日本の心・さいき

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渡辺清一郎先生

2006-11-02 06:48:35 | Weblog
恩師渡辺清一郎先生
 生きる上で今までにいろんな人と出遭い、いろんな影響を受けてきた。その中でも、教師からの影響は、自分にとっては、非常に大きかったと思う。
既に、故人になられたが、渡辺清一郎先生、この先生ほど、自分に影響力を与えた教師は、いなかったと思う。
中学校や高校での教師としての誇りの少ない教師の存在に、いささかうんざりとしていた。卒業する時に、受け持たれた高校の教師の勤務評定を自分でこっそりと付けていた。意欲とか、講義の分かりやすさとか、実力とか、生徒の受けとか、そんな項目に分かれて、それぞれが5点満点で、記載され、その最高得点が、この渡辺清一郎先生であった。
先生は、上野丘高校で活躍しておられたが、家庭の事情で、佐伯に帰って来られた。自分が高校3年生の時に、佐伯鶴城高校に来られ(昭和42年4月~昭和43年3月まで)、幸いに、先生の授業を1年間、みっちりと受けることが出来た。
先生は、一言で言えば、「個性の固まり」であった。髪は、ボサボサで、1年に2~3回しか、髪を切っていない様であった。
「時々、手が出るかも知れん。私も、もう、老人だから、追っかけてまで元気は、もうないから、その時は、逃げてくれ」と、初めの授業の時に、言われた。
又、最後の授業では、「どんな時代になっても、個性を失くすな。個性のある人間になれ!」と言われた。
先生には、実に、いろんなエピソードがあり、ある時、駆け落ちした生徒がいて、空港まで見送ったそうで、その時、校長が、「何故止めなかったのか、あまえには、全く開いた口がふさがらん」とまで、言われていた。
先生の目的は、ただ一つ、「生徒の為に」ということだけであった。毎日、宿題のプリントを与え、模範解答を付けて、直ぐに解答して返していた。先生は、朝、3時過ぎに起きて勉強されていた。その年の大学入試の数学の問題を、夏休みが始まる前までに、全て、解かれていた。又、そうしないと、高校の教師は、務まらないとまで言われていた。口先だけの人間を一番いやがる人であった。
又、先生は、次の様にも言われていた。
「自分は、いい影響を生徒に与えているかどうか、よく分からない。悪い影響を与えているかも知れん。しかし、何にも影響を与えないでいる教師よりも、何か生徒に影響を与える教師の方がいいと思うから、・・・」と。
私が何よりも、その先生の生き方に感化されたのは、その溢れんばかりの生徒に対する愛情と行動力である。そして、不動の信念であった。
先生の次の言葉もしっかりと私は覚えている、「採点間違いではと言ってくる生徒がいる、つまらん生徒になるな。それに輪を掛けて点数を上げるつまらん教師がいる。・・・生きる上で、3つの大きな関門がある。それは、受験と結婚と死ぬ時だ!」と。
先生の生き方に最も影響を受けた人間、それは、他ならぬ自分であったと思う。
「生徒の為に」、医師になっても、「患児の為に」、この至誠ほど生きる上で、価値ある強い生き方は、他にはないと言う事を、身を持って教えてくれた教師、それが、この渡辺清一郎先生で

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