日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

趣味人間の人生の全て(その11)

2013-12-18 16:40:05 | Weblog

 「再び、大分県での勤務医時代」

 大川のT病院を去る前に、何度も、留まる様に上の人から言われました。しかし、もう、大分に帰ると決めてしまった後だったので、後ろ髪を引かれる思いで、(大変お世話になった)T病院を後にしました。(宿舎も、とてもいい所でしたが・・・)
 移動は、私の最も苦手なことで・・・この頃になると、荷物がどんどん多くなっていて、それも、趣味に関することの方が多くて(茶道の御薗棚や和太鼓まで)、大掛かりでした(去る時に、スタッフから手伝ってもらったのは、佐伯市の西田病院の時だけでしたが・・・←当たり前ですね)。
 大川にいた時に、大きく私の医療を変えることになりました。それは、私なりにしたことですが・・・→久留米市まで行って「中医学」の講義を1年余受けて、積極的に漢方薬を使用する様になったことです。講師は、ハルピン医科大学名誉教授の肩書を持つ(家系が3代漢方医の)C先生で、熊本からわざわざ出向されていました。講義は、先生の書かれた「現代中医診療の手引き」で行われ、分かり易く、かつ、漢方の薬(エキス剤)が具体的に使い易く書かれていました。講義終了後、個人的に漢方の使い方を毎回の様に教わっていました。(その後、中医学に関しては、上天草市立上天草総合病院に就職した当初、(家系が5代漢方医の)中医学のO先生から、月に2回、3年間程、勉強させて頂きました。)
 また、大川市では、私なりの1時間の「独りボランティア演奏」も、回数を重ねるごとに、進化を少しずつ遂げた(?)感じにもなりました。又、大川市にいる時には、語学検定試験にも挑戦し、51歳の秋に「フランス語5級」、51歳の春に「ハングル5級」、52歳の秋に「中国語準4級」と「ドイツ語4級」に受かり、少し、自信を持ちました。
 平成14年5月~平成16年8月まで、大分市の奥まった所にあるT(H)病院で働きました。就職して休む暇もなく、若い時の様に、救急医療中心に働きましたが・・・当初、時間外に小児を診るのは、実質私1人だけになっていて、歳を考えずに深夜まで働き過ぎて・・・→「流行性角結膜炎」に罹患し、その後遺症で、今も、左の目の視力が低下し・・・眼鏡を長く掛けたままだと、左右差がはっきりするせいでしょうか、疲れる感じになっていますが・・・。
 しかし、その間、私の趣味は、もはや衰えることなく健在でした。
 T(H)病院内で「お茶会」をし、関連施設で演奏をし、又、土曜の午後には、APUのバングラデシュの学生さんから、「ベンガル語」を教わり、その学生さんの紹介で、「インドネシア語」→「タイ語」→「アラビア語」→「トルコ語」と、多国語の世界にどんどん入って行きました。
*ある日、NHKが東京から取材に来ました(↓)
http://www.youtube.com/watch?v=Z1wZgn5aHy0
*写真は、バングラデシュのダッカでのものです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

趣味人間の人生の全て(その10)

2013-12-18 11:35:13 | Weblog

 「大川→大分勤務医時代」

 開業生活を通じて・・・→「モノや金や地位や名誉に執着する愚かさ、他人と比べる無意味さ、他人を羨むことの醜さ、見栄を張らずに素直に生きれる気楽さ、自分のしたいことが出来ている満足感、他人の為に頑張れる充実感、継続して打ち込める幸福感、生かされていることに対しての感謝の気持ち、かけがいのない自分の存在、多くの趣味、いろんなジャンルでの多くの友、それも、全く同じ感覚で付き合ってくれる友、それが、今から生きて行く上で、私にとっては、お金に替えられない貴重な財産となりました・・・」。
 「たはら小児科医院」を閉院して(←開院よりも閉院の方が大変でしたが・・・)、大川のT病院に就職するまで、(長女と長男と一緒に)佐伯市の姉妹都市のオーストラリアのグラッドストーン市に行ったり、佐伯市のアチコチで講演したり、演奏活動をしたりしました(最後の4年間、佐伯市教育委員会の不登校の顧問になっていましたが・・・)。
 平成11年10月1日~平成14年4月まで、福岡県大川市にあるT病院に勤務して、又そこで、新たな世界を築いて行きました。
 関東のT大系の治療の仕方が、九大系とは若干違っていて(特に、ステロイド剤の使用の仕方が控えめでした・・・)、勉強になりました。又、柳川市にある「柳川療育センター」に当直にしばしば行って、そこでの重症心身障がい児に接して、今まで経験しなかったことをいろいろ知って、勉強になりました。
 T大卒の人が(ベテランの元医局長を含めて)4人いました。驚いたことは、4人共、「きつい・・・」と言う言葉が全く出なかったことです。経験不足の若い先生も、与えられたものを何とかこなして行ける姿に、やはり、T大卒の人は凄いなあと思いました。私の時間外統計ノートにも、快く記載して頂きました。その内の(コンピューターが得意な)人から、エクセルの使い方を教わりました。
 しばらくして、(医局長をしていた人に)部長のポストを譲って、医長となりました(が、私のT病院での机は、そこを退職するまで、部長室でした・・・)。
 家族と初めて別れての独身生活で、年に4回前後しか家族に会えず、失ったものも確かにありましたが・・・(家内は、愚痴一つ言いませんでした・・・)。
 この流れでしばらく行きそうだったのですが、私が医長になって間もなく、T大の都合で、派遣は出来ないと言うことになりました。(と言うことは、最後は、又、私独りにならざるを得ない・・・?!)
 先々、10人以上で、T大から小児科医を派遣して頂いて、(私が昔から抱いて佐伯市で実現出来なかった夢)「(小さな子から中学生まで診る)救急母子センター」を、大川の地で創設するって感じにまでなっていたのですが・・・思わぬ方向に展開してしまいました。
 T大小児科医局からは、その時、九州には、この大川市のT病院と大分市のT(H)の2カ所しか、派遣していませんでした。大分市のT(H)病院も、小児科医が1人だけとなり、既に、困っていました。
 このまま大川に残って、又独りで頑張るべきか、大分市のT(H)へのオファーを受けて、そこに就職するべきか、かなり迷いました。佐伯市に住む私の年老いた両親の意見を尊重して、大分市にあるT(H)病院に副部長で就職することになりました。

