もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

150215 衆参両院の「テロ非難決議」を非難する!「テロの本質」を真面目に語る政治家はいないのか!

 真面目に「テロの本質」を考えれば、その原因が、決して宗教の違いにあるのではなく、世界的に広がる富の偏在、極端な格差拡大、差別構造の継承、及びパレスチナ問題、それらによる<若者たちの絶望>にあることは、実は誰もがわかっていることだろう! それを「世界には凶悪なテロリストが大勢いて、こいつらを叩き潰せばテロが無くなる」なんて話に無理やりすり替えている。誰も、「テロの本質が、日本・世界の社会構造が抱える富の偏在・格差の拡大及びパレスチナ問題の<野放し状態>にこそある」という本質を語らないし、見させようとしない。そして、凶悪なテロリストへの恐怖ばかりを煽りたてている。これはまさにオーウェルの「一九八四年」の世界と同じだ。今回の国会の「テロ非難決議」に社民党・共産党まで加わっていたのには、あきれ果てた。「誰も本質を見ようとしない。」「武力で世界中の<絶望した若者たち>を封じ込めるべきではないし、不可能だ!」

秋原葉月さん「Afternoon Cafe」ブログから

※(1)「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ」byヘルマン・ゲーリング ※(2)いつの時代も大衆をファシズムに煽動する手口は同じ。なのに同じ手口に何度も騙されるのは過去に学んでいないから。格差を広げ、セイフティネットを破壊し、冷徹な自己責任論が横行する社会を継続させるのは簡単だ。今よりもっと格差を広げ、セイフティネットを破壊する政策をとればよい。そうすれば人々に自己責任論がもっと浸透し、草の根から勝手に右傾化してくれる。

辺見庸さんのブログから

・権力をあまりに人格的にとらえるのはどうかとおもう。口にするのもおぞましいドブの目をしたあの男を、ヒステリックに名指しでののしれば、反権力的そぶりになるとかんがえるのは、ドブの目をしたあの男とあまり変わらない、低い知性のあらわれである。権力の空間は、じつのところ、非人格的なのだ。だからてごわい。中心はドブの目をしたあの男=安倍晋三であるかにみえて、そうではない。ドブの目をしたあの男はひとつの(倒錯的な)社会心理学的な表象ではありえても、それを斃せば事態が革命的に変化するようなシロモノではない。権力には固定的な中心はなく、かくじつに「われわれ」をふくむ周縁があるだけだ。ドブの目をしたあの男は、陋劣な知性とふるまいで「われわれ」をいらだたせ、怒らせるとともに、「われわれ」をして社会心理学的に(かれを)蔑視せしめ、またそのことにより、「われわれ」が「われわれ」であることに無意識に満足もさせているのかもしれない。ところで、「われわれ」の内面には、濃淡の差こそあれ、ドブの目をしたあの男の貧寒とした影が棲んでいるのだ。戦争は、むろん、そう遠くない。そう切実にかんじられるかどうか。いざ戦争がはじまったら、反戦運動が愛国運動化する公算が大である。そう切実に予感できるかどうか。研ぎすまされた感性がいる。せむしの侏儒との「ふるいつきあい」がベンヤミンのなにかを決定した。そう直観できたアレントほどするどくはなくても、研ぎすまされた感性がいる。けふコビトがきた。ミスドにいった。(2015/11/11)

151116 一年前:141116「戦略的互恵関係」って言葉を使うな!/片山さつきの自民党にだけは絶対投票しない

2015年11月17日 01時38分42秒 | 一年前
11月16日(月):
◎今、俺が政治に望んでいること本当は、軽重を付けられないのだが、あえてすれば、
(1)第一課題 (2)第二課題
141116 「戦略的互恵関係」って言葉を使うな!/総選挙で「片山さつきの自民党にだけは絶対投票しない!」
11月16日(日):つれづれに思うこと。  この言葉は、明らかに間違っている。片山さつきのいる自民党は絶対信用できない。  憲法第25条) すべての国民は、健康で文化的な最低...

