日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

仕事雑感・・・

2013-12-22 08:45:16 | Weblog
 平成25年12月21日(土)、天草市本渡にある(私気に入りの)宿泊先に16時前に着きました。
 私達が気に入っている宿泊先の予約・・・平日では、殆ど取れていたのですが、小児科1人体制になって、平日に宿泊することが出来なくなり、急に土曜宿泊となるとかなり前からでないと難しくて・・・今回、やっと取れましたが・・・。
 久し振りに、故郷に帰ってゆっくりした気分になりました。「角風呂」に独りでゆっくり入って、無の境地でしばらくいましたが・・・?!
 この日、夕食後にテレビを見ていると、(ソチ五輪代表最終選考会となる)アイスケートの全日本選手権の男子ショートプログラム(SP)があっていました。
 羽生結弦(ANA)、町田樹(関大)、小塚崇彦(トヨタ自動車)、高橋大輔(関大大学院)の順となっていて・・・ちょっとしたミスが命取りって感じですね。
 羽生は、伸び伸びした滑りで(←楽しみながらって感じで)、非公認ながら、自身の持つ世界歴代最高得点を更新する103.10点を叩き出し、町田も、ほぼ完璧な滑りに・・・小塚・高橋は、悔やまれる滑りをしていましたが・・・それも実力かも知れませんね。過去にどんなに素晴らしい実績があっても、直前の練習でどんなに上手く出来ていても、本番で出来なければ、選考からもれますから・・・(入学試験と同じですね・・・?!)。
 特に、スポーツでは、競技の種類にもよりますが、年齢のハンディは、(個人差はもちろんありますが)次第に大きくなってきますね。大相撲の世界では、相撲界を去っても、他の社会でちゃんとやっていける様にと、教育している様ですが・・・?!
 スポーツや芸術やモノ書きなどでプロとして食べていくとなると、そこには凄い競争が待ち受けていて、それだけで食べていける人は、ほんの一握りですね。
 ハングルでは、仕事を「イルil」と言い、数字の1の言い方と同じです。韓国では、仕事が一番と考えているのかも知れませんね・・・?!
 日本では、今、労働人口の減少が既に起きていて、問題化されていますが、かって「働かざる者食うべからず・・・」と言った人もいましたが・・・働くとは、傍を楽にさせること(傍楽=働く)で、そう考えると、社会に役に立つ事をすることは、働くこと=仕事だと私は思っています。
 ボランティア活動も、ニコニコして笑顔で人に接することも、ゴミを拾って歩くことも、仕事だと思っています。どんな状況にあっても(もちろん、歳を取っても)、その人なりに出来る仕事は必ずあるはずだと思っています。

http://www.youtube.com/watch?v=gf89wpBp1e8


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忘年会・・・

2013-12-21 10:52:26 | Weblog

 平成25年12月20日(金)、(上天草市立上天草総合病院の外来主催の)「忘年会」が、上天草市大矢野町でありました。迎えのバスが来て、(17:00からの患者さん3人を診た後に)18:00に(慌てて)病院を出発しました。
 宴会場は貸切で、50人近くが、21:00まで楽しく歓談しました。話のグループの「輪」がいくつも出来ていて、皆、最後まで喋り続けているって感じでしたが・・・?!
  マイケルジャクソンの「ムーンウォーク」を披露していたドクターもいましたが・・・?!
 最後に、私の篠笛による「ジングルベル」(←手拍子が起きて、盛り上がりましたが・・・)と(瞬間的に紙が5000円になる)「手品」(←終わると、又、あるドクターが紙を持って来て、jこれをお金に変えてと・・・)と拍子木による「一本締」でバチッと(?!)終わりました。
 二次会もありましたが(←いつもあり・・・)、行かずに(←時々参加)、愛妻の元に早く帰りました。
 21日(土)は、午前中だけ診療で、後は、23日(月)の夕方まで休みで、その間、天草の本渡に行き、家内と忘年会をします(←年賀状書きが中心になるかな・・・?!)。

http://www.youtube.com/watch?v=etSvx_lAlpI(行き)
http://www.youtube.com/watch?v=9mvjuPKMQDA(帰り)

http://www.youtube.com/watch?v=rODGhH4EasY(←ジングルベル、こんな感じでしたが・・・)

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趣味人間の人生の全て(その15)