*写真は、T(H)勤務時、別府市になるAPU(アジア太平洋大学)の学園祭で、30分間、独りで演奏している私です。

http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20070107/2 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

趣味人間の人生の全て(その9)

2013-12-18 09:10:46 | Weblog

 「再び、大川市で勤務医時代」
 
 採算が合っていたら、ずっと開業生活を続けていたと今でも思っています。しかし、子どもの数の減少、(小児科を診る)医師の増加、予防や治療の進歩などで、佐伯市では、患者数が次第に減少して行きました。
 先の状況が見える状態になっていて、このままでは、赤字になって、多額の借金を抱え込んでしまって、家族が路頭に迷ってしまう・・・そう思う様になりました。
 (金銭的に頼る人が誰もいないので)そんなこともひょとしてあるかも知れないと、開業前に、万が一のことも考えて・・・→赤の他人と7年契約の賃貸関係を結び、入院設備も備えた小児科医院を造ってもらった訳ですが・・・公認会計士(←義理の弟)と相談して、8年半余後に、已む無く閉院としました。
 どこに就職するか、閉院1年近く前からかなり悩みました。頼れる人もなく(その後、大川市のT病院と決まってから、不思議な様に、いろんな話がありましたが、既に、決めた後のことでした・・・)、インターネットで調べたり、医事新報を見て、小児科医の少ない埼玉県下の救急病院に就職しようと、当初思っていました。
 埼玉県の多くの病院の中から、ここだと思った病院を探し出して、電話しましたが、(たまたまでしょうか)そっけない感じでの対応でした。数件掛けても、是非来て下さいって感じの病院はなく、頭を深く下げてお願いする感じの病院ばかりで・・・そんな中で、全く期待しない感じで、福岡県の大川市のT病院にフラっと電話しました。
 その時に電話に出た事務局長Hさんの対応が、全く今までの対応と違ったものでした。「電話して頂けただけでも、とても有難い・・・話だけ聞いて頂けるだけでも有難い・・・」と言うHさんの対応に・・・→この人は信じてもいい人ではないかと思い・・・→取り合えず、会うことにしました。
 遠い大川から佐伯まで、病院の車でわざわざ来てもらい、5時間近く(!)お互いにじっくりと話し合い、こちらの条件(独りでは無理なので、大学のバックが必要、救急医療を毎日したいなど・・・)を言って、もしも条件通りになれば、行くかも知れないと返事をしました(私のポリシーで、お金の交渉は、全くしませんでした・・・)。
 三ヵ月も経たずして、年が明けて、ある日、「先生のご希望通り、T大学から派遣してもらうことになりました・・・」との返事があり、半信半疑でT大学の小児科のホームページを見ると、確かにT病院が関連施設となっていました。
 それで、遠くまで行って留守にしたこともないのに、水曜日(午後休診)の午後に迎えに来たT病院の車で大川まで行き、T病院を見学して、次の日の診療に間に合う様に戻って来ました。(実際にT病院を見て、関係者と話して、就職先をT病院にすることに決めました。)
 T病院では、大きな病院なのに、小児科医が16年間も不在で、(産婦人科もあるのに)小児医療で難儀していました。
 就職する前の私の案で、私を含めて、5人で、小児救急を毎日することになりました。(今は、T大学→F大学の派遣となっていますが・・・T病院での小児の救急医療は、今も、続けられています・・・)
 T病院では、週に2日も休みがしっかりとありました。夏休みもそれなりに休みがありました。大川看護専門学校で小児科の講義をしたり、アチコチで講演したり、独りボランティア演奏をしたり、お茶会を開いたりしました。
 それに、(大川市の教育委員会から任命されて)特別非常勤講師になって、道海島小学校で「篠笛・和太鼓」を教えたりして、充実した日々を過ごしました。
 ここが、最後の職場になるに違いないと思っていましたが・・・。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする