隊員による少女乱暴事件当時に駐日米大使を務め、翌96年に当時の橋本龍太郎首相とともに普天間飛行場返還の日米合意を発表したウォルター・モンデール氏(元副大統領)が事件から20年の節目を迎えたことを機に、琉球新報のインタビューに7日までに応じた。モンデール氏は米軍普天間飛行場の移設先について「われわれは沖縄とは言っていない」と述べた上で「基地をどこに配置するのかを決めるのは日本政府でなければならない」との考えを示し、移設先は日本側による決定であることを強調した。名護市辺野古移設計画については「日本政府が別の場所に配置すると決めれば、私たちの政府はそれを受け入れるだろう」と述べ、米政府が計画見直しに柔軟な姿勢を取る可能性にも言及した。
  また、少女乱暴事件に対する県民の大きな反発を受け、在沖米軍や日米安全保障条約の存続問題へと議論が発展したことを説明し、しかし日本側が沖縄からの米軍撤退を望まなかったこともあらためて明らかにした。
  モンデール氏は少女乱暴事件について「身の毛のよだつような残酷なことで、少女に申し訳ない気持ちになった」と述べ「大衆の怒りが爆発した。デモの人たちが私のオフィス(駐日大使館)の外にもいたことを覚えている。私はとても取り乱した。本当に緊迫していた」と振り返った。その上で、「少女に起きたひどい出来事というだけでなく、日本との同盟条約を維持するかどうか、沖縄の人たちが米軍を周囲に置きたいかどうかの議論に変わっていった」と述べ、米政府が当時、在沖米軍の撤退を懸念していたことを明らかにした。
  一方、米国務省系研究機関による退任後のインタビューで、当時日本側が「われわれが沖縄を追い出されることを望んでいなかった」と証言したことについては「日本政府や外務省で関わった人たちのことを引用したのは確かだ」と述べ、日本側が普天間飛行場をはじめとする沖縄の米軍基地駐留の継続を求めていたとの認識を示した。
  県内移設の条件が付いた普天間飛行場の返還合意については「完全だったとは思わない」と振り返り、合意から19年たっても返還が実現していない現状に「こんなにも長い時間がかかるとは想像もしていなかった。当惑している」と述べた。
  沖縄県が求める日米地位協定の抜本改定については「協定は米軍駐留の基礎だ。私たちがしたように、少しのルール変更は可能だ」と述べ、否定的な見解を示した。

151110 YouTube「山本太郎@名古屋 11/9街頭記者会見【前半53分】【後半70分】」が素晴らしい!

2015年11月11日 01時49分19秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
11月10日(火):

ぼんやり見始めて、全部見てしまった。山本太郎さん、素晴らしい。頑張れ!

太郎さんのDVD(300円)を手に入れたい!

151109 一年前:141108 「3・11前に戻るのか 川内原発」(東京新聞社説)

2015年11月10日 01時06分39秒 | 一年前
11月9日(月):
141108 「3・11前に戻るのか 川内原発」(東京新聞社説)
11月8日(土):3・11前に戻るのか 川内原発  2014年11月8日 東京新聞社説http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/edi...