2013-12-20 15:50:25 | Weblog

 「海外生活:イタリア→カナダ」

 2005/4/18~5/18の1カ月、イタリアのフィレンツェに滞在して、イタリア語の語学学校に通いました。
 「フィレンツェ」・・→とても素晴らしい所で、名所が凝集していました。それに、私が行った時期が最高でした。5月のフィレンツェは、何処を見ても絵になりますね。
 学校の講義も、充実していました(←日本人が少し多い感じでしたが)。学校は楽しくて良かったのですが・・・宿泊先が・・・→(他の人に尋ねると、多くの人が)ホームステイの人がとてもフレンドリーで、接する時間が長くて、イタリア語の会話がはずんでいた様でしたが・・・私の場合は、家の人は朝早くからの仕事で不在で、帰って来ても夜遅い時間帯で、お互いに殆ど会話がありませんでした。
 ある日の朝、その前日に買っていた美味しいピザを速い速度で食べた関係で、(生まれて初めて)「胃痙攣」を経験しました。とても苦しくて、どうなるかと思って・・・その時、自分以外誰もいなくて・・・救急病院にどうやれば行けるのかなどと考えたりしていましたが・・・幸いに、しばらくして(←かなり長く感じましたが)、嘘の様に急に治まりました。
 又、歯科に(プラスティックでした?)インプラントの歯の一部が欠けて受診しました・・・そこで、日本の医療の素晴らしさを強く感じました。
 タイのチェンマイでも、(セラミックス?でした)インプラントの歯の一部が欠けて受診しましたが・・・。
 又、演奏を機会があればしようと思って、わざわざ太鼓を持って行ったのですが、(タイで約束していた人が来なかったこともあって)その機会がなく、太鼓を全く打つことなく、太鼓をあげてきましたが・・・。
 アチコチ行くのに私の分身って感じで持ち歩いていた愛用の「トランク」が、ここに来て壊れてしまって、 いいトランクを見て回って、(中国製品で)イタリア製品よりも遥かに安い値段で売っていたのを買ってしまいましたが・・・→日本に着いた時には、そのトランクの鍵が無残にも「壊れてしまっていて、ロープで巻かれていましたが・・・。
 フィレンツェでは、14時(?)過ぎると、イタリア料理店の多くは、夕方までずっと閉まっていたので・・・→中華料理店(←いつも利用出来て、安かったので・・・)で食事を摂っていたのですが・・・隣の部屋に同じ学校に通う(絵を描く)男性がいて・・・彼が難なく食事を作っているのを見て、自分もそれに次第に感化されて・・・スーパーで食材を買ってきて、自分で調理する様になりました。(→この時から、私の料理の腕が進化して行きましたが・・・?!)
 フィレンツェ滞在中、同じ教室に通う(コックの)日本の男性と二人で、「ローマ」に行きました。又別の日に、「シエナ」にも行きました。「ローマ」と「シエネ」、とても良かったです!又、観光バスで、「ピサの斜塔」を見に行きました。直に斜塔を見て、感動しました。
 フィレンツェは、水不足って感じで、トイレの水も風呂の水も、不足気味で、ジャンジャン出せませんね。(←オーストラリアに行った時もそうでしたが・・・) ・・・いろいろ経験しましたが、やはり、イタリアだなと思ったのは、イタリア人の着こなしですね・・・警察官も、どの店の男性も、決まっていましたね。

 2005/6/11~7/31の1カ月半余、英語研修の為に、カナダに滞在しました。初めに「バンクーバー」にホームステイして、語学学校に通いました。ホームステイの人、日本に留学経験があり、日本人の気持ちがよく分かっていました。「ホントにいいの?」って感じで、何度か確認されましたが・・・。
 バンクーバー滞在中、「ヴィクトリア」に独りで行って、2泊しました。この「ヴィクトリア」正に、常に花が咲いていて、夏涼しく冬温かく、”地上の楽園”と思いました。(ヴィクトリアの姿を知って・・・→次に英語の勉強に来るのだったら、ヴィクトリアが一番いいと思いました。この時点で、バンクーバーは、島にはなくて、ヴィクトリアがバンクーバー島にあって、生態系がバンクーバーのそれとはまったく違っていると言うことを初めて知りました。)
 バンクーバーに3週間滞在した後に、トロントの「トロント大学」の寮で過ごしました。「トロント大学」だけあって、教育がしっかりしていました。・・・キチンも立派で・・・→フィレンツェで身に付けた腕で、しばしば、私なりの食事を作って、楽しく過ごしました。
 セキュリティがしっかりしていて・・・同じコアに男性が4人住んでいて(残り3人は、カナダ人のトロント大学の学生)、トイレ・バスが2ヵ所あり、快適でした。
 トロント滞在中、独りでモントリオールに2泊、ケベックに2泊して、一生残るいい思い出が出来ました。

*写真の1枚目は、ヴィクトリアからバンクーバーまで帰る時に生まれて初めて乗った「水上飛行機」です(行きは、バスで)。2枚目は、「ブルーマン」と一緒に撮った写真です。3枚目は、トロント滞在中に、学校主催でバスで行った「ナイアガラの滝」です(→イチローのプレイも、学校主催で見に行きました)。

http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20060726/8(フィレンツェ紀行)
http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20070504/5(フィレンツェ)

http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20060730/1(カナダ紀行)
http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20070505/2(ヴィクトリア)
http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20060727/4(モントリオール紀行)
http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20060727/5(ケベック紀行)

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趣味人間の人生のすべて(その14)

2013-12-20 11:16:23 | Weblog

 「海外生活:バングラデシュ→インドネシア→マレーシア」

 年末・年始は、医師になって初めて(!)休みました。12月31日と1月1日、共に休んだのは、医師になってこの時だけですが・・・(←今からも、まだ、しばらく、年末・年始の診療を続けるつもりですが・・・?!)。

 2005/1/22~2/8、イスラムの国であるバングラデシュのダッカで(ベンガル語を2年近くみっちりと教わったAPUの学生さんの家で)ホームステイをしました。
 ダッカ空港を一歩外に出ると、グルッとモノ売りの子ども達に囲まれました。用意した車に乗るまで、ずっとまとわりついて来て、ビックリしました。
 滞在中、アチコチに連れて行ってもらいました。ダッカ大学の付属病院内にも入ってみました。人人人って感じでした。民間病院も見学しました(←ホームステイの娘さんが、産婦人科医としてそこに勤めていた関係で)。
 今年出版された本の中に、世界の140の都市の中で、住み易い所として、バングラデシュのダッカが、最下位の140位にランクされていましたが・・・ダッカでは、見ると直ぐに、その人の経済的格差が分かる感じで、上位は、車を持っている人(1割?)、下位では、電気も付かない家もあり(5割?)ですが、中位は、電気もしっかり付き(しばしば昼間に停電していましたが・・・)、冷蔵庫もテレビも新聞もあり、それに、家政婦さんが2~3人いました。
 イスラムの教えと思われますが、外部から来た人に、無償でトコトン歓迎する精神、凄いなと思いました。
 確かに、アチコチに、銃を持った憲兵がアチコチ立っていて、治安面で問題があったり、ゴミが散らかってない道路はない感じでしたが・・・リサイクルは、徹底している感じでした。人が何処に行ってもとても多い感じで、人の動きが速く、そんな中で、多くの子ども達の目は、何故か、私には、日本の子ども以上に輝いて見えました。
 結婚式や学校や施設で、篠笛・和太鼓の演奏をしましたが、ダッカの子ども達、異文化にどう反応していいのか分からない感じにも思えましたが・・・?!
 ダッカから日本に直接帰ることなく、そのまま、2005/2/9~2/17、マレーシアのクアラルンプールに滞在しました。開発途上国とのイメージで行ったのですが、全く反対で、近代建築がずらりと並び、日本の都会と同じ(それ以上?)って感じでした。
 マレーシアのタクシーの運転手さんは、全て英語を話せる感じで、私がインドネシア語(マレーシアでは、インドネシア語が充分に通じますが・・・)で話すと、日本人でマレーシアに旅行に来て、インドネシア語を話す人に会ったのは初めてだと言われました。
 マレーシアに宿泊したホテルでは、朝の食事中に1回だけ、篠笛演奏をさせてもらいましたが、あまり反応なしって感じでした・・・?!
 クアラルンプールは、きれいな街ですね。キャメロンハイランドに2泊しましたが・・・→日本で花粉症に悩んでいる人にとっては、あまり暑くなくていい所ですね。

 2005/3/1~3/31の約1カ月間、インドネシアのバリ島の「サヌール」に滞在しました。「クタ」が観光の中心となっていますが・・・治安の関係で、安全と思われる「サヌール」にしたのです。
 滞在中、テロの噂がずっと流れていました。「クタ」には、タクシーで1度だけ行き、爆破された所にも行きました。
 有名な「ウブド」で2泊しまいた。そこで見た「バリ舞踊」、手足の先から目の動きまで、凄いですね。(←タイ舞踊も凄かったですが・・・)
 バリ島には、日本が真夏の時に来るべきだったと思いました。この時、超暑くて、正午前後は、5分間も外にいると、汗がドッと出て来ていました。現地の人も、今年はホント暑いと言っていましたが・・・。
 インドネシア語を英語で教えてくれる人を探しましたが、いませんでした。仕方なく、現地の人皆が先生と思って、出来るだけインドネシア語で話して過ごしました。年に1度の「ニュピ」を経験しました。
 タイのチェンマイで月に10万もあれば、リッチな気分で生活出来、インドネシアのバリ島の中心地「デンパサール」では、その半分の5万で、(インドでは、3万で、中国の奥地では更にその半分で?!)生活出来そうですが・・・?!
 バリ島の人々、全てが宗教に密着して生きているって感じに思えてなりませんでした。
 
http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20060727/3
http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20091001/2

*写真は、ダッカの附属病院の救急外来と民間病院とダッカの街中で演奏している私(2004は、2005の間違い)。

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趣味人間の人生の全て(その13)

2013-12-19 15:25:04 | Weblog



 「海外生活:タイ→ニュージーランド→韓国」

 トルコのイスタンブールから出発の予定でしたが、トルコ語を教わった(クシャダス出身の)先生がトルコに帰れない状態になった結果、急遽、タイのチェンマイになりました。タイに行くことも、予定に組んでいたのですが、早まった訳です。
 2004/9/5~10/22、1カ月半余、タイ語の先生の父親から探してもらったゲストハウスにずっと宿泊しました。
 暑かったです!こんなに暑いとは思ってもみませんでした。それと、モノが安かったです!こんなにホントに安いとは思いませんでした。
 1泊朝食付きで300バーツで、日本円だと1000円足らず、1カ月住んでも3万円足らずです。冷暖房付きの水洗で、テレビもあり、ゲストハウスなので、いろんな国の人と知り合いになり、有意義でした。
 タイ語も、現地で30回ほど、教わりました。1日1日タイ語が上達している自分を知って、嬉しくなりました(帰る時には、殆ど、タイ語で話していましたが・・・?!)。
 チェンマイでは、月に10万もあれば、メイドさん付きで、いいアパートに住んで暮らせますね。しかし、問題は、そこで何をするかですね・・・?!
 朝の3時頃まで飲み歩いている日本人もいました。夫婦で10年近くタイに住んでいるのに、タイ語が殆ど話せない人もいました。エイズにある村の男性が全員罹患して、その村から男性がいなくなった話や、殺し屋を請け負う人がいて、お金を払うと、その人がいなくなった話や(単に遠方に行ってしまったのでは・・・?!)、日本人がちょっと留守をしている間に盗難に遭った話(←遠方に行く時、周りに留守にすることを決して言ってはいけません!)、男女間での結婚にまつわる騙された話(←沢山ありました!)など、今まで聞いたことのない様ないろんな話を耳にしました。
 タイ語の先生の父親の紹介で、学校にも行き、そこで演奏もしました。又、日曜の午後から沢山の出店が出る「サンデーマーケット」の通りの一番賑やかな所で、(三線を弾く)沖縄の人や(日本にあるフランス大使館で働いていた)ギター弾きの人と一緒に、篠笛・和太鼓の演奏をしました。(←毎回、帽子の中にお金を少なからず入れて頂きましたが・・・!)
 タイの人、プライドが高い感じで、自分の文化に誇りを持っていて、タイの学校では、私の演奏後に、タイの楽器演奏を聞かされましたが・・・。
 海外でのロングステイの基礎の基礎が、ここで出来ました。思うに、こんな経験、出来るだけ早い内にしていおくべきだと思いました。私の場合は、ギリギリの年齢って感じでした!!
 2004/11/4~11/30の約1カ月間近く、ニュージーランドのオークランドで過ごしました。入国する時、チェックが厳し過ぎる感じで、厭な気持になりましたが・・・ニュージーランド人、親日的な人が多くて、良かったです。
 オークランドにある「日本総領事館」に行って、太鼓を2つ借りました。それも使って、フェスティバルや学校や施設などで、30回余、篠笛・和太鼓演奏して周りました。
 ニュージーランドの英語は、聴くのが難しくて、少し自信を失くしましたが・・・日本の異文化は、どこでも、とても受けました。
 2004/12/9~12/28の約3週間、韓国の釜山市に博多港から行きました。大学と語学学校のダブルスクールに通って、朝から晩まで、予習も徹底的にして、ハングルの猛勉強をしました。(語学学校の先生から、こんなに予習して来た生徒は初めてですと言われてしまいましたが・・・?!)

*写真は、2001年と2012年、韓国の清州市で演奏した時のもの。

*↓佐伯市にある老人施設で、篠笛で、「月の砂漠」を演奏。
http://www.youtube.com/watch?v=oDoi8m23wVI 

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趣味人間の人生のすべて(その12)

2013-12-19 10:26:31 | Weblog

 「勤務医時代を終えて海外へ」

 T(H)病院では、早朝診療も夕方(夜)診療も、私なりに続けました。ドックの部屋で寝泊まりの部屋にすることもしばらく続きました。それは患者さんの為には良かったと思うのですが、問題は、私の治療の仕方が、今までのものとあまりにも違っていたことでした・・・他の医師も患者さんも、面と向かって言われませんでしたが、かなり当惑していたと思います。
 感染で喘息がひどくなりますが・・・そんな感染型の喘息では、アトピー型と違って薬が効きにくいのですが・・・そんな子に、柴胡桂枝湯などを(3日連続2週間おきに)使用したり(←今も、頻回に使用していますが・・・)・・・アレルギーの子の体質改善薬として、手足の温かい腎陰虚の子には、「六味丸」を、そうでない虚の子には、「小建中湯」や「黄耆建中湯」を頻回に使用しました。
 私の頭も堅くて、もう、漢方の世界から抜け出ることが出来なくなり(私なりの治療法を変えることが出来なくなっていて)、副部長と言う立場上、(3年はいるつもりが、2年ちょっとで)突如退職となってしまいました。
 しばらく放心状態って感じになっていましたが、次第に冷静になり、(家内の勧めもあって)ここで心と体のリセットがどうしても必要だと思い、独りで海外に行くことにしました。
 (子ども達にお金が一番必要な時でしたが)家内は、私の夢を叶えてくれました。
 少なくとも1年間、ひょっとすると3年近く(今まで貯め込んだお金をドンドン使って行って)海外に行くことにしました。
 海外で(語学研修や演奏が)出来る様にと、(言葉やお金や情報など)大川にいた時からずっと計画してきたことを、今、現実に実行する時となりました。

 上天草総合病院に就職するまでの渡航歴、15回。
1、1989/3/29~4/1。シンガポール(JTB)、家内と二人で。
2、1999/7/15~7/17。茶道関係者4人で韓国ジョイロード旅行。(この年の5月31日までをもって、たはら小児科医院での診療を終える)
3、1999/7/26~8/11。オーストラリア(シドニー宿泊、ブリスベーン宿泊、グランドストーン宿泊、ヘロン島宿泊)、長女と長男と、佐伯市の姉妹都市のグラッドストーンでの国際フェスティバルで篠笛・和太鼓演奏。(この年の9月末より、福岡県大川市T病院の勤務医となる、T大小児科のスタッフと一緒に2年7カ月間一緒に仕事)
4、2000/10/18~10/24。カナダのトロントにある「日加文化会館」で、「鼓舞龍」の一員として、篠笛・和太鼓で海外演奏、ナイアガラ観光。
5、2001/5/18~5/20。韓国浦項市にて、茶道関係者14名で「合流茶会」をし、その時に篠笛・和太鼓演奏。
6、2001/9/20~9/25。韓国清州市にて、学校や施設で篠笛・和太鼓の演奏。独り旅行。
7、2003/12/5~12/11。アメリカのホノルル。佐伯市とホノルル市の「友情都市調印式」にて、篠笛演奏、「パンチボール」にて篠笛・和太鼓演奏。 佐伯市民と。
8、2004/9/5~10/22。タイのチェンマイ、「サンデーマーケット」にて、路上で篠笛・和太鼓演奏。現地で30回ほど、タイ語の個人レッスンを受ける。独り旅行。(2004年の8月~2005年7月まで、完全なる無職、自分のかってからの夢を叶える為に、イスタンブールから出発の予定であったが、トルコ語を教わっていたAPUの学生さんの都合が付かなくなり、急遽変更→タイ語を教わっていたAPUの学生さんの父親により、タイのチェンマイのゲストハウスを紹介されて、そこに宿泊)
9、2004/11/4~11/30。ニュージーランドのオークランドにて、フェスティバルや学校や施設で、30回余、篠笛・和太鼓演奏。独り旅行。
10、2004/12/9~12/28。韓国釜山市、大学と語学学校にてハングル語(猛?)勉強。独り旅行。
11、2005/1/22~2/8。バングラデシュのダッカで(ベンガル語を教わったAPUの学生さんの家で)ホームステイ、篠笛・和太鼓演奏。独り旅行。
12、2005/2/9~2/17。マレーシアのクアラルンプール(キャメロンハイランドで2泊)。独り旅行。
13、2005/3/1~3/31。インドネシアのバリ島(ウブドで2泊) 。独り旅行。
14、2005/4/18~5/18。イタリアのフィレンツェ(ローマ、シエナ、ピサを観光)で、イタリア語の語学学校で研修。独り旅行。
15、2005/6/11~7/31。カナダのバンクーバー(ヴィクトリアで2泊)とトロント(ナイアガラ観光、モントリオールで2泊、ケベックで2泊)の英語の語学学校で研修。独り旅行。

*写真は、ニュージーランドのオークランドで演奏している私です。
*↓録画は、日本での老人施設での、篠笛での「さくら」の演奏です。
http://www.youtube.com/watch?v=VuQKoxMiQEU 

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趣味人間の人生の全て(その11)

2013-12-18 16:40:05 | Weblog

 「再び、大分県での勤務医時代」

 大川のT病院を去る前に、何度も、留まる様に上の人から言われました。しかし、もう、大分に帰ると決めてしまった後だったので、後ろ髪を引かれる思いで、(大変お世話になった)T病院を後にしました。(宿舎も、とてもいい所でしたが・・・)
 移動は、私の最も苦手なことで・・・この頃になると、荷物がどんどん多くなっていて、それも、趣味に関することの方が多くて(茶道の御薗棚や和太鼓まで)、大掛かりでした(去る時に、スタッフから手伝ってもらったのは、佐伯市の西田病院の時だけでしたが・・・←当たり前ですね)。
 大川にいた時に、大きく私の医療を変えることになりました。それは、私なりにしたことですが・・・→久留米市まで行って「中医学」の講義を1年余受けて、積極的に漢方薬を使用する様になったことです。講師は、ハルピン医科大学名誉教授の肩書を持つ(家系が3代漢方医の)C先生で、熊本からわざわざ出向されていました。講義は、先生の書かれた「現代中医診療の手引き」で行われ、分かり易く、かつ、漢方の薬(エキス剤)が具体的に使い易く書かれていました。講義終了後、個人的に漢方の使い方を毎回の様に教わっていました。(その後、中医学に関しては、上天草市立上天草総合病院に就職した当初、(家系が5代漢方医の)中医学のO先生から、月に2回、3年間程、勉強させて頂きました。)
 また、大川市では、私なりの1時間の「独りボランティア演奏」も、回数を重ねるごとに、進化を少しずつ遂げた(?)感じにもなりました。又、大川市にいる時には、語学検定試験にも挑戦し、51歳の秋に「フランス語5級」、51歳の春に「ハングル5級」、52歳の秋に「中国語準4級」と「ドイツ語4級」に受かり、少し、自信を持ちました。
 平成14年5月~平成16年8月まで、大分市の奥まった所にあるT(H)病院で働きました。就職して休む暇もなく、若い時の様に、救急医療中心に働きましたが・・・当初、時間外に小児を診るのは、実質私1人だけになっていて、歳を考えずに深夜まで働き過ぎて・・・→「流行性角結膜炎」に罹患し、その後遺症で、今も、左の目の視力が低下し・・・眼鏡を長く掛けたままだと、左右差がはっきりするせいでしょうか、疲れる感じになっていますが・・・。
 しかし、その間、私の趣味は、もはや衰えることなく健在でした。
 T(H)病院内で「お茶会」をし、関連施設で演奏をし、又、土曜の午後には、APUのバングラデシュの学生さんから、「ベンガル語」を教わり、その学生さんの紹介で、「インドネシア語」→「タイ語」→「アラビア語」→「トルコ語」と、多国語の世界にどんどん入って行きました。
*ある日、NHKが東京から取材に来ました(↓)
http://www.youtube.com/watch?v=Z1wZgn5aHy0
*写真は、バングラデシュのダッカでのものです。

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趣味人間の人生の全て(その10)

2013-12-18 11:35:13 | Weblog

 「大川→大分勤務医時代」

 開業生活を通じて・・・→「モノや金や地位や名誉に執着する愚かさ、他人と比べる無意味さ、他人を羨むことの醜さ、見栄を張らずに素直に生きれる気楽さ、自分のしたいことが出来ている満足感、他人の為に頑張れる充実感、継続して打ち込める幸福感、生かされていることに対しての感謝の気持ち、かけがいのない自分の存在、多くの趣味、いろんなジャンルでの多くの友、それも、全く同じ感覚で付き合ってくれる友、それが、今から生きて行く上で、私にとっては、お金に替えられない貴重な財産となりました・・・」。
 「たはら小児科医院」を閉院して(←開院よりも閉院の方が大変でしたが・・・)、大川のT病院に就職するまで、(長女と長男と一緒に)佐伯市の姉妹都市のオーストラリアのグラッドストーン市に行ったり、佐伯市のアチコチで講演したり、演奏活動をしたりしました(最後の4年間、佐伯市教育委員会の不登校の顧問になっていましたが・・・)。
 平成11年10月1日~平成14年4月まで、福岡県大川市にあるT病院に勤務して、又そこで、新たな世界を築いて行きました。
 関東のT大系の治療の仕方が、九大系とは若干違っていて(特に、ステロイド剤の使用の仕方が控えめでした・・・)、勉強になりました。又、柳川市にある「柳川療育センター」に当直にしばしば行って、そこでの重症心身障がい児に接して、今まで経験しなかったことをいろいろ知って、勉強になりました。
 T大卒の人が(ベテランの元医局長を含めて)4人いました。驚いたことは、4人共、「きつい・・・」と言う言葉が全く出なかったことです。経験不足の若い先生も、与えられたものを何とかこなして行ける姿に、やはり、T大卒の人は凄いなあと思いました。私の時間外統計ノートにも、快く記載して頂きました。その内の(コンピューターが得意な)人から、エクセルの使い方を教わりました。
 しばらくして、(医局長をしていた人に)部長のポストを譲って、医長となりました(が、私のT病院での机は、そこを退職するまで、部長室でした・・・)。
 家族と初めて別れての独身生活で、年に4回前後しか家族に会えず、失ったものも確かにありましたが・・・(家内は、愚痴一つ言いませんでした・・・)。
 この流れでしばらく行きそうだったのですが、私が医長になって間もなく、T大の都合で、派遣は出来ないと言うことになりました。(と言うことは、最後は、又、私独りにならざるを得ない・・・?!)
 先々、10人以上で、T大から小児科医を派遣して頂いて、(私が昔から抱いて佐伯市で実現出来なかった夢)「(小さな子から中学生まで診る)救急母子センター」を、大川の地で創設するって感じにまでなっていたのですが・・・思わぬ方向に展開してしまいました。
 T大小児科医局からは、その時、九州には、この大川市のT病院と大分市のT(H)の2カ所しか、派遣していませんでした。大分市のT(H)病院も、小児科医が1人だけとなり、既に、困っていました。
 このまま大川に残って、又独りで頑張るべきか、大分市のT(H)へのオファーを受けて、そこに就職するべきか、かなり迷いました。佐伯市に住む私の年老いた両親の意見を尊重して、大分市にあるT(H)病院に副部長で就職することになりました。

*写真は、T(H)勤務時、別府市になるAPU(アジア太平洋大学)の学園祭で、30分間、独りで演奏している私です。

http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20070107/2 

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趣味人間の人生の全て(その9)

2013-12-18 09:10:46 | Weblog

 「再び、大川市で勤務医時代」
 
 採算が合っていたら、ずっと開業生活を続けていたと今でも思っています。しかし、子どもの数の減少、(小児科を診る)医師の増加、予防や治療の進歩などで、佐伯市では、患者数が次第に減少して行きました。
 先の状況が見える状態になっていて、このままでは、赤字になって、多額の借金を抱え込んでしまって、家族が路頭に迷ってしまう・・・そう思う様になりました。
 (金銭的に頼る人が誰もいないので)そんなこともひょとしてあるかも知れないと、開業前に、万が一のことも考えて・・・→赤の他人と7年契約の賃貸関係を結び、入院設備も備えた小児科医院を造ってもらった訳ですが・・・公認会計士(←義理の弟)と相談して、8年半余後に、已む無く閉院としました。
 どこに就職するか、閉院1年近く前からかなり悩みました。頼れる人もなく(その後、大川市のT病院と決まってから、不思議な様に、いろんな話がありましたが、既に、決めた後のことでした・・・)、インターネットで調べたり、医事新報を見て、小児科医の少ない埼玉県下の救急病院に就職しようと、当初思っていました。
 埼玉県の多くの病院の中から、ここだと思った病院を探し出して、電話しましたが、(たまたまでしょうか)そっけない感じでの対応でした。数件掛けても、是非来て下さいって感じの病院はなく、頭を深く下げてお願いする感じの病院ばかりで・・・そんな中で、全く期待しない感じで、福岡県の大川市のT病院にフラっと電話しました。
 その時に電話に出た事務局長Hさんの対応が、全く今までの対応と違ったものでした。「電話して頂けただけでも、とても有難い・・・話だけ聞いて頂けるだけでも有難い・・・」と言うHさんの対応に・・・→この人は信じてもいい人ではないかと思い・・・→取り合えず、会うことにしました。
 遠い大川から佐伯まで、病院の車でわざわざ来てもらい、5時間近く(!)お互いにじっくりと話し合い、こちらの条件(独りでは無理なので、大学のバックが必要、救急医療を毎日したいなど・・・)を言って、もしも条件通りになれば、行くかも知れないと返事をしました(私のポリシーで、お金の交渉は、全くしませんでした・・・)。
 三ヵ月も経たずして、年が明けて、ある日、「先生のご希望通り、T大学から派遣してもらうことになりました・・・」との返事があり、半信半疑でT大学の小児科のホームページを見ると、確かにT病院が関連施設となっていました。
 それで、遠くまで行って留守にしたこともないのに、水曜日(午後休診)の午後に迎えに来たT病院の車で大川まで行き、T病院を見学して、次の日の診療に間に合う様に戻って来ました。(実際にT病院を見て、関係者と話して、就職先をT病院にすることに決めました。)
 T病院では、大きな病院なのに、小児科医が16年間も不在で、(産婦人科もあるのに)小児医療で難儀していました。
 就職する前の私の案で、私を含めて、5人で、小児救急を毎日することになりました。(今は、T大学→F大学の派遣となっていますが・・・T病院での小児の救急医療は、今も、続けられています・・・)
 T病院では、週に2日も休みがしっかりとありました。夏休みもそれなりに休みがありました。大川看護専門学校で小児科の講義をしたり、アチコチで講演したり、独りボランティア演奏をしたり、お茶会を開いたりしました。
 それに、(大川市の教育委員会から任命されて)特別非常勤講師になって、道海島小学校で「篠笛・和太鼓」を教えたりして、充実した日々を過ごしました。
 ここが、最後の職場になるに違いないと思っていましたが・・・。

