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深夜の帝王切開

2007-07-19 15:31:28 | Weblog
  22時ちょっと前から搬入して腰椎麻酔、22時30分から執刀、搬入直前まで、産科の先生は家族に、どうして帝王切開(帝切:カイザ一)をしないといけないかを延々と説明していた。
 22時過ぎているというのに、こんな田舎の病院で、産科のドクタ一(団塊の世代)と(手洗いをして)手術の介助をするナ一ス3人と外周りの3人、つまり、手術場の師長と主任(この病院では、外来も兼ねている)と記録をするナ一ス、それに、助産師と学生二人と小児科医の私、総計11人。
 執刀前に産科医に「CPD(児頭骨盤不適合ですか」と尋ねると、「正確には、この写真の様に狭骨盤ではないんだが、誘導してもどうしても下がってこないんですよ。portioが硬いんですよ、で、こんな場合は、広義ではやはりCPDと言うんですが」と私に説明してくれた。一人でこの病院で15年間も頑張ってきている先生の一言一言は、沢山の経験に裏付けされた最適な判断と思われる。
 何かないなあと思っていたら、いつものバックグランドミュ一ジックが流れていない。「先生、音楽はないんですか?」と尋ねると、「ああ、忘れとった」と言う(急に手術になった為か)。CDを取りに行かせて、持って来させて直ぐに落ちつくいつもの音楽が掛かる。手術中も、常に母親に安心する言葉を投げかけている、「小児科の先生も来ているし、赤ちゃんも、元気にしている、もうすぐ可愛い赤ちゃんが生まれるよ、どっちかな、楽しみだね(この先生の主義で、ここでは教えない)」などといつもの口調。
 子宮にメスが入る前に、その合図があった。皆、緊張している。23時ちょっと前に出て来た。元気にないてる。ホッとする。「男の子だよ、おめでとう」とドクタ一が言う。お母さん涙を流している。直ぐに私の方に助産師さんが連れて来て、鼻から吸引、少し色が悪いので、酸素投与、聴診すると、少しrhonchiが聴かれる。頭がエア一ズロックみたいにド一ム状に尖って硬く形が付いている。赤ちゃんもお腹の中でかなり頑張っていた証拠だ。カイザ一して正に正解であった。その後、いつもの様に母親の乳首を吸わせる(ベビ一の皮膚の色がやや蒼白になってきたので、早くクベ一スにと私自身は少し焦っていたが)。 そして、手術室で温めて待機していたクベ一スに収容して、急いで2階から4階の新生児室に。
 新生児室に移動すると、家族関係者が3人待っていた。「帝王切開ですと、どうしても空気の通り道に入っている肺液が下から出るのと違って出ていないので、少し呼吸数が多くなったりします。それを新生児一過性多呼吸と言うのですが、心配ないことが大部分です。それと、お母さんのCRPが少し高かったので、感染がないかどうか、小児科入院にしてちゃんと検査をしときます・・・」といった内容でしばらく説明する。
 病院を出たのは、0時前だった。翌朝、産科の先生、元気に早くから仕事をしている。「先生、昨日は、遅い時間、どうもありがとうございました」と言われた。
 この病院、小児科医がいなかった時があったが、産科の先生、この時は、さぞかし不安だったろうなあ。この先生がいなくなったら、ここの産科も終わりかなあ、そうすると、小児科も採算が全く合わなくなって(今も、合っていないと思われるが)、消滅かなあ・・・.。


 この日は、家内が来ていた。で、言われた、「西田の時みたいね」と。自分も思い出した、よく、深夜に帝切で手術場に行っていたことを。佐伯の自分の勤務する病院では、帝王切開が月にこの数倍あっていた。
 ある時、手術場に行くと既に帝王切開で産まれていた。アンビュ一をした後に呼吸数が多くなっていた。気になって胸部レントゲンを撮った。何か写っている。血液検査も異常なく、数日もしないで直ぐに消えたが、初め何かわからなかった。アンビュ一を強くした為に縦隔気腫が出来ていたのだ。それ以来、血気盛んな当時の私は、自分にしかアンビュ一を使わせないことにした。そして、帝切には、必ず自分が待機することにした。帝王切開で自分の関わった症例では、幸いにも挿管した例も重症になった例も経験していません。しかし、私の身体は壊れてしまいました。


*このレントゲン写真(昭和58年3月28日、日齢0)は、私に、帝王切開の時に待機して付く様にさせた記念すべきもの。今までに、帝王切開で付いたこと、500以上あるかと思います。

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