151116 リテラ:佐藤優も警告! 安倍政権と安保法制が国内にイスラム過激派テロを呼び寄せる

2015年11月17日 01時30分01秒 | 考える資料
11月16日(月):     

リテラパリのテロは日本も標的だった? 佐藤優も警告! 安倍政権と安保法制が国内にイスラム過激派テロを呼び寄せる  2015.11.15. 
  パリで発生した同時多発テロはやはりISの犯行だったようだ。日本時間14日夜、ISが犯行声明を発表、AFP通信は、劇場を襲撃した容疑者の一人が「オランド大統領のせいだ。シリアに手を出すべきではなかった」と叫んでいたという目撃者の証言を報じた。
  フランス軍は2014年からイラクでISへの空爆を行っており、今年9月27日には、はじめてシリア領内でISに空爆を実施していた。ようするに、今回のテロはこうしたシリア内戦へのISの報復だということだろう。
  しかもここにきて、今回の同時多発テロの標的に、日本も入っていた可能性が浮上している。昨日、本サイトではいち早く報道したが、日本食料理店が銃撃を受けていたことが明らかになったのだ。この件はフランスのフィガロやイギリスのデイリーテレグラフなどでも報じられ、かなり確度の高い情報と思われる。
  昨日は日本食料理店への銃撃情報自体を「デマだ」と攻撃していたネットの安倍親衛隊たちは、こうした報道に今度は「なんでもかんでも安倍さんのせいにするな」「たまたま一帯の食い物屋が狙われただけ」と、躍起になってテロと安倍政権の関係を否定している。だが、本当に日本は今回のテロと無関係なのだろうか。
  ISは今年1月、後藤健二さん、湯川遥菜さんの日本人2名を殺害した際、ビデオで安倍晋三首相を名指しし「勝ち目のない戦争に参加するというお前の無謀な決断のために、このナイフは後藤を殺すだけでなくお前の国民がどこにいようとも虐殺をもたらすだろう。日本の悪夢を今始めよう」と恫喝した。続けて、ISの機関誌「ダービク」電子版も2月13日に「安倍による思慮のない支援表明後は、すべての日本人と日本の施設が標的になった」とし、日本をもテロ攻撃の標的とすることを宣言している。今回の日本食料理店銃撃がこうした宣言を行動に移した結果である可能性は否定しきれないだろう。
  しかも、今回のテロがどうであれ、パリ同時多発テロはけっして安倍親衛隊が言うような日本と無関係なできごとではない。
  安保法制が強行採決されて自衛隊の中東派兵が現実味を帯びてきたことで、日本もこれから、ISなどイスラム過激派のテロの標的になるのは確実だからだ。それも海外の邦人にとどまらず、これからは日本国内で起きる可能性がある。
  実際、あの元外務省分析官の佐藤優も池上彰との対談本『新・戦争論 僕らのインテリジェンスの磨き方』(文春新書)のなかで、イスラム過激派に関する国内テロについて、以下のように指摘している。
  〈佐藤 (前略)日本で極端な思想をもつ人たちの受け皿が、かつてのような左翼過激派ではなく、イスラム主義になる可能性は十分にある。集団的自衛権で日本が中東に出て行った場合、向こうからすれば、イスラム世界への侵略だということになるわけだから、それに対する防衛ジハードとして、日本国内でテロが始まり得る。〉
  この言葉を受けて池上は、「イスラム国の兵士の約4割が外国人、国籍は70か国以上」という問題を取り上げ、〈こうなると、二〇二〇年の東京オリンピック開催時の治安対策も、これまで以上に難しくなるかもしれません〉と答えているが、2020年というのは甘いかもしれない。
  『イスラム聖戦テロの脅威 日本はジハード主義と闘えるのか』(松本光弘/講談社+α新書)によれば、〈テロリストは行動を通じて、世界と交信しようとしている。望むのは、「反応」を誘い出すことだ〉という。そのうえで著者は、〈(政府は)テロに対して強力、迅速に反応せざるを得ない。その反応がテロリストの味方コミュニティには、テロ・グループの存在と力の証明と映る〉と解説する。
  事実、2005年にイギリス・ロンドンで起こった同時爆破テロにしても、発生日がG8サミット開催の当日であり、前日には2012年オリンピック招致が決まっていた。そのことを考えると、国際的な注目度が高く、厳戒態勢を敷くなかでテロを起こすことは“力の証明”になり得る。
  そう考えると、やはり、安保法制によってISの敵国・アメリカとの同盟関係をさらに顕示した日本が、次なるテロのターゲットとなる可能性は極めて高い。2020年の東京オリンピックはもちろん、来年の伊勢志摩サミットなどもまた、テロリストにとって好ましい「反応」を引き出す、格好の舞台となるだろう。
  多くの専門家もまた、ISによる邦人人質殺害事件以降、高まる国内テロの可能性について語っている。たとえば「SAPIO」(小学館)15年3月号の記事「アメリカのイラク戦争が生んだモンスター「イスラム国」は東京の駅・空港を狙う」では、危機管理論が専門の大泉光一・青森中央学院大学教授が、国内テロについてこう警告する。
  「重火器の調達が難しいのでテロは起こしづらいという見方もあるが、日本で一般に入手できる薬物や黒色火薬で化学兵器・爆発物などを製造するのは十分可能。さらに、テロリストに国籍は関係ない。日本人や白人の若者がイスラム国に同調・加担する可能性を見るべき。そうした人物は日本国内にもいるし、海外から入国するのも容易い」(「SAPIO」3月号より)
  同様に、「週刊ポスト」(小学館)3月6日号の記事「在日米軍と考案が警戒する「東京テロ」の“本命ターゲット”」では、軍事ジャーナリストの黒井文太郎氏が現代テロリズムの手法についてこのように語っている。
  「現在、テロの主流となりつつあるのが『ローンウルフ(一匹狼)・テロ』です。テロ組織を支持・信奉する個人や小人数の仲間内だけで計画。“本体”の組織とは接触せず、独自の判断でテロを実行する。また海外の過激思想に共鳴した国内出身者が起こすテロを『ホーム・グロウン・テロ』と呼びますが、最近はこの2つの特徴を併せ持ったケースが急増している」
  「ローンウルフ型のテロリストはどこの国にもいます。通り魔犯的な犯罪者予備軍などがイスラム過激思想に感化され、テロリストに転じるケースも増える可能性がある」
  ようするに、テロを行う側の技術的・人材的ハードルは、一般的に思われているよりもはるかに低いのだ。こうした現代テロ事情を踏まえても、やはり、次は日本でテロ事件が発生するのは時間の問題のように思える。しかも、状況によってはあの福島原発事故レベルの被害を、人為的に起こすことすら可能なのである。また、今年6月、東海道新幹線で男が車内に灯油を撒き焼身自殺し、女性1人が死亡した事件が示したように、爆破物による新幹線テロも十分に現実的なシナリオだろう。
  いずれにしても、こうした危険性を飛躍的に増大させたのが、安倍政権の集団的自衛権と安保法制であることは間違いない。これは陰謀論でもなんでもなく、プラグマティックな外交戦術としても、安倍外交は明らかに時代遅れなのだ。
  中東を専門とする国際政治学者で、イスラム国人質事件の際の的確な分析・論評が注目を集めた内藤正典・同志社大学大学院教授も『イスラム戦争 中東崩壊と欧米の敗北』(集英社新書)で、まず、軍事力の行使や誇示は、対テロ戦争には役にも立たないどころか、さらなる危険を引き寄せるだけだと指摘している。
  〈日本にとっても、イスラム戦争は他人事でも、遠くの出来事でもありません。国内では安倍政権が集団的自衛権を容認し、その行使を主張しています。中東・イスラム世界で想定されるのは、アメリカが自国に対するテロの脅威があるという理由で集団的自衛権の行使を同盟国に呼びかけ、日本もそれに呼応して派兵するケースでしょう。東アジアでアメリカに守ってもらうのだから、中東で恩返しをしなくては──もしそのような発想があるならば、日本にとってだけでなく世界にとって途方もない危険をもたらすことになるのです〉
  〈日本で集団的自衛権の行使が議論され、海外への派兵の条件を緩和しようとしているさなか、世界の方が変わってしまったことに注意を向けなければなりません。日本が憲法にしばられて、自衛隊の海外派兵を躊躇している間に、軍事力の行使ではおよそ問題が解決しない方向に変わっていたのです。
  特に、イスラム世界で起きている現在の混乱において、軍事力の行使は、紛争解決に貢献しません〉
  〈非対称の戦争では、いったい、誰に向かって宣戦布告をし、誰が降伏文書に調印するというのでしょう。アルカイダを相手にしているときは、象徴的にビン・ラディンが宣戦布告の相手だったように見えます。しかしいまや、何人もの相手がいます。アルカイダのアイマン・ザワヒリも、タリバンのムッラー・オマルも、イスラム国のバグダーディもそうです。一人を殺害しても、また次が出てきます。しかも世界中から〉
  では、いったい日本はどういう道をとるべきなのか。内藤氏が挙げるのは〈フィリピン政府と南部ミンダナオ島などを拠点とするムスリムの武装組織であるモロ・イスラム解放戦線とが和平への包括的合意に達した〉例だ。
  2011年、両者の仲介を行ったのは日本政府で、JICA(国際協力機構)の緒方貞子氏やNGOが協力。〈少なくとも、武力とは無縁の国際協力が平和構築に有効であることを示しました〉という。
  〈アフガニスタンのタリバンでさえ、日本が軍を派遣しなかったことを理由に挙げて、和解のための会議に来ました。同じなのです。武力で強そうに見せることで、日米同盟の絆の強さをアピールすることと、武力は使わないと宣言して、対立している勢力の間に立って信頼醸成につとめ、平和構築に向かわせることと、どちらが現実的でしょう。日本人をグローバル化したいのであれば、世界の状況に謙虚に向き合うべきです〉
  だが、安倍政権は全く逆の方向を向いている。世界に向かって武力を誇示し、さらにテロを誘発するような外交戦略に次々打って出ているのだ。もしかすると、安倍政権はむしろ「テロ」を積極的に招き入れ、それを奇貨に、「緊急事態条項」を軸にした改憲世論を盛り上げるというシナリオを持っているのではないか。そんな陰謀論めいた不安さえ頭をもたげてくる。
  前出の内藤氏は同書の中で〈戦争が犠牲者を生み出し、怒りと悲しみを増幅させることは、これまでに起きた世界大戦も、今のこの戦争も同じです〉と語っている。卑劣なテロ、戦争の広がりを食い止めるためにも、安倍政権の自己陶酔的外交を食い止めなければならない。                            (宮島みつや)

151117 是枝裕和「「放送」と「公権力」の関係について」 ※金平茂紀氏が11月15日講演で推奨していた資料。

2015年11月17日 00時47分59秒 | 考える資料
11月17日(月):

腐り果てたかつての自民党ホープだった谷垣貞一幹事長が、頓珍漢に噛みついて自ら恥をさらしていたBPO意見書に関する資料です。

「放送」と「公権力」の関係について
~NHK総合「クローズアップ現代」“出家詐欺”報道に関するBPO(放送倫理検証委員会)の意見書公表を受けての私見~
   2015年11月7日

少々長いサブタイトルになったことをまずご了承ください。
以下、本文もちょっと長いですが、出来るだけわかりやすくまとめますので、我慢して最後まで読んでいただけると嬉しいです。これは主には放送に携わる皆さんへ向けての文章になります。

はじめに
11月6日にBPOの委員長及び委員による記者会見が開かれ意見書が公表されました。僕の予想が正しければおそらく当事者であるNHKはともかく、他局のニュースの多くは意見書の中で述べられた「重大な放送倫理違反があった」という委員会の判断について大半の時間を割いているのではないでしょうか。(といっても2、3分のことだとは思いますが)
ここぞとばかりにNHKを叩き、「クロ現」はつぶしてしまえと声高に叫ぶ人たちの顔も何人かは浮かびます。もちろん意見書はそのような主張を支持するものではありませんが。

もうひとつの指摘
番組の「倫理違反」の指摘も大変大切ではありますが、実はもうひとつ今回の意見書では重要な指摘を行っています。
それは「おわりに」の中で述べられた公権力による放送への介入についての部分です。(ご興味とお時間のある方はBPOのホームページをご覧下さい。全文がアップされているはずです)僕の危惧が杞憂に終わっていれば良いのですが、この2つ目の指摘がいろいろな思惑からメディア自身によってスルーされるのではないかという不安からペンをとることにした次第です。
意見書の中でも触れていますが、今回問題を指摘された2014年5月14日放送の「クローズアップ現代」に対しては総務大臣の厳重注意や自民党の情報通信戦略調査会なるものから放送局に対して事情聴取が行われました。
それらの要求を拒否するのか、のこのこ出向くのかは主には放送局自身の判断によるべきものだとは思います。にもかかわらず放送局にとっては部外者でしかない僕があえてこの一連の公権力と放送局の関係を巡る事案に対して個人的に声をあげようと思ったのは、別の(根は同じなのですが)ある発言がきっかけになっています。

「放送法」「お手盛り」「独立機関」
それはこの「戦略調査会」の会長である川崎二郎議員が「報道ステーション」での古賀茂明さんの「菅官房長官による番組への圧力」発言と、今回の「クローズアップ現代」について言及したものでした。

発言は今年の4月17日付です。新聞やネットに発表された発言の要点を簡潔に紹介します。

「ふたつの番組は、放送法の(禁じる)真実ではない放送がされていたのではないか。真実を曲げた放送がされるならば、それは法律に基づいて対応させてもらう。独占的に電波を与えられて放送を流すテレビ局に対して、例えば停波の権限まであるのが放送法だ。(報道ステーションの中で)名誉を傷つけられた菅義偉官房長官がBPOに訴えることになれば、それは正規の方法だ。BPOが「お手盛り」と言われるなら少し変えなければならないという思いはある。テレビ局がお金を出し合っている機関ではチェックができないならば独立した機関の方がいい」

発言が僕も所属するBPOに直接言及されているので、これはさすがにスルーすることは出来ない。機会があればBPOを通してか、もしくは個人的にきちんと反論をしておくべきだと考えていました。少し遅くなりましたがBPOの公式の意見書発表を待ったほうが良いだろうと判断したためなのでお許しください。

さて、ここで川崎会長の使った「放送法」「お手盛り」「独立した機関」という言葉についてちょっと自分なりに考えてみたいと思います。

「不偏不党」は誰の義務なのか?
まず放送法です。そもそもこの法律そのものが「憲法違反」の疑いが色濃い部分も多々あって(特に21条〈自由の表現〉)運用面ではかなり注意が必要なのですが、ひとまず今回はその点については触れません。
別の機会に譲ります。 今回注目したいのは意見書の「おわりに」でも触れた第1条です。第1条ですから、もちろん一番大切なことがここには記されています。
どんなことが書かれているか?
第1条二号にはこうあります。
「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによって、放送による表現の自由を確保する」
ややわかりにくい表現かも知れませんがここで述べられている「不偏不党」を「保障」する主体は明らかに公権力です。放送事業者に「不偏不党」を義務付けているのではありません。
それは憲法21条や23条(学問の自由)等の保障の主体が公権力であるのと同じです。そして、電波三法の成立にまでさかのぼって調べてみればその主張の根拠がよりはっきりします。

1950年1月24日に開かれた第7回国会「衆院電気通信委員会 電波三法提案理由説明」の中で政府委員の綱島毅電波監理庁長官が行った提案理由説明にはこうあります。

「放送番組につきましては、第1条に、放送による表現の自由を根本原則として掲げまして、政府は放送番組に対する検閲、監督等は一切行わないのでございます。放送番組の編集は、放送事業者の自律にまかされてはありますが、全然放任しているのではございません。この法律のうちで放送の準則ともいうべきものが規律されておりまして、この法律で番組を編成することになっております。」
(日高六郎編『戦後資料 マスコミ』日本評論社. 118頁)

保障するのは誰なのか?
つまりどういうことかと言うと、第1条は放送従事者に向けられているのではなく政府(公権力)の自戒の言葉であることを、政府自らが明らかにしているんですね。
なぜそんな自戒の規定が必要だったかと言えば、それは放送という媒体がその成り立ちや電波という物理的性格からいって公権力の干渉を招きやすいメディアであるからなのです。敗戦の5年後にこの議論が行われていることに注目しなくてはいけません。つまりは「公権力」と「放送」が結託したことによってもたらされた不幸な過去への反省からこの「放送法」はスタートしているわけです。
放送法のこの条文を前後も含めてもう少しわかりやすく現代語訳するとこうなります。

「我々(公権力)の意向を忖度したりするとまたこの間みたいな失敗を繰り返しちゃうから、そんなことは気にせずに真実を追求してよ。その為のあなた方の自由は憲法で保障されてるのと同様に私たちが保障するからご心配なく。だけど電波は限られてるから、そこんとこは自分たちで考えて慎重にね。」

このあたりの考え方にどの程度アメリカの思惑が反映しているのかは研究の必要があるかとは思いますが、これはこれで民主主義の成熟の為に「権力」が「公共」に対して示すべき大人の対応だと思います。

誰が放送法に違反しているのか?
「私見」と見出しには書きましたが、このあたりの解釈、考え方は僕個人のものではありません。
95年に出版された“放送倫理ブックレットNo.1『公正・公平』のなかの「憲法と放送法 - 放送の自由と責任」”という清水英夫(青山学院大学名誉教授〈当時〉)さんの文章からの受け売りです。この小冊子は1993年に、テレビ朝日のいわゆる「椿発言」を巡って当時の放送局の報道局長に対して国会で証人喚問が行なわれる事態に至った「放送と公権力」の緊急事態を踏まえた上で執筆、出版されたものです。
清水さんはこうも言っています。
「論者の中には、この放送法一条二号の規定は、公権力のみならず放送事業者の義務をも定めたものだ、という見解がないわけではない。しかし、放送法一条二号をそのように解釈すべきでないことは、憲法的見地のみならず、放送法の立法過程からも、きわめて明らかである」と。

今回のBPOの意見書で述べられている公権力と放送の関係についてのスタンスも、大旨この清水さんの見解に添ったものになっていると思います。
繰り返しますが「不偏不党」は放送局が求められているのではなく、「公権力」が放送局に保障しているのです。安易な介入はむしろ公権力自身が放送法に違反していると考えられます。にもかかわらず、そのこと自体を公権力も多くの放送従事者もそして視聴者も逆に受けとってしまっていることから、一連の介入が許し許されている。公権力はあたかも当然の権利であるかのように「圧力」として、放送局は真実を追求することを放棄した「言い訳」として、「両論併記」だ「中立」だなどという言葉を口にする事態を招いているのです。
作り手にとって「不偏不党」とは何よりもまず、自分の頭で考えるということです。考え続けるということです。安易な「両論併記」で声の大きい人たちから叩かれないようにしようなどという姑息な態度は単なる作り手の「思考停止」であり、視聴者の思考が成熟していくことをむしろ妨げているのだということを肝に銘じてください。放送を巡る不幸の原因がそこにあるのだということを、まず作り手が理解することです。
少なくとも「放送法」をその成り立ちまで逆のぼって読み理解しようとすれば、政治家が安易に「停波」などというおどしの言葉を口にすることはないはずです。そもそもこの川崎委員長が口にした停波の権限は確かに電波法の第76条に記されたものですが、これが放送番組の内容の是非を巡って「行政罰」と結びつけて解釈されることはない、というのが議論を重ねてきた学界の通説です。

例えば、元総務省事務次官の金澤薫さんは『電波法の76条に基づく処分は、放送法3条に「放送番組編集の自由」が規定されこれを踏まえて「自主規制を原則とする」ことが法の趣旨になっている以上、形式的には可能だが現実的には適用できない』(要約)と述べています。放送への介入の権限を監督省庁である自らに認める立場をとってきた総務省でさえ、これがぎりぎりの認識です。
(放送法と表現の自由~BPO放送法研究会報告書~ P.85より)

だから、総務大臣でもない川崎(二郎)さんが、いったいどのような権限に基づいて局員を呼びつけたり「停波」を口にしているのか僕にはその根拠が皆目わかりませんが、もしかすると、この人はそのような歴史の積み重ねを知らないふりをしているか、そもそも無知なのかどちらかでしょう。
ここでもう一度強調しておきたいことは、放送従事者は「不偏不党」という言葉によって自らの手や足をしばり耳や口をふさぐ必要はないということです。逆です。これは「憲法」と「公権力」と「私たち」の関係と同様に捉えるべきものなのです。そのことを是非理解した上で番組制作にあたって欲しいと思います。

誰が誰から独立するべきなのか?
次にBPOが「お手盛り」でチェックが甘くなるのなら「独立した機関」にしたら、という趣旨の発言について考えてみましょう。この「独立」とはどういうことか。恐らく放送を教育同様、公(パブリック)から独立(離脱)させ国(ナショナル)の元に取り戻すという、現政権が、あらゆる分野で行なっている取り組みと同趣旨のものでしょう。これが具体化されるとBPOには政府関係者(元総務省官僚等)の天下りが政府と一体化した委員として送り込まれることになるはずです。もし、そんなことを受け入れたらそれこそ公権力に対する「チェック」が「お手盛り」になるという民主主義の根幹を揺るがす事態が今以上に進行してしまうことはNHKの会長人事を見れば火を見るより明らかでしょう。放送が「国営」ではなく「公共」であることの意味を真摯に考えるならば独立させなければいけないのは放送局とBPOの関係ではなく明らかに権力と放送局の方でしょう。実質的に「予算の執行権」を握られているような(NHKのケース)力関係ではチェックが「お手盛り」になる危険性を排除できませんから。しかし、もし公権力だけにとどまらず、視聴者も、つまりは国民の総意として「公共」放送を目先の「国益」を最優先に考えるような価値観に染め上げられた「国営」放送=大本営発表にすることを望むのであれば、話しは違ってきます。僕は望みません。現行の放送法も少なくともそのような「放送」を支持していない。なぜならそれは放送局が自主と自律を自ら放棄することを意味するからです。一制作者としてもBPOの委員としても不満はいろいろありますが、今までの放送法を巡る議論の歴史的な経緯を踏まえ、その趣旨を理解した上でお互いに慎重に運用していくべきだと、ひとまず思います。