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趣味人間の人生の全て(その8)

2013-12-17 11:46:12 | Weblog

 「たはら小児科医院開業時代」

 救急病院退職後、趣味(茶道とヨーガから・・・)の中で、(19床の)入院設備を持っての小児救急を中心とした私の意義深くて楽しい開業医生活でした。
 先の救急病院で、小児科が二人体制になって、いろんな趣味に手を出しました。しかし、中途半端になったことの方が多く・・・通信講座で、「ドラム」や「日本画」にも挑戦しましたが、続かなくて(←通信講座の難しさを知りました)・・・「胡弓」を買って挑戦したのですが、やはり、独学では難しかったです。
 そんな中で、これはと思ったのが、「茶道」と「ヨーガ」でした。
 「茶道」の内容、医学部での解剖学の量以上って感じで、その奥の深さに驚かされました。ただ、お点前の順が決まっているので、救われた気持ちになりました(←医療では、はっきりしないことの方が多いので・・・)。
 次の手順はこれしかないって感じで、(小習い16通りなど)一つ一つ予習をして茶道教室に(火曜日の夜)通いました(←予習を私の様にして来るお弟子さん、今まで、いなかったそうですが・・・?!)。
 「茶道」の練習も、「ヨーガ」も、二人体制になってから、しばしば、小児科部長室でヒマがあればしていました。更には、「西田病院お茶同好会」まで創設して(私が会長で)」会員を集め、昼休みに30分間程、練習をしていました。「西田病院同好会」による初めてのお茶会が開催される予定だったのですが、不幸なことがあって、已む無く中止となってしまいましたが・・・。
 「ヨーガ」は、しばらくして、インドで本格的に修行してきた人から教わる様になりました。部長室でも、自宅に帰っても、しばしばしていました。
 M大学からの小児科常勤医の派遣が突如打ち切られ、アチコチの大学に援助を求めましたがどこも余裕がなく、目途が立たない状態で、仕方なく、(それまで全く開業のことを考えていなかったのに)開業した訳で、経営は、試行錯誤の連続でした。
 が、趣味は、太極拳、太極剣、和太鼓(大太鼓)、篠笛、謡曲、仕舞、水墨画、国際交流、多国語などと、どんどんめり込んで行って、抜け出れなくなってしまい、完全なる趣味人間になってしまいました。
 (多くの趣味の中で)全くの素人経営で、多くの人に支えられて、8年半余の入院設備を持っての小児救急医療をメインとした開業生活が終わりました。
 開業中、近所の小学生を集めて「こども茶会」を創設し、子どもによる「お茶会」を何度か開催しました。
 開院する時も、閉院する時も、「お茶会」をしました。
 多くの人に支えられて成し得たことです。誠に有難う御座いました。

*平成2年11月14日の開業時に、西田病院月報に記載した内容を盛り込んだ本、「続・為になるかも知れない本(中)」を「続・為になるかもしれない本」に続く感じで、発行しました。(←「続・為になるかも知れない本(下)」は、まだ、発行していません・・・←今後、どうするのか、未定ですが?!)
*写真は、(道路を隔てて医院の左にある)佐伯市役所に隣接する「(19床の)たはら小児科医院」を上から見たものです。たはら小児科のマークは、たはら小児科の3つのモットーである「赤の救急」「水色の誠実」「ピンクの寛容」黄色の感謝」を表現しています。

http://blog.m3.com/syumi-syounikai/categories/711 

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