150329 タガ外せば歯止め失う 長谷部恭男・早稲田大学教授/「未来志向」は現実逃避 杉田敦・法政大学教授

 杉田 先日ドイツのメルケル首相が来日しました。戦後ドイツも様々な問題を抱えていますが、過去への反省と謝罪という「建前」を大切にし続けることで、国際的に発言力を強めてきた経緯がある。「建前」がソフトパワーにつながることを安倍さんたちは理解しているのでしょうか。  / /長谷部 そもそも談話が扱っているのは、学問的な歴史の問題ではなく、人々の情念が絡まる記憶の問題です。記念碑や記念館、映画に結実するもので、証拠の有無や正確性をいくら詰めても、決着はつかない。厳密な歴史のレベルで、仮に日本側が中国や韓国の主張に反証できたとしても、問題はむしろこじれる。相手を論破して済む話ではないから、お互いがなんとか折り合いのつく範囲内に収めようと政治的な判断をした。それが河野談話です。  / /杉田 談話の方向性や近隣との外交について「未来志向」という言い方がよくされますが、意図はどうあれ、それが過去の軽視という「見かけ」をもってしまえば、負の効果は計り知れない。安倍さんたちは、未来を向いて過去を振り払えば、政治的な自由度が高まると思っているのかもしれません。しかし政治の存在意義は様々な制約を踏まえつつ、何とか解を見いだしていくところにあります。政治的な閉塞(へいそく)感が強まる中で、自らに課せられているタガを外そうという動きが出てくる。しかし、それで万事うまくいくというのは、一種の現実逃避では。  / /長谷部 合理的な自己拘束という概念が吹っ飛んでしまっている印象です。縛られることによってより力を発揮できることがある。俳句は5・7・5と型が決まっているからこそ発想力が鍛えられる。しかし安倍さんたちは選挙に勝った自分たちは何にも縛られない、「建前」も法律も憲法解釈もすべて操作できると考えているようです。  / /杉田 俳句は好きな字数でよめばいいのだと。  / /長谷部 あらゆるタガをはずせば、短期的には楽になるかもしれません。しかし、次に政権が交代したとき、自分たちが時の政府を踏みとどまらせる歯止めもなくなる。外国の要求を、憲法の拘束があるからと断ることもできない。最後の最後、ここぞという時のよりどころが失われてしまう。その怖さを、安倍さんたちは自覚すべきです。 =敬称略(構成・高橋純子)朝日新聞『考論』

0015 オルテガ「大衆の反逆 (桑名一博訳;久野収解説)」(白水社イデー選書;1930)評価5

以下は、オルテガ所論の久野収による抜粋の抜粋である:///  オルテガによれば、政治のなかで「共存」への意志を最強力に表明し、実行していく政治スタイルこそ、自由主義的デモクラシーである。共存は、強い多数者が弱い少数者に喜んで提供する自己主張、他者説得の権利である。敵、それも最も弱い敵とさえ、積極的に共存するという、ゆるがない決意である。/その意味で、人類の自然的傾向に逆行する深いパラドックス(逆説)であるから、共存を決意した人類が、困難に面してこの決意を投げ出すほうへ後退したとしても、それは大きな悲劇ではあっても、大きな不思議とするには当たらない。/「敵と共存し、反対者と共に政治をおこなう」という意志と制度に背を向ける国家と国民が、ますます多くなっていく1930年代、オルテガは、「均質」化された「大衆」人間の直接行動こそが、あらゆる支配権力をして、反対派を圧迫させ、消滅させていく動力になるのだという。なぜなら、「大衆」人間は、自分たちと異類の非大衆人間との共存を全然望んでいないからである。略。///  「大衆」人間は、自分たちの生存の容易さ、豊かさ,無限界さを疑わない実感をもち、自己肯定と自己満足の結果として、他人に耳を貸さず、自分の意見を疑わず、自閉的となって、他人の存在そのものを考慮しなくなってしまう。そして彼と彼の同類しかいないかのように振舞ってしまう。/彼らは、配慮も、内省も、手続きも、遠慮もなしに、「直接行動」の方式に従って、自分たちの低俗な画一的意見をだれかれの区別なく、押しつけて、しかも押しつけの自覚さえもっていない。/彼らは、未開人―未開人は宗教、タブー、伝統、習慣といった社会的法廷の従順な信者である―ではなく、まさに文明の洗礼を受けた野蛮人である。文明の生み出した余裕、すなわち、贅沢、快適、安全、便益の側面だけの継承者であり、正常な生存の様式から見れば、奇形としかいいようのないライフスタイルを営んでいる新人類である。略。///  「自分がしたいことをするためにこの世に生まれあわせて来た」とする傾向、だから「したいことは何でもできる」とする信仰は、自由主義の自由の裏面、義務と責任を免除してもらう自由にほかならない。/われわれは自由主義の生みだした、この「大衆」人間的自由、自己中心的自由に対し、他者と共存する義務と責任をもった自由を保全しなければならないが、一筋縄でいかないのは、この仕事である。(160626:イギリスEU離脱について思うところ=もみ=)