BPO=政治倫理審査会?
BPOが「お手盛り」ではないことの証明は、ここで僕が口で否定するよりはやはり今回のような「意見書」を公表して、放送局の自主自律をきちんと支え、ある時は監視し、ある時は応援するということを続けていくことで示すしかないでしょう。
その為の努力はしているつもりでいます。今回の意見書は力作です。是非、読んでみて下さい。
少なくとも私たち検証委員の中には放送局の局員や関係者はひとりもいません。番組制作会社出身の僕が最も局とは利害関係が強いかも知れませんけれども。例えば政治家の倫理を審査する為に国会に設置された「政治倫理審査会」と比べてみるとわかりやすいのではないでしょうか。
この審査会で政治家が“行為規範”等の規定に著しく違反し、道義的責任があると認められた場合、委員の3分の2以上の賛成で一定期間の登院自粛や国会役職辞任などを勧告できるとされています。
しかし、1985年の設置以来30年間!ただの一度もこうした勧告は行われておりません。ただの一度もですよ。なぜでしょう。勧告が行われない理由は3つ考えられます。日本の政治家がとても倫理的であるか?規範がユルユルなのか?審査が「お手盛り」なのか?果たしてどれでしょうか。
政倫審のメンバーは同業者(政治家)です。よっぽど倫理的な議員ならともかく、多くの方々は「明日はわが身」と考えたらそりゃあ処分どころか勧告すら出せないでしょう。今こうやって書いていて驚いてしまいましたが、これを「お手盛り」と言わずして何をお手盛りと呼ぶのでしょうか。
お互いにチェックが甘くなるのであればやはり同業者をメンバーから排除した「独立した機関」にするべきなのではないかと逆に提案させていただきますが、いかがでしょう。せめてBPO程度には。

おわりに ~駆け込み寺ではなく防波堤として~
少なくともBPOは番組倫理検証委員会だけでも今年3つの意見、見解を公表しています。放送局はその提言を受けて3ヶ月以内に改善策を提出する義務を負いますし、その番組に関わった局員に対しては停職や減棒を含む処分も下されます。これが僕が所属していたような番組制作会社だったら、もっと厳しいですよ。会社がつぶれることだってありますし、業界から事実上追放されるスタッフもいます。ある意味、このような厳しい自浄作用、淘汰はそれこそ限られた電波というある種の権力を手にする以上は仕方ないことだと僕は考えています。視聴者の目が厳しくなるのも当然でしょう。そのあらゆる方面からの批判に耐えられるだけのタフさと、ある種の鈍感力が、今の放送人には必要とされるのかも知れません。

最後は何だか皮肉っぽくなってしまいました。直接執筆したわけではないのですが、公表された「意見書」の中で「放送」と「公権力」に関する重要な見解を表明できたことを、同じ委員会に所属するメンバーとしてちょっぴり誇りに思っています。
BPOは総務省の代りに番組に対して細々とダメ出しをすることを目的とする組織だと思っている人は放送局の中にも多いとは思います。しかし、それは誤りです。もちろんダメ出しはします。ただ、それはあんまりいい加減なことをしていると放送の自主自律がおびやかされるからなのであって、本来の意味は公権力が放送に介入することへの「防波堤」だと僕自身はずっと認識してきました。
近年BPOには政治家や政党から、番組内で自身や自身の主張が一方的に批判されたり不当に扱われており放送法に定められた「政治的公平」に反しているといった異議申し立てが相次いでいます。自分たちを批判するコメンテーターを差し替えろなどといった番組内容に直接言及するような要求までなされています。
BPOは政治家たちの駆け込み寺ではありません。ここまで僕の文章を読んでいただいた方はもうおわかりだと思いますが、保障するべき立場の政治家たちが 「政治的公平」を声高に訴える行為そのものが、放送(局)の不偏不党を、つまりは放送法を自ら踏みにじることなのだという自覚の欠如を端的に示しています。
「批判を受けた」放送人が考えなくてはいけないのは、批判の理由が果して本当に公平感を欠いたものだったのか?それとも政治家にとって不都合な真実が暴かれたからなのか?その一点につきるでしょう。後者であるならば、まさに放送法に記されている通り、誰にも邪魔されずにその「真実」を追究する自由は保障されていますし、BPOもそんなあなたの取り組みを全面的に支持するでしょう。
今回の意見書には、そんなBPO本来の姿がいつにも増して表明されていると思います。憲法ほどではないにせよ放送や「放送法」にも積み重ねてきた議論の歴史というものがあります。それをしっかりと理解することで、番組制作者はより自由を手にすることが出来る。それは公権力の介入に抗する自由です。もちろん、その自由を獲得するためには放送人ひとりひとりに不断の努力が求められることは明らかです。それこそが「自主、自律」なのですから。

以上です。
僕はこれを、同業者である放送人へのエールとして書きました。
最後まで読んでいただいたみなさま、ありがとうございました。

                                   是枝裕和

150329 タガ外せば歯止め失う 長谷部恭男・早稲田大学教授/「未来志向」は現実逃避 杉田敦・法政大学教授

 杉田 先日ドイツのメルケル首相が来日しました。戦後ドイツも様々な問題を抱えていますが、過去への反省と謝罪という「建前」を大切にし続けることで、国際的に発言力を強めてきた経緯がある。「建前」がソフトパワーにつながることを安倍さんたちは理解しているのでしょうか。  / /長谷部 そもそも談話が扱っているのは、学問的な歴史の問題ではなく、人々の情念が絡まる記憶の問題です。記念碑や記念館、映画に結実するもので、証拠の有無や正確性をいくら詰めても、決着はつかない。厳密な歴史のレベルで、仮に日本側が中国や韓国の主張に反証できたとしても、問題はむしろこじれる。相手を論破して済む話ではないから、お互いがなんとか折り合いのつく範囲内に収めようと政治的な判断をした。それが河野談話です。  / /杉田 談話の方向性や近隣との外交について「未来志向」という言い方がよくされますが、意図はどうあれ、それが過去の軽視という「見かけ」をもってしまえば、負の効果は計り知れない。安倍さんたちは、未来を向いて過去を振り払えば、政治的な自由度が高まると思っているのかもしれません。しかし政治の存在意義は様々な制約を踏まえつつ、何とか解を見いだしていくところにあります。政治的な閉塞(へいそく)感が強まる中で、自らに課せられているタガを外そうという動きが出てくる。しかし、それで万事うまくいくというのは、一種の現実逃避では。  / /長谷部 合理的な自己拘束という概念が吹っ飛んでしまっている印象です。縛られることによってより力を発揮できることがある。俳句は5・7・5と型が決まっているからこそ発想力が鍛えられる。しかし安倍さんたちは選挙に勝った自分たちは何にも縛られない、「建前」も法律も憲法解釈もすべて操作できると考えているようです。  / /杉田 俳句は好きな字数でよめばいいのだと。  / /長谷部 あらゆるタガをはずせば、短期的には楽になるかもしれません。しかし、次に政権が交代したとき、自分たちが時の政府を踏みとどまらせる歯止めもなくなる。外国の要求を、憲法の拘束があるからと断ることもできない。最後の最後、ここぞという時のよりどころが失われてしまう。その怖さを、安倍さんたちは自覚すべきです。 =敬称略(構成・高橋純子)朝日新聞『考論』

0015 オルテガ「大衆の反逆 (桑名一博訳;久野収解説)」(白水社イデー選書;1930)評価5

以下は、オルテガ所論の久野収による抜粋の抜粋である:///  オルテガによれば、政治のなかで「共存」への意志を最強力に表明し、実行していく政治スタイルこそ、自由主義的デモクラシーである。共存は、強い多数者が弱い少数者に喜んで提供する自己主張、他者説得の権利である。敵、それも最も弱い敵とさえ、積極的に共存するという、ゆるがない決意である。/その意味で、人類の自然的傾向に逆行する深いパラドックス(逆説)であるから、共存を決意した人類が、困難に面してこの決意を投げ出すほうへ後退したとしても、それは大きな悲劇ではあっても、大きな不思議とするには当たらない。/「敵と共存し、反対者と共に政治をおこなう」という意志と制度に背を向ける国家と国民が、ますます多くなっていく1930年代、オルテガは、「均質」化された「大衆」人間の直接行動こそが、あらゆる支配権力をして、反対派を圧迫させ、消滅させていく動力になるのだという。なぜなら、「大衆」人間は、自分たちと異類の非大衆人間との共存を全然望んでいないからである。略。///  「大衆」人間は、自分たちの生存の容易さ、豊かさ,無限界さを疑わない実感をもち、自己肯定と自己満足の結果として、他人に耳を貸さず、自分の意見を疑わず、自閉的となって、他人の存在そのものを考慮しなくなってしまう。そして彼と彼の同類しかいないかのように振舞ってしまう。/彼らは、配慮も、内省も、手続きも、遠慮もなしに、「直接行動」の方式に従って、自分たちの低俗な画一的意見をだれかれの区別なく、押しつけて、しかも押しつけの自覚さえもっていない。/彼らは、未開人―未開人は宗教、タブー、伝統、習慣といった社会的法廷の従順な信者である―ではなく、まさに文明の洗礼を受けた野蛮人である。文明の生み出した余裕、すなわち、贅沢、快適、安全、便益の側面だけの継承者であり、正常な生存の様式から見れば、奇形としかいいようのないライフスタイルを営んでいる新人類である。略。///  「自分がしたいことをするためにこの世に生まれあわせて来た」とする傾向、だから「したいことは何でもできる」とする信仰は、自由主義の自由の裏面、義務と責任を免除してもらう自由にほかならない。/われわれは自由主義の生みだした、この「大衆」人間的自由、自己中心的自由に対し、他者と共存する義務と責任をもった自由を保全しなければならないが、一筋縄でいかないのは、この仕事である。(160626:イギリスEU離脱について思うところ=もみ=)